待ちワウト
個人タイムトライアルを1分近い差で制した男が、集団の速度変化に置いていかれる。
レムコ・エヴェネプールは、幼いころから自転車だけをやってきた選手ではない。少年期の中心はサッカーで、本格的にロードへ移ったのは遅かった。圧倒的な出力で勝ちながら、集団走行や下りの経験不足を指摘され、2020年のイル・ロンバルディアでは橋から谷へ落ちる大事故も経験した。
それでも、1人で速いことだけに閉じこもらなかった。トップレベルのロードレースを走り続け、集団の中での位置取りも、下りも、コーナリングも経験を積んだ。その一方で、もともとの武器だった独走力も研ぎ澄ませた。空気抵抗を削り、姿勢を削り、機材を詰め、コーナーへの入り方と立ち上がりまで秒へ変えてきた。
1週間前の39.2kmでは世界選手権個人タイムトライアル4連覇。
それだけに、そのレムコが集団の速度変化に置いていかれる場面は異様だった。
ロードレースでは、自分の出力だけでは速度を決められない。
残り57km。登坂でデル・トロが加速すると、レムコが千切れていく。
ワウトは肩越しに後ろを見た。前方の逃げには、マチュー、ログリッチ、シモンズ、オンリーの4人。ワウト自身も集団から離れながらレムコを気にしていたが、この時点ではまだ、そこまで下がらなかった。
残り4周、53.6km。逃げの4人へ向けて単騎でブリッジを掛けているのはベン・ヒーリー。19秒差で5番手を通過した。選手の表情がわかるほど拡大された映像では、足元のラインも頭上のゲートも見えないが。
「彼は現時点では進めたくないと決めたのか、もしかしたら、彼は調子を落としているのかもしれないし、ピドコックがすぐ後ろに迫っていることを知っているのかも知れない。」
解説といえど、リアルタイムの選手の状態を把握できるわけではない。ピドコックを気にしているという解説は、イギリス選手に向けられたものだということは明らかだ。逃げに加わっているオスカー・オンリーについてである。
ワウトのいる集団は先頭の約28秒後。さらに後ろのレムコがいる追走集団について、リプレイ映像とともに数字が伝えられる。
「24人、46秒差。」
ピドコックが落車したときに残っていた大集団は、数えられるほどにまで減っていた。
次の登り、カミリアン・ウードでマチューが再び踏み込む。
公式による登坂距離は2.3km、平均勾配6.2%だが、激坂区間だけを切り取ると、1.6kmで斜度は7.4~7.7%、最大勾配はなんと11%である。45°なら1m進むごとに1m登ることになるため、100%となる。ロードレースで使われる坂道の表現だ。たとえば一般的な階段など、登るための斜めとして馴染み深い角度と比較すると、1m進むごとにたった11cm登るだけかと、大したことないように思える。ならば、一般的な長さの長机の一方を、20cmくらい持ち上げることを想像してみるといい。それが11%だ。不思議なことに、激坂などと呼ばれる意味が、直感的により一層わからなくなる。よし、説明を放棄しよう。
さて、すぐに反応できたのはシモンズだけ。ログリッチとオンリーは離れ、ログリッチは戻ったが、オンリーは後退した。逃げは3人になる。同じ場所で後方からデル・トロも加速して集団をばらけさせるが、下りに入るとまとまる。そのさらに後ろでは、レムコが追走集団の先頭を走っていた。
ヒーリーは逃げから落ちてきたオンリーと合流する。別の集団からはマイケル・マシューズが単騎でブリッジを試みる。やがてレムコが加速し、自分のいた追走集団を切り離した。
残り45.4km。前方の集団後方で、肩越しに後ろを振り返るワウトが映る。フリーウィーリングだ。脚を止め、ホイールを空転させ、慣性だけで進むことだが、ここでは先頭集団から離れてレムコを待つという意思表示である。
レムコ後方からのカメラは、速度を合わせるワウトのペダリングを捉えた。スーパーワウトの代名詞とも言える、得意の前待ち作戦を準備するような背中だった。頼もしい背中の牽引により、ほどなくワウトはレムコを前方の集団へ戻し、ブリッジ成功となった。このときには、単騎で前を追っていたマシューズも吸収されていた。
レムコが戻ると集団は再び活性化し、ワウト、レムコ、デル・トロらが速度を上げる。一方、逃げる3人をヒーリーとオンリーが協調して追った。残り3周のラインでは、逃げの3人から18秒後にヒーリーとオンリー。ワウトは32秒差の集団先頭を牽いて通過した。
周回冒頭のカミリアン・ウードでヒーリーが加速し、オンリーを置き去りにする。そして残り38.7km、中継はワウトをクローズアップした。後に本人はこう振り返っている。
「4、5周を残したところで、もう何も残っていなかった。」
まさにレムコが遅れていった時点だ。あのときすぐに引き上げる判断をしなかったのは、離れれば共倒れになるといった不安があったのかもしれない。ダメになったところにダメになった者が合流すると、傷を舐め合うというわけではないのだろうが、復帰が絶望的になることがある。一方で、レース中に調子が上がってくることもある。
ワウトが語った以上に、実際がどうだったかは誰にもわからない。
それでもレムコを引き戻し、さらに集団の速度を作るところまで仕事を続けた。
ワウトは、今にも倒れそうなほどふらふらになる姿をさらして、後退していった。
ワウトのレースが、終わった瞬間だった。
レース後、レムコはその仕事を自分の不調と切り離して語った。
「ワウトがしてくれたことには感謝している。」
そして、自分については。
「最初の周回から感覚が悪かった。言い訳はないよ。このコースで勝つには、良い脚が必要だった。」




