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第21話 八年分の領収書

第21話 八年分の領収書


十一月の夕方、紗季は勤務先の事務所を出る前に、机の上の書類を日付順にそろえた。窓の外はすでに暗く、向かいのビルの非常階段へ冷たい雨が斜めに降っていた。紗季は白いブラウスの上に薄茶色のカーディガンを着て、その上から紺色のコートを羽織った。昼休みに食べ切れなかった鮭のおにぎりが鞄の底に残っていたため、帰ったら大根と油揚げの味噌汁を温め、それと一緒に食べようと考えていた。


「お先に失礼します。湯沸かし器の電源は切ってあります」紗季が声をかけると、残業していた同僚の西村が、紙コップのコーヒーを持ったまま顔を上げた。西村は紗季の机に置かれた小さな封筒を見て、首を傾げた。「忘れ物はありませんか。今日は雨ですから、足元に気をつけてくださいね」


「ありがとうございます。これは忘れてはいけないものなので、鞄の内ポケットへ入れておきます」紗季は封筒の端を指で確かめ、ファスナーのついた場所へしまった。何度も開いて中身を確認したため、封筒の角は少し毛羽立っていた。「西村さんも、あまり遅くならないでください。冷蔵庫に昨日のお菓子が残っていますよ」


会社を出ると、焼き鳥屋の換気扇から流れてきた甘い醤油の匂いが、濡れた歩道に広がっていた。駅前では学生たちが一つの傘へ三人で入り、肩をぶつけ合いながら笑っている。紗季は鞄を胸元へ引き寄せ、買い物袋を持つ人の間を抜けて改札へ向かった。結婚していたころは、拓也から「夕飯は何」と連絡が来る時間だったが、今は携帯電話が鳴らなくても立ち止まらずに歩けた。


マンションの最寄り駅へ着いたころには、雨がほとんどやんでいた。紗季は商店街の八百屋で半分に切られた大根と葱を買い、店先に並んでいた小さな蜜柑を三つだけ袋へ入れてもらった。八百屋の主人は紗季の買い物袋から長葱が落ちそうになっているのを見て、輪ゴムで持ち手へ留めてくれた。紗季は礼を言い、冷えた指先をコートのポケットへ入れながら、マンションまでの道を歩いた。


共用玄関の灯りが見えたところで、紗季は足を止めた。庇の下に黒いコートを着た男が立ち、透明なビニール袋へ入れた紙を胸元に抱えている。その男は何度も自動扉の中をのぞき込み、住人が近づくたびに顔を上げていた。濡れた前髪を手でかき上げた横顔を見て、紗季は鞄の内ポケットにある封筒へ指を置いた。


「紗季、待っていたんだ」拓也は一歩近づいたが、紗季が後ろへ下がると足を止めた。給料を差し押さえられてから新しい服を買っていないらしく、黒いコートの袖口には白い擦れがあり、革靴には乾いた泥がついていた。「電話に出てくれないから、ここで待つしかなかった。少しだけ話を聞いてほしい」


「住居の前で待つことはやめてください」紗季は自動扉へ近づかず、管理人室の窓が見える位置に立った。買い物袋の中で蜜柑が転がり、大根の切り口から冷たい水が染み出していた。「用件があるなら、代理人を通してください。私はすでに、そのようにお願いしています」


「代理人なんかを通したら、俺の気持ちは伝わらないだろう」拓也はビニール袋から一枚の写真を取り出し、紗季へ向けた。白いドレスを着た紗季と、黒い礼服姿の拓也が、披露宴会場の花の前で笑っている写真だった。写真の隅には、金色の文字で八年前の日付が印刷されている。「これを見つけたんだ。俺たち、こんなに幸せそうだったじゃないか」


紗季は写真を受け取らず、拓也の手元を見た。披露宴の日、拓也は緊張して朝食を食べられず、式場へ向かう車の中で紗季が持っていた飴を二つ続けてなめた。紗季の母は薄桃色の着物を着て、帯が苦しいと言いながらも、写真撮影が終わるまで背筋を伸ばしていた。あの日のことは覚えているが、覚えていることと、そこへ戻りたいことは同じではなかった。


