閑話休題 ― 習い事というもの
ここで少し、習い事について話をしておきたい。
ずっと、ずっと後年になってからのことだ。
ある人に、こんなことを言われたことがある。
「習い事をたくさんできるのは、ステータスなんだぞ」
私は、その言葉に驚いた。
「へぇ。そういう考え方、そういう見方もあるのか」
それまで、私にとって習い事とは、自分の意思とは無関係に通わされ、結果を求められ続けた、苦痛を伴うものだった。
それが、他人の目には一種の恵まれた環境として映ることもあるという。
理由を尋ねてみた。
すると、こんな答えが返ってきた。
「それなりの経済力がなかったら、子供にいくつも習い事をさせることなんてできないだろう」
なるほど。
言われてみれば、確かにそうかもしれない。
スイミングスクールに、エレクトーン。
いずれも、決して費用のかからない習い事ではない。
ある程度の経済的な余裕がなければ、複数の習い事を続けさせることは難しいだろう。
あるいは、決して裕福ではなくても、親がほかの支出を切り詰め、子供の教育にお金を振り向けている場合もあるのかもしれない。
そう考えると、習い事をさせてもらえること自体には、確かに価値があったのだと思う。
さまざまな経験ができる。
新しい知識や技術を身につける機会が得られる。
学校や家庭だけでは触れることのできない世界を知ることもできる。
そうした経験の積み重ねは、その後の人生において、何らかの財産となることもあるだろう。
では、なぜ私は、あれほど習い事を嫌がっていたのだろうか。
今にして思えば、習い事そのものが嫌だったというよりも、そこに至る過程や、親の接し方に問題があったのではないかと思う。
私の意思は、ほとんど確認されなかった。
何を習いたいのか。
そもそも、習いたいと思っているのか。
何が楽しく、何が苦痛なのか。
そうしたことを尋ねられた記憶はない。
そして、習い事を続けるうちに、母の言葉は次第に厳しくなっていった。
結果を求められ、期待に応えられなければ、さらに厳しい言葉を向けられる。
少なくとも、当時の私にはそう感じられた。
私は萎縮し、気持ちは荒れ、やがて習い事そのものまで嫌になっていった。
母に対する反感も、ますます強くなった。
本来なら、新しいことを覚える喜びや、少しずつ上達していく楽しさを味わう機会になったのかもしれない。
しかし、私にとって習い事は、いつの間にか、楽しむものではなく、結果を出さなければならないものになっていた。
そして、その結果を求める母の存在が、私には重荷だった。
もちろん、親には親なりの考えがあったのだろう。
子供にさまざまな経験をさせたい。
何か一つでも、将来役に立つものを身につけさせたい。
そうした思いがあったのかもしれない。
ただ、その思いと、実際に子供がどう感じているかは、必ずしも一致するものではない。
子供のために何かを与えることと、子供の気持ちを理解することは、同じではないのだ。
あれから、長い年月が過ぎた。
今の私は、習い事そのものには十分な意義があると思っている。
さまざまな経験を積めることも、それを支える経済的な環境があることも、決して当たり前ではない。
その価値は、今なら理解できる。
しかし、それでもなお、幼い頃の自分が感じた恐怖や苦痛まで、なかったことにはできない。
習い事をさせてもらえたことへの評価と、その過程で傷ついた記憶は、私の中で別々に存在している。
もし、あの頃の私の気持ちを、少しでも尋ねてもらえていたなら。
もし、結果だけではなく、取り組む過程にも目を向けてもらえていたなら。
私にとって、習い事はもっと違った思い出になっていたのかもしれない。
今では、そんなふうに思うのである。




