第20話 日曜日の朝食 たまには道草も楽しいものです
第20話 日曜日の朝食 たまには道草も楽しいものです
卵味噌入りの卵焼きを食べ終えたあと、紗季と玲子はガラスの器に残った冷や麦を見つめていた。氷はほとんど溶け、桃色の麺が一本だけ白い麺の間へ沈んでいる。食卓には刻んだ茗荷、青じそ、長ねぎの小皿が並び、缶詰のみかんが一粒、つゆの入っていない器の隅に残されていた。開けた窓から湿った風が入り、庭の紫陽花の葉を揺らしていた。
「玲子さん、このみかんは食べないんですか」紗季が尋ねると、玲子は最後に取っておいたのだと答えた。幼いころ、色のついた冷や麦やみかんを先に食べると、兄に欲しがられたため、器の底へ隠す癖がついたという。七十年近く前の兄妹げんかを思い出しながら、玲子はみかんを口へ入れた。
「冷や麦にみかんを入れたところで、おなかがいっぱいになるわけではないでしょう。でも、入っていないと少し物足りないのよ」玲子は空になった器を重ねた。紗季はその言葉を聞き、食卓の上に残っている薬味の色を見た。食事には栄養や量だけでなく、食べる人が箸を伸ばしたくなる小さな仕掛けも必要なのかもしれない。
「朝のひとさらにも、みかんのようなものがあっていいのかもしれません」紗季は試作帳を引き寄せ、余白へ小さな丸を描いた。冷凍朝食の商品は、主食とスープを食べ切れる量にすることばかり考えてきた。けれど日曜日まで、時間を節約するためだけの朝食を食べたい人ばかりではない。
「冷凍スープへみかんを入れるのはやめてちょうだいね」玲子は立ち上がり、食器を流しへ運んだ。紗季は、さすがに南瓜豆乳スープへみかんは入れないと答えた。二人は想像した味に同時に顔をしかめ、それから蛇口の水音に負けないほど笑った。
紗季は流しに立ちながら、食卓へ少しずつ添えられる料理を考えた。祖父の卵味噌を巻いた卵焼きの横に、ねぎと人参を入れた素麺チャンプルーを一口分だけ置く。胡瓜、茄子、茗荷、青じそを細かく刻んだ山形のだしも、小さな区画へ入れれば白いご飯の彩りになる。どちらも主役ではないが、箸をどこからつけようか迷う楽しさを作れそうだった。
「素麺チャンプルーと、山形のだしはどうでしょう。箸休めくらいの量にするんです」紗季は濡れた手を布巾で拭き、試作帳へ料理名を書いた。玲子は冷蔵庫を開け、残った胡瓜と茄子を取り出した。茗荷も一個余っているため、山形のだしなら今すぐ作れると言った。
「でも、山形のだしは生の野菜でしょう。冷凍したら、胡瓜がふにゃふにゃになるんじゃないかしら」玲子は胡瓜の表面を指で押した。紗季も同じことを考え、冷凍商品へそのまま入れるのは難しいと認めた。それでも最初から諦めず、食感がどこまで変わるのか確かめることにした。
二人は胡瓜、茄子、茗荷、青じそを細かく刻んだ。玲子の包丁は一定の速さでまな板を打ち、紗季のほうは茗荷が途中から大きくなった。ボウルへ野菜を入れ、刻んだ昆布と醤油を加えると、青じそと茗荷の涼しい匂いが立った。冷や麦を食べ終えたばかりなのに、紗季は炊きたての白いご飯が欲しくなった。
「これを冷凍する分と、冷蔵する分に分けましょう」紗季は製氷皿へ山形のだしを少量ずつ入れた。玲子は、氷と間違えて麦茶へ入れないよう、蓋へ大きく名前を書くよう頼んだ。紗季は油性ペンで「山形のだし・試作」と書き、その横へ茄子の下手に見えない小さな絵を描いた。
次に、乾物棚の奥から素麺を一束取り出した。袋の口は輪ゴムで三重に留められ、賞味期限はまだ一年残っている。玲子は素麺を短めに折ってゆで、冷水でよく洗った。紗季は人参、玉ねぎ、にらを細く切り、冷蔵庫に残っていた豚肉を一枚だけ刻んだ。
「一口分のチャンプルーへ、豚肉を一枚入れるのですか」紗季が尋ねると、玲子は肉のない炒め物では力が出ないと答えた。紗季は商品の原価を考え、一枚をさらに細かく切れば六食分くらいになると計算した。玲子は休日の料理まで原価を考えるようになったのねと、少し呆れた顔をした。
「会社へ戻ってから、卵一個を見ても何人分になるか考えてしまうんです」紗季はフライパンへごま油を引いた。温まると香ばしい匂いが立ち、豚肉を入れた瞬間に小さな音が続いた。玉ねぎ、人参、にら、素麺を加えて炒め、最後に醤油を鍋肌から少しだけ回し入れた。
