第19話 差し押さえられた給料日
第19話 差し押さえられた給料日
給料日の朝、拓也は目覚まし時計が鳴る前に目を覚ました。枕元に脱ぎ捨てた灰色の靴下から湿った匂いが漂い、カーテンの隙間から入った白い光が、床に積まれたコンビニ弁当の容器を照らしていた。以前は妻が洗濯物を畳み、弁当箱に卵焼きと冷凍の唐揚げを詰めてくれたが、今は流し台に昨夜のカップ麺の容器が残っている。拓也は紺色のスウェットの胸元をかきながら携帯電話を取り、銀行のアプリを開いた。表示された入金額を見た途端、眠気が引き、右手の親指が画面の上で止まった。
振り込まれていた金額は、いつもの給料より十万円以上少なかった。拓也は表示を更新し、通信状態を確かめ、別の口座まで開いたが、数字は変わらない。会社から届いた給与明細には、手取り額の欄とは別に、「差押控除」と記載されていた。裁判所から書類は届いていたものの、すぐに全額を取られるわけではないと思い込み、封筒をテレビ台の下へ押し込んだままにしていた。
「なんだよ、これ。生活できないだろ」拓也は携帯電話へ向かって声を上げ、布団を足で蹴った。飲み残したペットボトルが倒れ、中の麦茶が畳へ細く流れたが、拭く気にはなれなかった。「人の給料を勝手に取るなんて、やりすぎだろ。普通は先に相談するだろうが」
しかし、相談を求める手紙は何度も届いていた。元妻からの請求書、代理人の通知、裁判所からの呼出状、支払いを命じる書面まで、拓也は自分に都合の悪い封筒を開けたり開けなかったりしてきた。判決が出ても、美咲から「放っておけば相手も諦める」と言われ、その言葉を信じた。拓也は冷蔵庫を開けたが、賞味期限を三日過ぎた豆腐と、チューブ入りの生姜しか入っていなかった。
「今日は給料日だから、帰りに焼き肉でも食べるつもりだったのに」拓也は豆腐の容器を手に取ったが、蓋の内側にたまった水を見て冷蔵庫へ戻した。腹が鳴ると、食卓の端に置いてあった食パンを袋から一枚出した。「金がないなら、朝はこれでいい。昼になれば何とかなる」
拓也は食パンを焼かずに口へ押し込み、黒いスラックスと白いワイシャツへ着替えた。襟の内側には昨日の汗染みが残り、ネクタイは結び目の跡がついたまま椅子の背へ掛かっていた。鏡を見ると、顎に剃り残した髭が何本かあったが、電気シェーバーの充電が切れている。以前なら元妻が充電台へ戻しておいてくれたという考えが浮かび、拓也は鏡の中の自分へ舌打ちした。
会社へ着くと、いつもと同じようにコピー機が動き、給湯室からインスタントコーヒーの匂いが漂っていた。若い社員たちは給料日の話をし、昼は少し高い海鮮丼を食べようと相談している。拓也は聞こえないふりをして自席へ向かったが、机の上には経理部からの内線を知らせる黄色い付箋が貼られていた。付箋の端には、経理担当者の田村がよく使う丸い文字で「出社後、至急」と書かれている。
「佐伯さん、少しお時間をいただけますか」経理部の田村は、薄い水色のブラウスに黒いカーディガンを羽織り、会議室の椅子を拓也へ勧めた。机の上には給与明細の写しと裁判所から届いた書類が置かれ、その横には田村が朝食に買ったらしい小さなヨーグルトが残されていた。「今月から、裁判所の命令に基づいて給与の一部を控除しています。会社が独自に判断したことではありません」
「分かっていますよ。でも、いきなり十万円以上も引くのはおかしいでしょう」拓也は椅子へ浅く腰掛け、給与明細を指の背で叩いた。書類の内容を読みたくないため、控除額の数字だけを見つめていた。「元妻が感情的になっているだけなんです。あの女は俺を一方的に捨てたくせに、今度は金まで取ろうとしているんですよ」
田村は答えず、書類の一枚目を拓也の前へ向けた。そこには損害賠償請求の経緯と、支払いが行われなかった期間が記載されていた。拓也が会社で話していた内容とは違い、裁判所の決定には、婚姻中の不貞行為と判決後の不払いが明確に書かれている。田村はヨーグルトの蓋を折り畳み、スプーンと一緒に袋へしまった。
「会社では、佐伯さんが元の奥さまから突然離婚を求められたと伺っていました」田村は声を落としたが、書類から目をそらさなかった。拓也は会議室の曇りガラスの向こうを人影が通るたび、背中へ汗がにじむのを感じた。「個人的な事情について、私から申し上げることはありません。ただし、差し押さえには会社として対応しなければなりません。今後も裁判所の命令に従います」
