第二話 その呪い、落ちますよ
「あの、剣姫さん。この呪い、かかってから何時間くらい経ちました?」
「……え?」
「大事なところなんです。経過時間で落とし方が変わるので」
アイリスは、何を言われたのかわからないという顔で瞬きをした。
「たぶん……半日、くらい」
「半日か。表面はもう固まりはじめてるけど、芯はまだ柔らかい。間に合いますね」
俺は背負い袋を下ろし、道具を並べた。
真鍮のバケツ。携帯用の小さな火石。灰汁の瓶。それから、いちばん目の細かい清掃用の布。
「ま、待って。あなた、何をする気……」
「掃除です」
火石でバケツの聖水を温める。熱すぎず、手を入れていられるくらい。人肌よりちょっと熱め。
「《深淵の黒泥》は、たぶん油と同じ性質なんです。冷えると固まって、温まると緩む。時間が経つと酸化して、こびりつく。だから無理に剥がそうとすると、下の層――つまりあなたの体まで傷つける」
大聖堂の大司教が解けなかった理由は、なんとなく想像がついた。聖なる力で一気に焼き払おうとしたんだろう。焦げ付いた鍋を強火で炙るようなものだ。余計にこびりつく。
「なので、まずはふやかします。失礼しますね」
温めた聖水に灰汁を数滴垂らし、布を浸して、アイリスの腕の泥にそっと当てる。
じゅわ、と小さな音がした。
黒い泥の表面が、ゆっくりと緩んでいく。まるで、湯につけた古い油がほどけるみたいに。
「……うそ」
アイリスが、かすれた声を漏らした。
「痛く、ない。あんなに焼けるようだったのに……」
「こすってないですからね。浮かせて、拭き取るだけ。――《清掃》」
スキルを込めて布を引くと、黒い泥がするりと剥がれ、布に吸い込まれた。その下から、白い肌が現れる。
腕。肩。背中。首筋。
同じ手順を、焦らず繰り返す。浮かせる。待つ。拭き取る。三年間、毎日床で繰り返してきた動きだ。手が勝手に覚えている。
最後のひと拭きで、彼女の首に巻きついていた泥がほどけた。
そのとき。
布に吸い取ったはずの泥が、ぶるりと震えた。黒い塊がバケツから這い出し、床の上で膨れあがる。目のない顔。裂けた口。怨念の声が、ボス部屋に反響した。
『――ヨクモ、ワガ呪イヲ――』
「呪いの核! 清掃員さん、下がって!」
アイリスが剣を掴んで立ち上がろうとして、膝から崩れた。呪いは解けても、体力までは戻っていない。
黒い塊が、俺に向かって跳んだ。
俺は、モップの柄を握り直した。
「ああ、はいはい。剥がれたあとに固まって残るやつね」
床に落ちた汚れの塊を、ちりとりに掃き込む要領で。
モップの先で、すっと払う。
《清掃》の光が弧を描き、黒い塊は情けない悲鳴を上げて霧散した。あとには、床石に小さなしみがひとつ残っただけだった。
俺はしゃがみこみ、そのしみを布できゅっと拭いた。
「よし。綺麗になりました」
振り返ると、剣姫アイリス・ローゼンハイトが、ぽかんと口を開けて俺を見ていた。
王国最強の剣士が、そんな顔をするのは、たぶんこの国の誰も見たことがないだろう。
「あなた……いったい、何者なの」
「ギルド清掃課の、ノエル・バークです」
俺は懐中時計を取り出して、ふたを開けた。
「で、すみません。残りの床をあと一時間で片付けないと、定時に間に合わないんですが」