「八年間は嘘じゃなかった。俺は今でも、そう思っている」拓也は写真を持つ指へ力を入れ、表面をわずかに曲げた。共用玄関の近くでは宅配業者が台車を押し、段ボール箱の底から濡れた紙の匂いが漂っていた。「美咲とはもう終わった。あいつとは何も残っていない。俺が本当に大事にすべきだったのは、紗季だったんだ」


「そうですか」紗季はそれだけ答え、鞄の持ち手を右肩へ掛け直した。拓也の言葉を聞けば、以前なら食事をしたか、傘を持っているか、帰りの電車はあるかと余計なことまで考えただろう。今は味噌汁に入れる大根が袋の中で重く、早く部屋へ戻って冷蔵庫へ入れなければならないと思った。「お話がそれだけなら、帰ってください」


「待ってくれ。あのころに戻りたいんだ」拓也は写真を胸元へ戻し、もう一方の手を紗季へ伸ばしかけた。紗季が管理人室の側へ移動すると、その手を引っ込めた。「毎朝、一緒に味噌汁を飲んでいたころに戻りたい。日曜日に洗濯物を干して、昼に近所の蕎麦屋へ行っていた、あの生活に戻りたいんだ」


紗季は買い物袋の中の長葱を見た。拓也は味噌汁の具に葱が多いと文句を言いながら、飲み終えた椀を流し台へ置き、洗うことはなかった。日曜日の洗濯物も、拓也は靴下を裏返したまま洗濯籠へ放り込み、干し終わったころに起きてきた。それでも当時の紗季は、二人で暮らしているのだから仕方がないと考え、昼の蕎麦を食べれば機嫌を直していた。


「あなたが戻りたいのは、私と暮らしていたころではありません」紗季はコートのポケットから鍵を出したが、自動扉へは近づかなかった。拓也の視線が鍵を追ったため、紗季はもう一度ポケットへ戻した。「洗濯物が畳まれていて、夕食が用意されていて、給料を自分のために使えたころへ戻りたいだけでしょう」


「違う。俺は本気で反省している」拓也は写真をビニール袋へしまい、濡れた靴底を玄関マットへこすった。近くの植木鉢には雨水がたまり、枯れかけたパンジーの葉が風で揺れていた。「会社でも全部知られた。給料も差し押さえられて、美咲にも捨てられた。そこで初めて、自分が何を失ったのか分かったんだ」


「美咲さんに捨てられ、給料を差し押さえられたから、私のところへ来たのですか」紗季は拓也の言葉を一つずつ確かめるように尋ねた。拓也は口を開いたが、すぐには答えられなかった。「もし美咲さんとうまくいっていて、給料を自由に使えていたなら、今日ここへ来ましたか」


「それは、仮定の話だろう」拓也は写真の入った袋を脇へ抱え、コートのボタンを一つ外した。外気は冷えているのに、額には細かな汗が浮かんでいた。「とにかく、八年間を全部なかったことにするのは違うだろう。紗季だって、俺との生活に楽しいことはあったはずだ」


紗季は鞄のファスナーを開き、内ポケットから小さな封筒を取り出した。白い封筒には宛名も切手もなく、何度も触れた跡だけがついていた。拓也は手紙か写真が入っていると思ったのか、顔を上げて一歩近づいた。紗季は近づかないよう手で示し、腕を伸ばして封筒を差し出した。


「八年間についてお話しになるなら、これを受け取ってください」紗季の声を聞き、拓也は封筒を両手で受け取った。薄い紙が何枚も入っているらしく、写真よりも重かった。「私も、今日のために八年間を整理しました。あなたが覚えていない部分まで、日付と金額をそろえてあります」


拓也は封筒を開け、折り畳まれた明細を取り出した。一枚目には、美咲へ贈った腕時計、香水、革製の鞄、誕生日のネックレスが、購入日と価格つきで並んでいた。二枚目には、ホテルの利用日と代金、二人分の飲食費、拓也名義の口座から美咲へ送金された金額が記載されている。三枚目には、離婚後に支払わなかった婚姻費用、損害賠償金、遅延によって加算された金額が、月ごとに整理されていた。