「そんな書類だけで、全部分かったように言わないでください」拓也は椅子から立ち上がりかけたが、廊下に誰かいることに気づき、もう一度腰を下ろした。声を荒らげれば、さらに多くの社員へ事情を知られる。ネクタイの結び目を緩めても喉の詰まりは取れず、彼は田村の机にあった未開封の水を見た。「水、もらってもいいですか。朝から何も飲んでいなくて」
田村は少し迷ってから水を差し出した。拓也は礼を言わずに蓋を開け、半分ほど一気に飲んだ。冷たい水が空腹の胃へ落ち、腹の奥が重くなる。会議室を出ると、廊下にいた後輩の二人が会話をやめ、スマートフォンへ視線を落とした。
昼休みになっても、海鮮丼へ誘う者はいなかった。拓也は一人で給湯室へ行き、棚に残っていた醤油味のカップ麺へ湯を注いだ。給料日だけは外で食べるのが彼の習慣だったため、割り箸の保管場所が分からず、引き出しを三つ開けてようやく一本見つけた。窓際の席で麺が軟らかくなるのを待っていると、背後から自分の名前と「差し押さえ」という言葉が聞こえた。
「聞こえてるぞ」拓也が振り返ると、若い社員たちは慌てて弁当の話へ切り替えた。拓也はカップ麺の蓋を強く剥がし、まだ硬い麺を箸でほぐした。「元妻に騙されただけだからな。俺には何の落ち度もない。裁判所だって、片方の言い分だけを聞いているんだ」
誰も返事をしなかった。以前なら、拓也が元妻について話し始めると、同僚の何人かは「それは大変でしたね」と相槌を打ってくれた。だが、裁判所から会社へ正式な命令が届いた今、その説明を信じる者はいなかった。拓也は熱い麺を急いですすり、舌をやけどしたが、水を取りに立てば周囲の視線を浴びるため、そのまま飲み込んだ。
同じ日の午後、美咲は駅前のカフェで財産開示手続きに関する書類を読んでいた。ベージュ色のワンピースに白いジャケットを重ね、爪には淡い桃色のジェルネイルを施していたが、右手の人差し指だけが欠けている。テーブルには苺のタルトとカフェラテが置かれ、タルトの上の苺は乾き始めていた。美咲は書面に並ぶ口座番号を見るたび、細いストローを指で曲げた。
裁判所へ提出された記録には、美咲が複数の男性から受け取った金を、生活用とは別の口座へ移していた履歴が残っていた。本人は友人から一時的に借りただけだと説明したが、毎月決まった時期に異なる名義から金が振り込まれ、その直後に別口座へ移されている。隠したつもりだった金の動きが日付と金額まで並べられ、自分の日記を他人に音読されているようだった。美咲はタルトの苺をフォークで刺したものの、口へ運ばず皿へ戻した。
「ただの援助よ。借金でも収入でもないわ」美咲は付き添っていた知人の女性へ言ったが、その女性は曖昧に頷くだけだった。店内ではミルクを泡立てる機械が大きな音を立て、隣の席では学生が試験勉強をしていた。「みんな、私が困っていたから助けてくれたの。それの何が悪いのよ」
悪いかどうかではなく、存在する財産や金の流れを説明しなければならない。それでも美咲は、これまでと同じように笑っていれば誰かが助けてくれると考えていた。彼女は携帯電話を取り出し、毎月まとまった金を振り込んでくれていた不動産会社の経営者へ電話をかけた。三度目の呼出音で通話は切れ、代わりに短いメッセージが届いた。
「これ以上、連絡しないでほしい。妻にも弁護士にも知られた。今後は一切援助できない」美咲は文章を二度読み、画面を伏せてテーブルへ置いた。知人の女性が心配そうに身を乗り出すと、美咲は乾いた苺を口へ入れた。「別にいいわ。あの人、最近は会うたびに同じ自慢話しかしなかったもの。こっちから切ろうと思っていたところよ」
しかし、二人目の男性からも返事はなく、三人目の男性からは着信を拒否されていた。美咲はカフェラテを飲んだが、冷めた泡が上唇へつき、紙ナプキンで何度もこすった。会計を済ませようと財布を開くと、一万円札はなく、千円札が二枚と小銭しか入っていない。彼女は苺のタルトを注文したことを後悔し、伝票を知人の女性の側へ少しだけ押した。
「今日、細かいお金しか持っていないの。まとめて払っておいてくれない?」美咲が笑うと、女性は自分の紅茶代だけをテーブルへ置き、椅子の背から鞄を取った。これまでなら小さな支払いを頼んでも、快く引き受けてくれた相手だった。「ごめんなさい。私も余裕がないの。それに、もうお金のことで巻き込まれたくないから」
