第18話 焦げ目のない焦げ臭さ
第18話 焦げ目のない焦げ臭さ
土曜日の朝、紗季は冷蔵庫の卵置き場を開け、残っていた四個を一つずつ食卓へ並べた。窓の外では梅雨の雲が低く垂れ込め、向かいのマンションのベランダには、雨を避けるため室内へ取り込まれた洗濯物が見えている。紗季は薄い桃色のTシャツに紺色の綿パンツを履き、黄色い花柄のエプロンを腰へ結んだ。今日は仕事ではなく、自宅の台所で思いついた朝食を試すつもりだった。
食卓には卵、味噌、砂糖、みりん、それから長ねぎが置かれていた。紗季は長ねぎの白い部分を小口切りにしながら、子供のころ、夏休みに預けられた田舎の祖父の家を思い出した。祖父は日の出前に畑へ出て、胡瓜や茄子を籠へ入れて帰ってくると、朝食に卵味噌を作ってくれた。使い込んだ小鍋の底へ味噌と砂糖を入れ、溶いた卵とねぎを加えて、菜箸でゆっくり混ぜていた。
「卵は急かすと機嫌を悪くするぞ」祖父は火を弱くしながら、紗季へ何度もそう言った。けれど幼い紗季は、早く固まったほうがおいしいと思い、祖父が背中を向けた隙に火を強くした。鍋底から焦げた味噌の匂いが立ち、祖父は井戸水で冷やしていたトマトを抱えたまま戻ってきた。
「ほら、卵がへそを曲げた」祖父は叱らず、焦げた部分だけを木べらでよけた。少し苦くなった卵味噌も捨てず、炊きたての麦飯へ載せて食べた。紗季には味噌の甘辛さより、ねぎの青い匂いと、開け放した台所から聞こえる蝉の声のほうが強く残っていた。
紗季は冷蔵庫へ貼った「朝のひとさら・追加商品案」という紙を見た。冷凍朝食シリーズには洋風の商品が多く、和風の雑穀おにぎりに合わせる卵料理を探している。普通のだし巻き卵では目新しさがなく、かといって朝から濃すぎる味にもしたくない。そこで祖父の卵味噌を、食べやすい卵焼きにできないかと思いついた。
「おじいちゃんの卵味噌を巻いたら、面白いと思うのよね」紗季は窓辺のサボテンへ話しかけた。二つの新芽は少しずつ大きくなり、親株の横で小さな耳のように並んでいる。返事がない代わりに、冷蔵庫のモーターが低い音を立てた。
最初の卵二個をボウルへ割り、味噌、砂糖、みりん、小口切りにしたねぎを直接加えた。菜箸で混ぜても味噌の粒が残り、黄色い卵液の中を茶色い塊が動く。紗季は小皿で味噌とみりんを先に溶けばよかったと気づいたが、試作一号として、そのまま焼くことにした。卵焼き器へ薄く油を塗り、中火で温めた。
卵液を流した瞬間、じゅっと大きな音がした。ねぎの香りに続き、甘い味噌の焼ける匂いが立つ。表面はまだ半熟なのに、卵焼き器へ触れている底だけが急いで固まり始めた。紗季が菜箸で端を持ち上げると、裏側には薄い茶色の斑点がついていた。
「早い、早い。まだ巻く準備ができていないのよ」紗季は卵へ声をかけながら、慌てて火を弱めた。祖父なら、卵がへそを曲げたと言うところだった。形を整えようとしても、ねぎが卵の層を破り、中央から黄色い中身がはみ出した。
一回目を皿へ移すと、卵焼きらしい長方形にはならず、太いスクランブルエッグを無理に折り畳んだような形になっていた。表面には目立つ焦げ目がない。それでも鼻を近づけると、底で焼けた味噌と砂糖の焦げ臭さがはっきり残っている。紗季は端を一口食べ、甘辛い味のあとに来る苦みへ眉を寄せた。
「焦げ目はないのに、どうしてこんなに焦げ臭いのかしら」紗季は試作帳へ失敗の理由を書き込んだ。味噌と砂糖は焦げやすく、卵焼きの火加減では底だけ先に焼ける。ねぎも生地を巻きにくくしていた。卵味噌なら小鍋で混ぜ続けられるが、卵焼きでは一度流した卵液を動かせない。
冷めた麦茶を一口飲み、紗季は残り二個の卵を見た。一号を失敗したからといって、同じ作り方で二号を焼く必要はない。味噌を卵液全体へ混ぜるのではなく、祖父の卵味噌を少量だけ作り、それを芯にして普通の卵で包めばよいのではないか。紗季は焦げ臭くなった卵焼き器を洗い、布巾で水気を拭いた。
小鍋へ味噌、砂糖、みりんを入れ、弱火にかけた。今度は木べらで絶えず混ぜ、溶き卵を少しずつ加える。小口切りのねぎも入れると、祖父の家で嗅いだ甘辛い匂いが台所へ広がった。紗季は火を止める直前まで混ぜ続け、柔らかな卵味噌を小皿へ移した。
