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「すぐ戻る」と幼馴染の元へ走った夫を、私は笑顔で見送りました

作者:かおるこ
最終エピソード掲載日:2026/06/02
結婚記念日の灯りが
テーブルのワイングラスに揺れていた。

焼きたてのパンの香り。
花屋で買った小さな薔薇。

私は今日という日を
少しだけ楽しみにしていた。

その時。

あなたのスマートフォンが鳴った。

震える指先。
変わる顔色。

そして聞き慣れた名前。

幼馴染。

あなたは立ち上がり、

「すぐ戻る」

と言った。

私は微笑んだ。

「いってらっしゃい」

と。

引き留めなかった。

袖も掴まなかった。

泣きもしなかった。

玄関のドアが閉まる音は、
思ったより静かだった。

私は一人で席に戻り、

冷めていくスープを見つめた。

湯気は消え、

期待も消え、

そして何かが終わった。

その夜から私は、

待つことをやめた。

帰りを待つ妻を。

信じる妻を。

許し続ける妻を。

少しずつ。

少しずつ。

まるで冬が庭を覆うように。

心は静かに冷えていった。

あなたは知らない。

私の笑顔が、

許しではなかったことを。

あなたは知らない。

私の沈黙が、

諦めではなかったことを。

あなたは知らない。

優しさの下で、

何かが静かに育っていたことを。

記録。

証拠。

真実。

そして決意。

あなたは何度も言った。

「すぐ戻る」

けれど。

一度も戻ってこなかったのは、

あなたの心の方だった。

だから私は見送った。

笑顔で。

ひまわりのように。

春の日差しのように。

何も知らない妻の顔で。

見送った。

あなたが選んだ道へ。

あなたが望んだ未来へ。

あなたが捨てた幸せの外へ。

そして最後の日。

あなたは振り返る。

何もかも失って。

初めて気付く。

本当に愛してくれた人を。

本当に帰るべき場所を。

けれどその時には、

もう遅い。

私は新しい窓を開ける。

朝の風が吹く。

コーヒーの香りがする。

青い空が広がっている。

着信音が鳴る。

懐かしい名前。

けれど私は微笑んで、

静かに画面を閉じる。

そして、あの日と同じ言葉を口にする。

「いってらっしゃい」

今度は本当に。

二度と戻らないあなたへ。
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