第2章 小学生編 ― 深まる孤独
幼稚園時代の私は、周囲の空気を読むことができず、人の輪になじめないまま、日々を過ごしていた。
家庭でも、自分の意思とはほとんど無関係に、次々と習い事に通わされた。
まるで、ベルトコンベアで運ばれるモノのように。
私は、周囲になじめないという、得体の知れない違和感と戦い続けていた。
なぜ、自分だけがみんなと同じように振る舞えないのか。
なぜ、ほかの子供たちには当たり前にできることが、自分にはこれほど難しいのか。
その理由がわからなかった。
そして何より、その苦しみを誰かに相談したかった。
しかし、両親は気づかなかったのか、それとも気に留めなかったのか。
私の内面にある苦しみには目が向けられず、相変わらず習い事に通うことを求められ続けた。
そんな状態のまま、私は小学校へ入学した。
当然のことながら、環境が変わったからといって、人間関係が突然うまくいくはずもなかった。
しかも、当時は根性論や体罰が教育の現場でも幅を利かせていた時代である。
発達障害という言葉さえ、今ほど知られてはいなかった。
私は小学校でも、やはり「変わり者」として扱われた。
特に、一年生と二年生の頃については、良い思い出がほとんどない。
私は、とにかく忘れ物が多かった。
祖母が、わざわざ学校まで忘れ物を届けてくれたこともあった。
自分では気をつけているつもりでも、なかなかうまくいかない。
そんな私に対して、担任の先生はどのように感じていたのだろう。
通知表には、今も印象に残っている記述があった。
「とても難しい言葉を知っているけれど……」
正確な文面をすべて覚えているわけではないが、そんな趣旨のことが書かれていた。
今にして思えば、先生は私の良いところも認めてくれていたのかもしれない。
幼稚園時代の「お話の名人」と、どこか通じるものがある。
しかし、私がいじめに遭っていたことや、集団の中でどう振る舞えばよいかわからずに苦しんでいたことについて、理解や配慮を受けたという記憶はない。
本当に、過酷だった。
自分ではどうにもできないことを、周囲から理解してもらえない。
困っていても、何に困っているのかさえ、うまく説明できない。
そして、誰にも相談できない。
だが、私を最も深く傷つけたのは、別のところにあった。
周囲の子供たちは、日々成長していた。
友達を作り、集団の中での振る舞い方を覚え、相手との距離の取り方を学んでいく。
時には喧嘩をし、仲直りをしながら、人間関係を築く力を少しずつ身につけていく。
ところが、私にはそれができなかった。
どうすれば人の輪に入れるのか。
どう話しかければよいのか。
どんなときに何を言い、どんなときに黙っていればよいのか。
周囲の子供たちが自然に身につけていくように見えることが、私にはどうしてもわからなかった。
みんなは前へ進んでいる。それなのに、自分だけが取り残されていく。
その感覚が、私の心を深くえぐった。
単に友達が少ないということではない。
友達の作り方そのものがわからない。
人と楽しく交わりたいと思っても、その方法がわからない。
そして、その理由さえわからない。
幼い私にとって、それは絶望的な悲しみだった。
孤独だった。
本当に、孤独だった。
何よりつらかったのは、この苦しみを誰にも理解してもらえなかったことである。
繰り返しになるが、私には理解者も相談相手もいなかった。
幼稚園時代、私は自分の心のドアを静かに閉めた。
小学校に入っても、そのドアが開かれることはなかった。
それどころか、私の心のドアには、また一つ、固い鍵がかかった。
一方、両親はどうだったか。
少なくとも私の目には、学校の成績が良く、習い事に通ってそれなりの結果を出していれば、それで満足しているように映った。
私が学校でどのような思いをしているのか。
友達との関係に、どれほど苦しんでいるのか。
そうしたことに、関心を向けてもらえているとは感じられなかった。
そして、そんな私をさらに追い詰める出来事があった。
母が、子供同士の人間関係に介入してくるようになったのである。
ただでさえ、自分の力で人間関係を築くことが難しかった私。
そこへ、母親まで入り込んでくる。
そのことが私に何をもたらしたのか。
ここからは、その話をしていきたい。




