第一話 清掃員、深層へ降りる
冒険者ギルド清掃課の朝は、ボードの前の溜息から始まる。
「……深層四十二階。灰の大迷宮、ボス部屋。至急」
今日の割り当て表を読み上げて、俺――ノエル・バークは天井を仰いだ。
「課長。四十二階って、往復だけで四時間かかりますよね」
「かかるねえ」
清掃課の課長、ドワーフのグラム爺さんは、湯呑みをすすりながらのんびり頷いた。
「昨夜、S級パーティ《金獅子の牙》が四十二階のボスを討伐したそうだ。ボス部屋の瘴気は、三日放っておくと次の魔物が湧く。今日中に頼むよ」
「今日中って、定時までってことですよね?」
「……努力目標で」
「定時までですよね?」
「わかったわかった。定時までで」
言質は取った。俺は愛用のモップと、真鍮のバケツと、薄めた聖水入りの洗剤瓶を背負い袋に詰めた。
冒険者たちはよく笑う。剣も魔法も使わず、モップでダンジョンに潜る清掃員を。俺のスキル《清掃》も、鑑定式では「生活系・汚れを落とす」としか書かれなかった。
でも、この仕事にはひとつ真実がある。
ダンジョンの魔物は、瘴気の溜まり場から湧く。つまり、ボスを倒しても掃除をしなければ、すぐに次が生まれる。この街が三十年、一度も魔物の大氾濫を起こしていないのは――まあ、誰も気にしていないけど、俺たちが毎日床を磨いているからだ。
◆
四十二階のボス部屋は、ひどい有様だった。
巨大な骨の竜が、崩れた山のように横たわっている。床一面に黒紫の瘴気がこびりつき、壁には飛び散った魔力の焦げ跡。
「うわ、焦げ付きがひどい。火力の強い魔法使いが雑に撃ったな……」
俺はバケツに水を汲み、まず床の瘴気から取りかかった。
瘴気には種類がある。さらっとした新しいものは、聖水で拭けば落ちる。時間が経って層になったものは、ぬるま湯でふやかしてから。焦げ付いたものは、灰汁につけ置き。こすりすぎると床石に染みこむから、絶対にこすらない。
モップを滑らせるたび、《清掃》がほのかに光り、黒紫の汚れが嘘みたいに薄れていく。
半分ほど片付いたところで、部屋の隅から、かすかな音がした。
「……ぅ……」
人の声だ。
骨の竜の陰を覗き込んで、俺は息を呑んだ。
少女が、倒れていた。
金色の長い髪。裂けた白銀の鎧。手には、刃こぼれひとつない細身の剣。冒険者じゃなくても、この国の人間なら誰でも知っている顔だった。
《金獅子の牙》の主力。王国最強の剣士、“剣姫”アイリス・ローゼンハイト。
その全身を、黒く粘つく泥のようなものが覆っていた。泥は脈打ち、少しずつ彼女の肌を這い上がって、首筋に届こうとしている。
「……仲間は、どこに……」
「いません。ボス部屋には、あなたしか」
アイリスの青い瞳が、ゆっくりと絶望の色に沈んでいく。
「そう……置いていかれた、のね。これは《深淵の黒泥》。ボスが最後に吐いた呪い。大聖堂の大司教でも、解けない……」
彼女は弱々しく笑った。
「逃げて、清掃員さん。触れたら、あなたまで呑まれる」
俺は、泥をじっと見つめた。
黒くて、粘りがあって、表面がてかてかしていて、時間が経つほど硬くなる。
……どこかで見た汚れだな、と思った。