「これなら、ご飯へ載せるだけでも十分おいしいのよね」紗季は味見をし、もう少し砂糖を減らしてもよいと考えた。祖父の味は甘かったが、朝食商品としては塩味と甘味の両方が強い。思い出をそのまま冷凍するのではなく、今の食卓へ合う形に直す必要があった。
二個目の卵液には、だしと水だけを加えた。卵焼き器を弱火で温め、薄く流した卵が半熟になったところへ、細長く卵味噌を置く。菜箸だけでは崩れそうだったため、小さなへらも使って端から巻いた。今度は表面が柔らかく、ねぎも芯の中に収まっている。
「急かさない、急かさない」紗季は祖父の言葉を口にしながら、二層目を流した。火が弱すぎると卵が焼き上がるまで時間がかかり、待っているうちに手を出したくなる。だが、そこで火を強くすれば一号と同じになるため、紗季は濡れた布巾へ卵焼き器の底を一度当て、温度を調整した。
焼き上がった二号は、完全な長方形ではなかったが、一号より卵焼きらしい姿になった。包丁を入れると、淡い黄色の卵の中心から、ねぎの緑と味噌の茶色が現れた。湯気にはだしと卵の匂いがあり、その奥に味噌の香ばしさが混じっている。紗季は断面を見て、試作帳へ簡単な絵を描いた。
一切れ口へ入れると、最初は柔らかな卵の味がし、かむと中から甘辛い卵味噌が出てきた。新しい料理のはずなのに、麦飯、蝉の声、土のついた胡瓜を抱えていた祖父の腕が一度に戻ってくる。紗季は箸を置き、焼きたての断面をしばらく見つめた。懐かしいと感じるのが自分だけなら、商品にする意味は薄いかもしれない。
「玲子さんに食べてもらいましょう」紗季はスマートフォンを手に取った。玲子なら祖父の卵味噌を食べたことはなく、味そのものを初めて判断できる。新しさと懐かしさの両方を感じるのか、味噌味の卵焼きとしか思わないのか、率直に聞いてみたかった。
電話をかけると、玲子は庭で紫陽花の枯れた花を切っているところだった。受話口の向こうから、園芸ばさみの音と、近所の犬が吠える声が聞こえる。今日の昼食は冷や麦にするつもりで、薬味の茗荷を買い忘れたと話した。紗季は卵焼きを持っていく代わりに、途中の八百屋で茗荷も買うと約束した。
「卵味噌を芯にした卵焼きです。少し変わっているので、正直な感想を聞かせてください」紗季が頼むと、玲子は、焦げていても食べると答えた。紗季は焦げ目はないが焦げ臭い一号もあると説明した。一号は自分で責任を取って食べ、玲子には成功した二号だけを持参するつもりだった。
「失敗したほうも持っていらっしゃい。どこが駄目なのか、食べ比べなければ分からないでしょう」玲子はそう言って電話を切った。紗季は焦げ臭い一号と、芯を巻いた二号を別々の保存容器へ詰めた。一号の容器には赤い輪ゴム、二号には青い輪ゴムを掛け、取り違えないよう試作番号を書いた付箋も貼った。
玲子の家へ着くころには、雲の切れ間から薄い日が差していた。紗季は白いカーディガンをエプロンの入った手提げ袋へ掛け、茗荷と卵焼きを持って玄関へ入った。台所では大鍋に湯が沸き、冷や麦の束が輪ゴムで留められたまま置かれている。食卓には切った胡瓜、錦糸卵、缶詰のみかんまで並んでいた。
「冷や麦にみかんを載せるんですか」紗季はオレンジ色のみかんを見て尋ねた。玲子は、子供のころから冷や麦には赤や緑の麺と、缶詰のみかんが必要だと答えた。拓也は甘いみかんがつゆへ入るのを嫌がったため、結婚後の紗季は一度も載せたことがなかった。
「今日は拓也の冷や麦ではありませんから、みかんを載せましょう」玲子は冷水で締めた麺をガラスの器へ盛った。氷の間に白い麺が沈み、二本だけ混ざった桃色の麺が透けて見える。紗季は買ってきた茗荷と青じそを刻み、ねぎと一緒に小皿へ並べた。
昼食の前に、玲子は二種類の卵焼きを食べ比べた。最初に赤い輪ゴムの一号を口へ入れ、すぐに鼻から息を吐いた。表面は黄色いのに、確かに味噌の焦げた匂いが残っている。ねぎの部分から卵が裂け、食感も均一ではなかった。