美咲は何も言えず、女性が店を出ていく背中を見送った。ガラス扉が閉じると、雨上がりの生ぬるい空気が一瞬だけ店内へ入り、コーヒーの匂いと混じった。美咲は小銭を一枚ずつ数えて支払いを済ませ、財布に残ったのが百円玉一枚だけだと確かめた。店を出たあと、駅のベンチへ座り、これまで自分から連絡しないと決めていた拓也の番号を開いた。
夕方、拓也の携帯電話に美咲から着信が入った。拓也は会社近くの喫煙所で、値上がりした煙草を一本だけ取り出し、箱を何度も振って残りの本数を確かめていた。美咲の名前を見た瞬間、胸の奥に押し込めていた怒りが口元まで上がったが、電話を無視できなかった。彼女なら金を持っているかもしれないという考えも浮かび、拓也は煙草へ火をつける前に通話ボタンを押した。
「今さら何の用だよ。お前が放っておけばいいと言ったから、給料を差し押さえられたんだぞ」拓也は喫煙所の隅へ移動し、同僚に聞かれないよう声を落とした。美咲も負けずに声を上げ、受話口から駅の発車案内が聞こえてきた。「私のせいにしないでよ。払わなかったのはあなたでしょう。それに、私だって口座を全部調べられているのよ」
「お前が別口座へ移せば分からないと言ったんじゃないか」拓也は指に挟んだ煙草を強く握り、まだ火をつけていない先端を折った。床へ散った葉を革靴で踏みながら、美咲へ会う場所を尋ねた。「電話じゃ話にならない。前に行っていたレストランへ来い。金のことを整理する」
「どうして私があなたに呼びつけられなきゃいけないの」美咲は言い返したが、ほかに相談できる相手が残っていなかった。拓也も、美咲が持つ口座に金が残っている可能性を捨てられなかった。「七時なら行けるわ。でも、今日はあなたが払ってよ。私は現金を持っていないから」
二人が待ち合わせたのは、かつて人目を避けて密会していたイタリア料理店だった。赤い日よけの下には雨水がたまり、入口の鉢植えではローズマリーの葉が濡れていた。拓也は会社で着ていた白いワイシャツの袖をまくり、美咲は昼間と同じベージュ色のワンピースに、白いジャケットを羽織っていた。以前は美咲の服装を見ただけで機嫌をよくした拓也だったが、今はジャケットの袖口についたファンデーションの汚れが気になった。
「遅いぞ。十分も待った」拓也はメニューを開きながら、美咲の財布が入っていそうな鞄へ目を向けた。美咲は濡れた髪を紙ナプキンで押さえ、椅子の背へジャケットを掛けた。「電車が遅れたのよ。それより、何か頼みましょう。お昼からタルトしか食べていないの」
かつて二人は、この店で牛肉の赤ワイン煮込みと海老のクリームパスタを注文し、一本三千円のワインを気軽に空けていた。拓也は「家では食べられない味だ」と笑い、美咲は「奥さんには秘密ね」と彼のグラスへワインを注いだ。そのころの伝票はいつも拓也が持ち、美咲が財布を開くふりをすると、「俺に任せろ」と胸を張っていた。今夜の拓也は価格欄から目を離さず、最も安い日替わりパスタを指で押さえた。
「俺はこれだけでいい。お前も同じものにしろ」拓也が言うと、美咲はメニューを奪い、魚介のリゾットを注文した。拓也は声を低くして、料理が運ばれる前から支払いの話を始めた。「最初に言っておくけど、今日は割り勘だからな。給料を差し押さえられて、俺には余裕がない」
「電話で現金を持っていないと言ったでしょう。あなたが呼び出したんだから、あなたが払うのが普通じゃない」美咲は水のグラスへレモンを搾り、種が一つ落ちるとスプーンで何度もすくおうとした。拓也は彼女の指先に残る桃色のネイルを見て、そんなものへ金を使う余裕があるではないかと考えた。「私はあなたのせいで援助してくれていた人たちまで失ったのよ。責任を取ってもらいたいくらいだわ」
「俺のせいじゃない。お前が何人もの男から金を取っていたからだろ」拓也が声を上げると、隣の席の夫婦が会話を止めた。美咲は周囲を気にして微笑んだが、テーブルの下では右足を何度も揺らしていた。「取ったんじゃない。向こうが好きでくれたのよ。あなたも昔は好きで払っていたでしょう」
料理が運ばれると、二人はしばらく口を閉ざした。拓也のパスタからは炒めたニンニクの匂いが立ち、美咲のリゾットには小さな海老と浅蜊が載っていた。以前なら互いの皿を交換して味見したが、今夜はどちらも自分の皿を手前へ引いた。拓也は粉チーズを何度も振り、美咲は海老だけを先に食べてから、冷め始めた米をゆっくりとかき混ぜた。