出来上がった素麺チャンプルーを、小さな白い皿へ一口分ずつ盛った。白い麺の間に、人参の橙色とにらの緑が入り、先ほどの卵焼きと並べると食卓が明るくなった。玲子は箸で一口分を持ち上げたが、素麺同士がくっつき、皿ごと浮きそうになった。二人は慌てて箸を離し、丸く固まった麺を見た。
「冷めると、ずいぶん仲良くなるのね」玲子は素麺の塊を箸でほぐした。紗季は試作帳へ、油が少ないと固まる、短く切りすぎると食感が悪いと書いた。主役ではない一口分の料理ほど、箸で取りやすく、食べ残しが出ない形にする必要があった。
「道草のつもりが、また難しいものを選んでしまいました」紗季は固まった素麺を食べた。味は悪くないが、冷凍して温め直せば、さらに柔らかくなる可能性がある。玲子は、道草は平らな道ばかりではないから面白いのだと答え、残ったチャンプルーを保存容器へ詰めた。
帰宅した紗季は、買い物袋を床へ置いたまま、台所の冷凍庫を整理した。南瓜豆乳スープの試作品、冷凍うどん、半額で買った鯖の切り身が奥から出てきた。扉のポケットには保冷剤が六個もあり、二個を残して箱へ移した。空いた場所へ、玲子の家で作った山形のだしと素麺チャンプルーを入れた。
冷蔵庫の前には、朝に脱いだ部屋着が畳まれないまま籠へ載っていた。紗季は洗濯機へ入れ、タオルを二枚追加してスイッチを押した。洗剤の香りと、持ち帰ったごま油の匂いが狭い部屋で混じった。試作のことばかり考えていたため、夕食用のご飯を炊いていないことに、そのとき初めて気づいた。
「今日は冷凍うどんでいいわね」紗季は窓辺のサボテンへ話しかけた。冷凍庫を空けるためにも都合がよい。鍋へ湯を沸かし、うどんを入れ、残っていた油揚げと長ねぎで簡単な夕食を作った。
月曜日の朝、紗季は冷凍しておいた二種類の副菜を電子レンジで温めた。素麺チャンプルーは予想よりも柔らかく、箸で持ち上げると途中で切れた。山形のだしは胡瓜から水が出て、茄子の色も少し暗くなっている。見た目も食感も、作りたてとは大きく違っていた。
「味だけなら食べられるけれど、これを商品にはできないわね」紗季は山形のだしを白いご飯へ載せた。青じその香りは残っているが、胡瓜の歯触りがない。祖父の卵味噌とは違い、作り方を工夫するだけでは解決できない問題だった。
紗季は失敗した試作品も捨てず、朝食として最後まで食べた。素麺チャンプルーには溶き卵を加え、フライパンで焼き直すと、小さなお好み焼きのようにまとまった。山形のだしは納豆へ混ぜれば、水分も気にならない。商品にならない料理にも、家庭の食卓で食べ切る方法はあった。
出社すると、紗季は真紀と美月へ週末の試作を報告した。真紀は白いシャツに薄紫色のカーディガンを重ね、朝から机の上へクッキーの袋を開けている。美月はコンビニで買ったヨーグルトを食べながら、山形のだしを冷凍する発想は面白いが、胡瓜が耐えられないと思うと話した。紗季は自宅で撮った解凍後の写真を見せ、三人で暗くなった茄子を見つめた。
「冷凍商品に入らないなら、あきらめますか」美月が尋ねた。紗季は答える前に、冷凍庫から試作品の箱を出した。一つの容器へ何もかも詰め込む必要はないが、「日曜日の朝へ遊び心を添える」という考えまで捨てたくはなかった。
「週末だけ、購入者が自宅で一品を足せるようにするのはどうでしょう」紗季はホワイトボードへ、基本商品、日曜日、道草と書いた。冷凍朝食の容器へ生の山形だしを入れるのではなく、パッケージの内側に簡単な作り方を載せる。前夜に五分で作り、朝はスープやおにぎりへ添える提案なら、冷凍による食感の問題もない。
「それでは、食品会社の商品というより、料理の宿題を出すことになりませんか」真紀はクッキーの粉を指で払いながら尋ねた。紗季は、毎日ではなく日曜日だけの提案にすると答えた。忙しい平日は温めるだけ、少し余裕のある休日には、家にある胡瓜や卵を一つ足してみる。食べる人が商品へ参加できれば、冷凍食品でも自分の朝食という感覚を持てるかもしれない。
「私は面白いと思います。日曜日なら、失敗しても笑って食べる時間があります」美月はヨーグルトの蓋についた分までスプーンですくった。真紀は、失敗する前提で客へ勧めないでほしいと言いながら、ホワイトボードへ「週末アレンジ」と書き足した。三人は午前の会議までに、具体的な案を三つ出すことにした。
