60Kの予防線
「10seconds! 10K!」
最終周回、マクナルティが先頭集団に最接近を許したとき、そんな実況が流れた。
10K。
時速10kmではない。残り10kmである。
奇しくも、カミリアン・ウードを越え、残り距離とタイム差の絶対値が、揃った。
速度は時速24kmくらいが、カミリアン・ウード辺りでは表示されていたように思う。
◆
あれから1週間。
筆が乗るうちに、一気に書き上げた。
なぜなら日本では、その日にブエルタ・ア・エスパーニャの再放送が、無料放送枠であると知っていたから。
◆
時速61kmで走行中。
道幅いっぱいに、選手たちが広がっている。
2026年ブエルタ・ア・エスパーニャ、第8ステージ。
私は、結末を知っている。
「ポガチャル選手はステージレースでの落車リタイアがないんですよね。」
展開が目まぐるしく変化する状況でなければ、そんなうんちくが語られる。
どこか感心の裏に、嬉しさが滲んで聞こえた。
解説は、しゅ〜く〜り〜むらでお馴染みの、栗村修さん。
2021年ツール・ド・フランス第1ステージでも解説を務め、あのオピオミ事件のときには真剣に選手たちを心配する様子が見られた。
それ以降の実況解説の熱の下がり具合は、1段どころじゃなかった。
空撮映像で、集団の一部が壊れた。
解説も慌てる。
誰だ誰だと誰何する。
瞬時に、落車が起こったということを確信した。
ポガチャルだった。
何度かリプレイされることは分かっていた。
そして、一番目を背けたくなる映像が、ついに映し出される。
赤。
ラ・ロハ。
マイヨ・ロホ。
そして、肩口でそれが大きく破け、覗く、血。
時速60km、生身。
何度も見た映像なのに、言葉にならない。
音は出ているが。
テレビでは、転び方から原因の可能性を並べ始める。
私は、崩れ始めてから赤い点が止まるまでの距離を、動かない道路からおおよそで測っていた。
集団走行を追った映像ではどうしても、動かない塊の一部が崩れたように見えてしまうのだ。
数値的なことは分からない。
交差点の大きさが分からないから。
そんなことに気付く。
そんな時に頼りにするのは、ロードバイクの長さ。
止まった集団に並ぶ自転車たちが、距離を教えてくれた。
それで数値化したかというと、してはいない。
それどころじゃないことが、目の前に映し出されているからだった。
うずくまり、自転車に手を掛けるポガチャル。
私にとってはもはや顔馴染みのUAEのみんなが、集団から遅れて走っている。
画面にチームの選手一覧がゼッケン番号順に表示される。
一番上のポガチャルだけが、黒かった。
abandon
Tadej Pogačar
「あー、リタイアですね。」
先頭集団も、ペースを落としている。
直前まで、勝負所を目前に緊張感が高まっていると言われていた集団が、嘘のように鎮静化していた。
やはり解説陣の熱量の下がり具合は、1段どころではなかった。
◆
実際に事故が起こると、予防策が講じられる。
それでも、時速60kmで生身を晒して走る競技に、事故そのものを完全に防ぐ予防線など張れない。
◆
ログリッチだもん。凄いんだって!
なぜか今なら、手放しで言える。
自分で書いておいて、その言葉が少し引っ掛かった。
これからも、ではない。
もう一度、昔みたいに応援できるようになった、でもない。
連載小説であれば、綺麗に終わらせる。
だが残念ながら、連載部分を終えて、ここは番外編である。
◆
事故に遭って、まともに練習もできないところからブエルタを走り切った。
総合2位。
世界選手権では、逃げた。
遅れた。
戻ってきた。
最後には21位だった。
それを全部見終えた、その瞬間。
ログリッチだもん。
凄いんだって。
そう思った。
嘘ではない。
では、なぜ今ならなのだろう。
たぶん私は、いつからかログリッチを、腫れ物に触るみたいに見るようになっていた。
まず、落車する。
いや。
そんな言い方をしたら、まるで本人が好きで落車しているみたいだ。
ロードレースでは誰だって落ちる。
世界最高峰のバイクコントロールを持つピドコックだって、今回の世界選手権で落ちた。
だけど、ログリッチの落車は、私の中に積み重なりすぎた。
ツールから消える。
また消える。
ようやく別のチームでツールへ戻ってきたと思ったら、また消える。
ジロでも転ぶ。
今年はレースですらなかった。
ブエルタへ向けて練習している道路で、自動車にはねられた。
また怪我をするんじゃないか。
そう思う。
私はどうしても、落車の映像を直視できない。
今年ポガチャルが倒れたときも、そうだった。
怪我をするところを見たくない。
そうすると、見られなくなるから。
だから、最初から見ない。
好きな選手を見られなくなるのが嫌だから、好きな選手を見ない。
何をやっているんだろう。
自分でも、本末転倒だと思う。
けれど、それだけではなかった。