「おいしくないわけではないけれど、卵焼きにする必要はないかもしれないわね」玲子は率直に言った。ご飯へ載せれば十分おいしいが、箸でつまむと崩れやすい。紗季は試作帳を開き、玲子の言葉をそのまま書いた。
次に青い輪ゴムの二号を食べると、玲子はすぐには感想を言わなかった。外側の卵をかみ、中心の卵味噌まで口へ入れてから、冷たい麦茶を一口飲んだ。紗季は返事を急かさず、玲子の箸がもう一切れへ伸びるのを見ていた。
「初めて食べるのに、前にも食べたような気がするわ」玲子は二切れ目の断面を眺めた。味噌、砂糖、卵、ねぎは、どれも昔から食卓にあるものだった。組み合わせ方は新しくても、舌が知っている味ばかりなので、記憶のどこかへ自然につながるのだろう。
「やっぱり、私だけではなかったんですね」紗季は試作帳へ大きな丸を一つ書いた。祖父の台所を知らない玲子も、同じように懐かしさを感じた。それなら商品説明にも、特定の地方料理を再現したと書くのではなく、「初めてなのに懐かしい朝のおかず」と表現できるかもしれない。
「でも、少し甘いわ。朝食なら、もう一口だけ薄味でもいいと思います」玲子は冷や麦のつゆへ茗荷を入れた。紗季は祖父の味を残したくて砂糖を減らしきれなかったことを打ち明けた。玲子は、思い出と同じ量の砂糖を入れなくても、祖父との記憶は消えないと言った。
「味を変えたら、おじいさまとの料理ではなくなると思っているのですか」玲子は缶詰のみかんを紗季の器へ二つ載せた。紗季は答えながら、桃色の冷や麦を一本だけ箸で持ち上げた。祖父が生きていれば、焦がさなければ何でもよいと笑うような気がした。
「おじいちゃんは、失敗した卵味噌も捨てませんでした。少しくらい変えても、へそは曲げないでしょうね」紗季はみかんと冷や麦を別々に食べた。甘いつゆになると思っていたが、みかんの酸味は冷たい麺の合間によく合った。拓也の好みに合わせて外していた食材が、何年ぶりかに食卓へ戻ってきた。
昼食後、紗季は玲子の台所を借り、砂糖を減らした三号を焼いた。玲子は火加減を横から見ながら、弱火では時間がかかると何度も蓋を開けた。紗季は、卵を急かすと機嫌を悪くすると祖父から教わったと説明した。玲子は、拓也にも同じ言葉を聞かせておけばよかったと呟き、二人で顔を見合わせた。
「卵は待てても、息子の成長は待ちきれなかったのよね」玲子は使い終えたボウルを洗った。紗季は返す言葉を探さず、卵焼き器の温度へ意識を戻した。誰かの成長を待つことと、その人の責任を代わりに引き受けることは違う。それを二人とも、ずいぶん時間がたってから覚えた。
三号は焦げた匂いもなく、外側は淡い黄色に仕上がった。切ると、ねぎ入りの卵味噌が中央へ細く収まり、一号より形も崩れにくい。玲子は一切れ食べ、これなら朝に二切れは食べられると合格を出した。紗季は試作帳へ、弱火、砂糖三割減、卵味噌を冷ましてから巻くと記録した。
帰宅後、紗季は会社の企画用ノートを開いた。商品名の候補として「ねぎ味噌たまご」「卵味噌のだし巻き」「おじいちゃんの朝たまご」と書き並べる。最後の名前は個人的すぎると思い、線を引きかけたが、そのまま残した。商品名にならなくても、この料理を作り始めた理由を忘れないためだった。
一号の残りは夕食に食べた。細かく刻んで炊きたてのご飯へ載せると、焦げ臭さは薄まり、甘辛い味がよく合った。冷蔵庫に残っていた大根の味噌汁と、胡瓜の浅漬けも食卓へ並べる。失敗した卵焼きも、形を変えれば捨てずに済んだ。
紗季は玲子から届いたメッセージを開いた。そこには「初めてなのに懐かしい味でした。発売されたら買います」と書かれ、食べ終えた皿の写真が添えられている。皿の隅には、冷や麦へ載せたみかんが一つだけ残っていた。紗季は笑いながら、商品企画部の共有予定表へ「卵味噌入り卵焼き・試食提案」と入力した。
目新しいだけの商品なら、流行が終われば忘れられるかもしれない。しかし新しい形の中に、誰かが子供のころから知っている味があれば、朝の食卓へ長く残る可能性がある。祖父から教わった卵味噌は、そのままでは巻きにくく、火加減を間違えればすぐに焦げた。それでも紗季は、焦げ臭い一号の記録を消さず、三号の隣へ丁寧に残した。




