魔法
先頭はピドコックへ代わり、強く踏み続ける。その後ろにヒーリー。そのさらに後ろ。ジョーゲンソンはシッティングのまま、車輪から離れない。
無酸素運動の負荷を強いられる先頭に対して、3番手というのは科学的にも6割程度の労力で済むとさえ言われている。これは、たとえば風洞実験というレベルまで整えた条件下で、統計として整理されたドラフティング効果の値である。
※ 実験上の結論を用いる際は、ご一緒に条件をお求めになって、用量用法を守って正しくご利用ください。
大きく風を受けるダンシングから下りまで、目まぐるしく背中を変えるという条件のジョーゲンソンへの参照値とする場合と、レムコに反映させる場合と。
前提が異なれば、結果は異なる。
車輪につけば、先頭より楽。
そんな言葉は、とりわけ活性化しているレース中において必ずしも適切ではないということは、フランスのふるい落としから見てきた後ではもう、言えなくなっていた。
「ジョーゲンソンはまるで、マジックテープのように張り付いたままだった!」
原語は Velcro、面ファスナー。馴染みのある日本語に訳すならば、マジックテープという和製英語が顔を出す。けれど、このマジックという響きの方が、ジョーゲンソンの仕事をよく表しているように思えた。
誰かが動けば、その車輪に入る。危険が消えれば離れる。また別の誰かが動けば、そこへ張り付く。
追走だけが、成立しなくなっていく。
完璧な仕事は、ときに魔法のように見える。
直前には49秒と1分11秒が、59秒に統合された。
とんでもないという言葉は、どこまでを指しているのだろうか。
残り15.3km。中継が2画面表示になった。
マクナルティと追走の距離は948m。
27秒後。残り14.9kmでは819m。
数字だけなら、マクナルティが400m進むあいだに、129mも縮まったことになる。
同じ画面の速度表示は、時速41~50kmのあいだを乱高下していた。どちらの速度だろうか。
これが後続の集団の誰かの速度を拾っていて、協調が崩れている感じだとすると。129mを400mで縮めるなら、計算上時速17.2kmの速度差。マクナルティは時速23~33km、中央値で時速28kmということになる。あり得る。
あるいはGPSなどから算出した推定表示なのだろうか。単純な直線距離を出してしまうことによる短縮、電波の乱れによる乱高下、あり得る。位置的にはマクナルティがフラムルージュに向かう直線ルートに入るところ。後続はまだ、それと直交する道か、その前にいるはずなのだ。マクナルティが平坦で、後続は下り基調。少なくとも、400mのうちに本当にコース上のギャップが129m縮まった、とすぐに受け取ることはできない。自転車レースあるあるの時間表示の罠のからくりの1つだと思って参考値程度に留め、ラップタイムを待ってもいいかもしれない。
フィニッシュラインまで1kmを示すフラムルージュを、マクナルティが越える。
最終ラップへ入ろうとしていた。どれだけ離れているかを知りたいときに限って、わからなくなる。フィニッシュライン直前という位置は、そういうものだ。
残り距離が消える。表示はスタートからの経過時間となり、フィニッシュラインを越えるとギャップタイムをカウントアップさせていく表示形式が画面上に準備されるのだ。
そして、ホームストレートでは、正面のコース脇から選手の表情まで捉えられるような、最高級の望遠レンズが用いられる。モトカメラの映像で捉えるような選手間の距離が目と鼻の先に見える映像も、1km以上離れているということもあり得る。そんな映像が映し出される位置だ。
後方ではデル・トロが集団を牽き、ジョーゲンソンが番手につく。その集団の行く先にも、ようやくフラムルージュが見えてきた。
ここで最後尾から、レムコが飛び出した。道幅いっぱいを使い、道路左側へ斜めに切り込む。
一気に2位へ上がる。
「レムコ・エヴェネプールによる道路左側からのアタック。何という攻撃だ!」
マクナルティが残り32.6kmで見せたのと同じように、広い道路を横へ使って速度差を作る。最後尾でわざと少し間隔を空け、前の選手に気付かれないように踏み始め、速度差をつけてから道幅いっぱいを使ってアタックする技術。それは、マクナルティの抜け出しのように、ジョーゲンソンを必要とはしなかった。
もはやレムコは、集団の中で戦えない選手などではなかった。
だが、ジョーゲンソンは追わない。
「他のライダーにもやらせる。必ずしも一人で追い掛ける必要はない。」
先ほどまで、ピドコックやチッコーネやヒーリーが飛び出せば、自分でダンシングして追っていた。
だが、レムコなら。
2026年のツール・ド・フランスで、ポガチャルを相手とするレベルで登れるようになったことを、ついに証明してしまった男。頂上が見えるような丘ではない。激坂区間を多分に含む、超級山岳などと呼ばれるような坂で、だ。
そんな男がフラムルージュ前の平坦から、登り基調の丘をフィニッシュラインまで一気に駆け抜ける。ここで出遅れると、最後のフィニッシュラインでは3位以下の争いに甘んじなければならなくなる。そんな展開を思い浮かべる選手が、どれだけいることか。
追うべき攻撃と、自分が追わなくても必ず追われる攻撃。
その違いだった。
ジョーゲンソンは番手へ入らず、集団後方へ下がって脚を休ませたまま、フラムルージュを通過した。
合流しきれていなかったピーダスンが映る。シモンズがその背後につき、集団へ合流かというタイミングで、前方のマクナルティが最終ラップの鐘を鳴らした。
ゴールストレートは登り勾配。デル・トロが牽く集団はレムコへ接続し、完全に吸収するというより、一列につながった形で最終ラップへ入る。
レムコが、2位通過。
画面のタイム差表示は、52秒から53秒へ切り替わるところだった。