「美咲、お前の別口座には、まだ金があるんだろう」拓也はフォークを置き、声を抑えて尋ねた。美咲は水を一口飲み、唇についた油を紙ナプキンで拭いた。「あるわけないでしょう。調べられたと言ったじゃない。それより、あなたの給料は全部取られたわけじゃないんだから、そこから何とかしてよ」
「生活費まで減らされているんだぞ。家賃も光熱費もあるんだ」拓也は自分が注文したパスタを半分残し、皿の縁についたソースをフォークでなぞった。美咲は、かつて元妻が家計を管理していたころ、拓也が小遣いが少ないと何度も愚痴を言っていたことを思い出した。「慰謝料を払わずに済むと言ったのはお前だ。お前にも半分払う責任がある」
「私だけが悪いみたいに言わないで。奥さんがいるのに誘ってきたのはあなたでしょう」美咲はスプーンを皿へ置き、乾いた音を立てた。店員がこちらを見たため、声を少し落としたが、言葉は止まらなかった。「妻とは終わっている、離婚したら一緒になると言ったのもあなたよ。結局、何一つ自分で決められなかったじゃない」
二人は同時に、相手が以前とは違って見えることに気づいた。拓也には、美咲の笑顔が金を引き出すための道具に見え、美咲には、拓也の優しさが妻に隠れて遊ぶための言い訳に見えた。店内には焼きたてのパンとオリーブ油の匂いが漂い、奥の席では誕生日を迎えた女性へ小さなケーキが運ばれていた。拍手が起こる中、二人のテーブルにだけ、食べ残した料理と水滴のついたグラスが残った。
会計を頼むと、店員は伝票を拓也の前へ置いた。合計金額は五千八百六十円で、拓也は数字を見たまま財布を開かなかった。美咲も鞄の中を探すふりをしたが、昼のカフェで残った百円玉しか持っていない。以前なら、どちらが払うかをめぐって笑い合ったはずの場面で、二人は相手の手が財布へ伸びるのを黙って待った。
「早く払えよ。俺は日替わりパスタしか食べていない」拓也は伝票を美咲の側へ押し、リゾットとの差額まで暗算しようとした。美咲は伝票を押し返し、鞄から百円玉を一枚だけ取り出した。「これしかないわ。残りはあなたが出して。男でしょう」
「その言い方で、何人から金を取ったんだ」拓也は椅子を引き、床へ大きな音を立てた。周囲の客が振り返り、店員が困った様子で近づいてきた。「俺はもう、お前の財布じゃない。今まで払った分を返してほしいくらいだ」
「私だって、あなたの慰め役じゃないわ」美咲も立ち上がり、白いジャケットを乱暴に羽織った。袖を通す際にテーブルの水を倒し、透明な液体が伝票へ広がった。「奥さんに捨てられて、会社で相手にされなくなったから、私に当たっているだけでしょう」
結局、拓也は残っていたクレジットカードで代金を支払った。利用できるか不安だったため、店員が端末を操作する数秒間、彼は濡れた伝票を見つめ続けた。決済音が鳴ると、美咲は礼も言わず、鳴先に店を出た。拓也はレシートを財布へ押し込み、冷えたパスタを持ち帰るか店員に尋ねようとしたが、恥ずかしくなってやめた。
店の外では再び細い雨が降り始めていた。美咲は傘を持っておらず、赤い日よけの下で配車アプリを開いたが、料金を見て画面を閉じた。拓也も折り畳み傘を持っていたものの、美咲を入れようとはしなかった。二人はかつて同じ傘の下で肩を寄せ、この店から駅まで遠回りして歩いたことがあった。
「駅まで入れてくれないの」美咲が拓也の傘を見ても、彼は返事をせず歩き出した。美咲は白いジャケットの襟を立て、濡れた歩道を遅れてついてきた。「本当に最低ね。最初から、あなたなんか信じなければよかった」
「それはこっちの台詞だ」拓也は振り返らず、傘の柄を強く握った。差し押さえられた給料も、会社で向けられた視線も、先ほど支払った五千八百六十円も、すべて美咲のせいにすれば少しは腹の重さが軽くなると思った。「もう連絡してくるな。次は自分で何とかしろ」
駅前の信号が青に変わると、拓也は濡れた横断歩道を一人で渡った。美咲は赤へ変わった信号の手前に取り残され、白いジャケットの肩を雨で濡らしながら、遠ざかる紺色の傘を見ていた。二人が守ろうとしたのは愛でも約束でもなく、最後まで自分の財布だけだった。翌月も差し押さえは続き、今夜の食事代は拓也のカード請求へ加わることになる。それでも二人は、自分が支払うことになった代償だけは、最後まで相手の責任だと思い続けていた。




