U・S・A! U・S・A!
残り12.7km。1382mというカミリアン・ウードの残り距離が併記される。
最後のカミリアン・ウードへ入ると、目に見えてマクナルティの脚から力が抜け始めた。
本人は後にこう語った。
「最後の登りでは、ゾーン2くらいしか出ていなかった。死にそうだったけれど、ただ踏み続けた。」
世界選手権を勝とうとする男の出力ではない。長時間維持できるはずの穏やかな強度を、彼は死にかけながら絞り出していた。別の言葉では、もっと単純だった。
「最後の登りは、本当に死にそうだった。最後の300mまで、勝てると思えなかった。」
普段、5時間走っても1%しか出力が落ちないと言われる絶対的エースをアシストする男は、この時すでに、限界を迎えていたのだ。
後方でピドコックとチッコーネが加速する。
30秒。
20秒。
頂上付近で、10秒ほど。
追走から星条旗の背中が見えた。
マクナルティは、終わりかけていた。
残り10km。
「マクナルティは現在10秒リードしている。彼は最後の登りの頂上で完全に崩れ落ちたが、すべてが元通りになるだろう。マクナルティはどこにいる?ちょっと見てみましょう。」
空撮が、広角で俯瞰する。
「彼がそこにいる!彼にはまだ10秒残っている!まだ終わっていない!10秒、10km!」
追走は、もう届きそうだった。
だが。
「非常に僅差だが、すぐに埋まるかは。見ろ!またしても彼らは互いに見合っている!フリーウィーリング!誰が行く?!誰が行く?!」
追いついた者は、そこまで誰かの車輪を使った。
追いつかれた者は、それまで風を受けた。
ひとまとまりになった瞬間、全員が次に誰が行くかを見る。
「今こそその差を埋める時だ!でないと彼はまた去ってしまうだろう!」
10秒を閉じれば、世界王者を争える。
10秒を閉じるために自分がすべてを使えば、その直後にマチューかマシューズかデル・トロに負ける。
誰もが正しく考えた。
正しい判断が集まり、追走は止まった。
「ジョーゲンソンが先頭でペースを落としている。」
前へ出ないだけではない。必要な場所にいる。誰かが本気で追い始めれば、その車輪へ入る。
そして、自分はマクナルティとの差を縮めるための風を受けない。
残り8.3km。
画面に先頭集団一覧がゼッケン番号順に表示される。
セクサス、チッコーネ、ピドコック、ファンデルプール、ジョーゲンソン、マシューズ、ヒーリー。
「デル・トロは様々な理由から、乗る理由ができていないと思う。レムコ・エヴェネプールが現れた!」
一覧にはいない選手が、画面には映っている。
グループ2シンドローム。
追走が一枚岩ではないことを、ジョーゲンソンはさらに悪化させる。
画面に先頭集団一覧がゼッケン番号順に表示され直す。
エヴェネプール、セクサス、チッコーネ、ピドコック、ファンデルプール、ジョーゲンソン、マシューズ、デル・トロ、ヒーリー。
残り7.4km。
「ポリテクニークの丘!このレースは本当に素晴らしい!」
画面には、合わせ鏡のようにモニターの中へモニターが続いている。
そのモニターを見つめる背中たちが語る。
USA、USA。
いや、こうか。
U・S・A!U・S・A!
画面に先頭集団一覧がゼッケン番号順に表示される。
エヴェネプール、セクサス、ピーダスン、チッコーネ、ピドコック、ファンデルプール、ジョーゲンソン、シモンズ、マシューズ、デル・トロ、シュミット、ヒーリー。
先頭集団は12人。そこに、アメリカは2人。1.6割。
そのさらに前には、もう1人いる。マクナルティだ。10割。
「先頭の1割以上を、常にアメリカ人にする。」
単純であることは、簡単であることと同義ではない。
集団の人数が増えるということは、集団の速度が落ちていると言う証拠だ。
集団の人間が増えるということは、それだけ交わす視線が多くなるということだ。
タイム差は34秒まで開き直していた。
捕まりかけた男が、また遠くなった。
マクナルティはポリテクニークの丘の頂上を越えた。
追走も下りへ入る。マチューが加速する。ジョーゲンソンがつく。
追う者。追えない者。
もはや作戦も何もなく、脚の残り具合が如実に表れていた。
見えるものから相手の調子を覗い、自分を抑えるか、爆発させるかを見極める。
そんなレース勘がものを言う段階だった。
マチューは振り返った。
マチューは、ピドコックと同じくシクロクロス選手でもあり、マウンテンバイク選手でもある。
東京オリンピックではMTBの優勝候補の一人とされたが、サクラドロップに半回転しながら映像内に飛び込んで来た。衝撃のリタイアだった。試走中にはあった岩の陰に位置する踏板が、本番では外されることを、聞いていなかったという。
見えるものから判断するとき、見えないところのものは見えない。
そんな男の判断基準は、自身に備わる回復力によって広げられているかもしれない。マチューは番手につき続けるジョーゲンソンをモニター越しに追っていたわけではない。直前で見たアシストは、レムコの鋭い突撃の後方で休みつつ、脚を引っ張るというような方法だった。
ジョーゲンソンには、脚が残っている。
自分がマクナルティとの差を消せば、ジョーゲンソンをフィニッシュまで連れていくことになる。道中同じ星条旗にずっと張り付かれていただけに、警戒が高まっていたのかもしれない。
そして、踏むのをやめた。
マウロ・シュミットが動いた。ピドコックが動いた。ヒーリーが動いた。デル・トロが動いた。
ジョーゲンソンは、そのたびに現れた。
それをマチューが見ていたとすれば、今さらになって判断を改めたかもしれない。
一瞬の決断の結果を取り戻すためには、重ねる消耗が重すぎる。
ここは、体格の大きい選手にとっては厳しい激坂区間の一つなのだ。
マクナルティがパニュロの坂をダンシングで駆け登る。
観客の顔が、隠れずに連なる。
道路が上へ向かっていることを、それだけで感じさせた。
標高だけではない。
熱気も最高頂へと達しようとしていた。
今日だけでも12回目ともなれば、これを越えれば、残りは4kmにも満たない。
マクナルティも、それを理解しているに違いなかった。
後方ではマウロ・シュミットが先頭。ピドコックは相変わらず、小さな身体を左右に振っている。
未だにジョーゲンソンの警戒を引き上げ続けている驚異的な選手だ。
集団にはシモンズもいる。
そして、パニュロの坂で、セクサスが脚を押さえた。
「彼は終わった!」
容赦のない言葉が、現実を突きつける。
フランスは序盤から道路を厳しくした。
アルミライルは60km以上にわたって集団を牽いた。
セクサスを最後へ届けるために作られた長い消耗戦。
その消耗から、フランスだから自由でいられるなどという保証は、どこにもなかったのだ。
前では、マクナルティが1人でペダルを踏んでいた。
速く走っているというより、止まらずにいた。