「なんで、こんなものを持っているんだ」拓也は明細をめくり、周囲の住人に見られないよう胸元へ引き寄せた。数字の横には領収書や利用明細の写しを示す番号が振られ、言い逃れのできない形にまとめられていた。「昔のカード明細まで調べたのか。夫婦だったのに、こんなふうに金を数えるなんておかしいだろう」


「夫婦だったから、調べられました」紗季は買い物袋を左手へ持ち替え、赤くなった右手の指をコートの袖へ入れた。離婚の準備を始めたころ、押し入れの奥から家計簿と領収書を出し、深夜まで数字を照合したことを思い出した。「私は毎月、食費や電気代を記録していました。あなたは家計簿を細かすぎると笑っていましたが、その帳面が残っていたのです」


明細の中には、紗季がスーパーで数十円安い豆腐を選んだ日に、拓也が美咲へ二万円を送っていた記録もあった。紗季が古い冬用コートのボタンをつけ直した週には、美咲へ新しい鞄が贈られていた。二人の結婚記念日に拓也が残業だと言った夜には、ホテルとレストランの支払いが並んでいる。拓也は紙をめくるたびに唇をなめ、何か説明しようとしては口を閉じた。


「これは、全部お前の見方だ」拓也はようやく言葉を絞り出し、明細の端を指で折った。紗季はその紙が破れないかを見たが、取り返そうとはしなかった。「美咲に使った金だけを並べれば、俺がひどい男に見えるに決まっている。お前にだって、誕生日には花を買っただろう」


「八年間で、三度です」紗季はすぐに答えた。最初の花束は黄色いガーベラで、二度目はスーパーの入口に並んでいた赤いカーネーションだった。三度目の白い百合は香りが強く、食卓へ置くと拓也が料理の匂いが分からないと言ったため、玄関へ移した。「花をくださったことは覚えています。だからといって、その夜にほかの女性へ送金した事実は消えません」


「俺は、謝ろうと思って来たんだ」拓也は明細を封筒へ戻そうとしたが、紙の向きがそろわず、角が引っかかった。指先が震え、結婚式の写真を入れた袋まで地面へ落ちた。「悪かった。俺が間違っていた。だから、もう一度だけ機会をくれないか」


紗季は落ちた袋を拾わなかった。透明なビニール越しに、八年前の二人が濡れた床の上で笑っている。拓也の謝罪には、美咲の名前も、自分が何をしたかも、紗季が何を失ったかも含まれていなかった。口にしたのは「悪かった」という短い言葉と、自分へ機会を与えてほしいという願いだけだった。


「何について謝っているのですか」紗季は拓也の目を見て尋ねた。管理人室では、灰色の作業着を着た管理人が新聞を畳み、こちらの様子を確認していた。「美咲さんと関係を持ったことですか。生活費を渡さなかったことですか。裁判所の決定を無視したことですか。それとも、今日ここで待ち伏せしたことですか」


「全部だよ。全部、悪かったと思っている」拓也は慌てて答えたが、自分が何を認めれば紗季の態度が変わるのかを探すように、視線を動かしていた。自動扉が開き、買い物帰りの老夫婦が二人の間を通った。「俺たちは八年も夫婦だったんだ。八年間は嘘じゃなかっただろう」


紗季は老夫婦が建物へ入るまで待ち、開いた自動扉には近づかなかった。夫は妻の持っていた米の袋を受け取り、妻は夫の肩についた雨粒をハンカチで払っていた。紗季はその小さなやり取りを見てから、拓也が持つ明細へ目を戻した。封筒からは、婚姻費用の未払い額が記された紙の端がのぞいていた。


「八年間を捨てたのは私ではありません」紗季は声を荒らげず、買い物袋の持ち手を両手で持ち直した。長葱を留めていた輪ゴムがずれ、緑の葉先が袋の外へ傾いていた。「あなたが一日ずつ使いました。嘘をつくたび、美咲さんへお金を送るたび、私が作った夕食を残してホテルへ行くたびに、八年間を少しずつ捨てたのです」


「そんな言い方をしなくてもいいだろう」拓也は明細を握ったまま、声を落とした。以前なら、彼が弱った顔を見せれば、紗季は言葉を飲み込み、温かいものを食べさせようとした。「俺だって、この数か月は大変だったんだ。会社では白い目で見られ、給料も持っていかれている。もう十分に罰を受けたと思わないか」