紗季は、卵味噌入り卵焼き、山形のだし、素麺チャンプルーを候補に挙げた。卵味噌入り卵焼きは商品として冷凍し、山形のだしは作り方を紹介する。素麺チャンプルーは余った素麺を使う家庭向けのアレンジとして、夏季限定の案内へ載せる。すべてを無理に商品化せず、それぞれに合う形を選んだ。
「名前は『日曜日の朝食』では、普通すぎるでしょうか」紗季は企画用紙の上部へ鉛筆で書いた。美月は「朝の道草」を提案し、真紀は食品で道草という表現が伝わるか首をかしげた。それでも、最短距離で空腹を満たすだけではない朝という意味は、企画に合っていた。
「たまには道草も楽しいものです、と小さく添えたらどうでしょう」紗季が言うと、真紀はパッケージの裏面なら使えると答えた。表には商品の内容を分かりやすく書き、裏で日曜日の過ごし方を提案する。言葉だけが先へ走らないよう、試食会で実際の反応を確かめることになった。
次の日曜日、紗季は玲子を自宅へ招いた。食卓には雑穀おにぎり、卵味噌入り卵焼き、温めた南瓜豆乳スープが並び、その横へ作りたての山形のだしと、一口分の素麺チャンプルーを添えた。白、黄、橙、緑、紫が一つの盆へ収まり、量は多くないのに、どこから食べるか迷う朝食になった。窓から差し込む日差しが、ガラスの小鉢に入れた胡瓜を明るく透かしていた。
玲子は白い半袖ブラウスに紺色のスカートを着て、手土産に小玉西瓜を一個持ってきた。西瓜を冷蔵庫へ入れようとしたが、試作品で棚が埋まり、麦茶の瓶を横へ移さなければ入らなかった。玲子は、会社の冷凍庫より紗季の冷蔵庫を先に大きくしたほうがよいと笑った。紗季は、契約社員の給料では置き場所のほうが先に問題になると答えた。
「まずは、何も足さずに食べてください」紗季は玲子の前へ盆を置いた。玲子は南瓜豆乳スープから口をつけ、次に卵味噌入り卵焼きを半分食べた。そのあと山形のだしを雑穀おにぎりへ少し載せ、最後に素麺チャンプルーを箸でつまんだ。
「毎朝これだけ並べるのは大変だけれど、日曜日なら楽しいわね」玲子は山形のだしをもう一度おにぎりへ載せた。量が少ないため、味の違うものを食べても腹が重くならない。素麺チャンプルーの人参が一切れだけ大きいと指摘しながらも、箸は止まらなかった。
「冷や麦のみかんがなければ、思いつかなかったんです」紗季は自分の盆から卵焼きを取った。みかんは主食でも主菜でもなく、なくても食事は成立する。それでも一粒あるだけで、昔の食卓を思い出し、次は何を食べようかという小さな楽しみが生まれる。
「役に立つものだけで食卓を作ると、息が詰まるものね」玲子は卵焼きのねぎを箸先で見せた。ねぎがなくても卵味噌は作れるが、祖父の味にはならない。赤や緑の冷や麦も、缶詰のみかんも、栄養計算だけなら必要のないものだった。
「生活も同じかもしれません。結果へまっすぐ進むことばかり考えると、途中で見つかるものを全部見落としてしまいます」紗季は試作帳へ玲子の感想を書いた。八年間を早く取り戻そうとしていたころは、契約社員から正社員になることや、商品を成功させることばかり考えていた。けれど祖父の卵味噌や玲子の冷や麦に寄り道したから、会社の会議だけでは生まれない朝食へたどり着いた。
朝食を終えると、二人は小玉西瓜を切った。包丁を入れた瞬間、赤い果肉が割れ、青い皮の匂いが部屋へ広がった。玲子は塩を振ろうとしたが、紗季は一口食べてからにすると止めた。西瓜は十分に甘く、塩の出番はなかった。
「この西瓜も、商品に入れますか」玲子が尋ねると、紗季は冷凍朝食へ西瓜は無理だと答えた。玲子は、何でも会社へ持っていかなくてもよいでしょうと言い、自分の皿へもう一切れ取った。紗季はその言葉にうなずき、試作帳を閉じた。
商品になる料理と、日曜日の食卓だけに残る料理があってよい。売上へつながらない朝も、次の企画へ結びつかない会話も、なくす必要はなかった。紗季は西瓜の種を小皿へ出し、玲子の盆に残っていた素麺チャンプルーを保存容器へ移した。月曜日の朝には、また温めるだけの商品を試す予定だった。
その日だけは時計を見ず、二人で麦茶を飲みながら、冷や麦へみかんを入れる家と入れない家について話した。食卓の隅には、使いかけの青じそと、半分残った小玉西瓜が置かれている。窓辺のサボテンには日が当たり、二つの新芽が前より少し太く見えた。紗季は、目的地へ急がない朝があってもよいと思い、玲子の湯飲みへもう一度麦茶を注いだ。