「それは罰ではなく、支払うべきものを支払っているだけです」紗季は管理人室へ視線を向け、軽く頭を下げた。管理人はすぐに椅子から立ち、共用玄関へ出てきた。「私が困っていた八年間について、あなたは十分だと言いませんでした。ですから、あなたの都合で十分かどうかを決めることはできません」


管理人の松田は、灰色の作業着の上へ濃緑色の防寒ベストを着ていた。夕食前だったらしく、管理人室の小さな机には、蓋を開けたカップ味噌汁と梅のおにぎりが置かれている。味噌汁の湯気はすでに薄くなり、開けた海苔の袋が湿気で丸まっていた。松田は二人の間へ無理に入らず、まず紗季の立ち位置を確かめた。


「こちらの居住者の方ですか」松田が尋ねると、拓也は結婚式の写真を拾い、コートの内側へ隠した。紗季は自分が住人であり、拓也には帰宅を求めていると説明した。「承知しました。男性の方、これ以上ここにとどまられる場合は、警察へ連絡いたします。今日はお帰りください」


「俺は元夫です。怪しい人間じゃありません」拓也は声を上げたが、松田は表情を変えなかった。共用玄関の防犯カメラを見上げ、すべて記録されていることを示した。「元夫婦の話し合いなんです。部外者は口を出さないでください」


「ここは居住者の生活を守る場所です」松田は自動扉の前へ立ち、拓也が中へ入れない位置を取った。紗季は警察へ連絡するため、携帯電話を手に持っていた。「居住者が帰宅を求めています。お話が必要なら、代理人を通してください。もう一度申し上げますが、今日はお帰りください」


拓也は紗季へ助けを求めるような目を向けた。だが紗季は自動扉の鍵を取り出し、松田の後ろへ移動した。買い物袋の底では、大根から出た水が薄い染みを作り、蜜柑が一つだけ長葱の下へ入り込んでいた。部屋へ帰ったら袋を拭き、味噌汁を温めなければならないという、いつもの暮らしが扉の向こうに待っていた。


「紗季、本当にこれで終わりにするのか」拓也は封筒と写真を抱え、最後に一歩だけ近づいた。松田が手を上げて制止すると、そこで足を止めた。「俺たちには八年もあったんだぞ。たった一度くらい、部屋で話をさせてくれてもいいだろう」


「その部屋に、あなたの物は一つもありません」紗季は自動扉の内側から答え、鞄を肩へ掛け直した。玄関ホールには清掃を終えたばかりの床用洗剤の匂いが残り、郵便受けの前には誰かが落とした広告が一枚だけあった。「八年間の明細はお渡ししました。これからの私の時間は、あなたへ渡しません」


自動扉が閉まり、拓也の姿が厚いガラス越しになった。彼は結婚式の写真を胸元へ持ち上げたが、紗季は振り返らず、エレベーターのボタンを押した。鏡張りの扉へ映った自分のコートは雨で少し濡れ、髪も乱れていた。紗季は指で前髪を整え、エレベーターが下りてくる数字を見上げた。


部屋へ戻ると、紗季はコートを玄関のフックへ掛け、買い物袋から大根と長葱を取り出した。冷蔵庫には朝作った大根と油揚げの味噌汁が残り、鍋の表面には薄い膜が張っていた。紗季はお玉でひと混ぜしてから弱火へかけ、鞄の底にあった鮭のおにぎりを電子レンジへ入れた。洗濯機の上には、朝に取り込んだタオルが畳まずに残っていたが、今夜は食べてから片づければよいと思えた。


「ただいま」誰もいない部屋で口にすると、電子レンジが短い音を鳴らした。紗季は湯気の立つ味噌汁を椀へよそい、刻んだ葱を少しだけ載せた。「いただきます。今日は、これでいい」


マンションの外では、拓也がまだ明細を手に立っていた。八年前の結婚式の写真は一枚だったが、美咲への贈り物、ホテル代、送金、婚姻費用の未払いを記した紙は何枚もあった。写真に写る笑顔だけを八年間だと思っていた拓也の手に、初めて八年分の支払いが残された。やがて管理人がもう一度外へ出ると、拓也は封筒をコートへ押し込み、濡れた歩道を駅の方角へ歩き始めた。



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