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第17話 あなたが作った企画です

第17話 あなたが作った企画です


六月の月曜日、紗季は目覚まし時計が鳴る五分前に目を覚ました。薄い灰色のカーテンの向こうでは雨が降り、ベランダの手すりから落ちる雫が、室外機の上で一定の音を立てている。紗季は淡い黄色のパジャマから白いブラウスと紺色のパンツへ着替え、髪を後ろで一つに束ねた。今日は冷凍朝食シリーズ「朝のひとさら」の最終企画会議が開かれるため、いつもより早く出社する予定だった。


台所では、昨夜から冷蔵庫へ移しておいた試作品を電子レンジで温めた。南瓜と鶏肉の豆乳スープ、小さな全粒粉パン、いんげんの温野菜が、一つの容器へ収められている。蓋を少し開けると、豆乳とバターの柔らかな匂いが上がり、眼鏡の端が白く曇った。紗季は南瓜の中心へ竹串を刺し、温度計の数字をノートへ記録した。


「三分二十秒だと、パンの底がまだ少し冷たいのね」紗季は一人でつぶやき、全粒粉パンを半分に割った。南瓜は十分に温まっているが、容器の仕切りに近い部分だけ温度が低い。十秒延ばせばパンが硬くなるため、加熱時間ではなく容器の形を変えたほうがよさそうだった。


食卓の端には、昨夜取り込んだ靴下とタオルが畳まれないまま積んであった。紗季はスープを食べながら靴下を一足ずつ組み合わせ、片方だけ見つからない黒い靴下を洗濯籠の底から探し出した。拓也と暮らしていたころは、朝食を試すように味わう余裕などなく、夫の出勤時刻と弁当の中身ばかり気にしていた。今は一人分の朝食を、自分の舌で確かめている。


北辰食品の商品企画部へ着くと、若手社員の佐藤美月が会議室の机へ試食用の皿を並べていた。紗季は白いブラウスの上から薄手の紺色ジャケットを羽織り、保冷袋から自宅で試した容器を取り出した。室内にはコピーしたばかりの紙と、温め始めたトマトスープの匂いが混じっている。課長の水野真紀は焦げ茶色のパンツスーツを着て、資料の部数を数えていた。


「相沢さん、南瓜豆乳が一つ足りません。私、また数を間違えたみたいです」美月は試作品の箱をのぞき込み、指を折って数え直した。紗季は予備として持ってきた一個を差し出し、自分は朝に味見を済ませたから大丈夫だと答えた。美月は胸をなで下ろし、次から箱へ入れるたびに正の字を書くと言った。


「冷凍庫へ入れる数まで企画書に書かないと駄目かしら」真紀は冗談を言いながら、自分の試食用スプーンを探した。右手には持っているのに、資料の下を何度もめくっている。紗季がその手元を指すと、真紀は課長になってもこういうところは治らないと開き直った。


最終企画会議には、社長、営業部、製造部、品質管理部から十六人が集まった。紗季はスクリーンの横へ立ち、一人暮らしの女性百二十人を対象にした調査結果を説明した。朝食を取らない理由として多かったのは、時間がない、一人分を作るのが面倒、食材を余らせる、洗い物を増やしたくないという回答だった。数字だけでは分からない生活の様子を伝えるため、自由回答の一部も読み上げた。


「『一人だから、バナナ一本で済ませてしまう』という回答がありました。また、『誰にも見られない朝食へお金をかけるのはもったいない』と書いた方もいます」紗季は次の資料へ画面を切り替えた。「朝のひとさら」は豪華さを売りにするのではなく、一人分を残さず食べ切れる満足感を目指している。容器はそのまま皿として使え、スープ、主食、少量の野菜を一度に温められる。


「一人暮らしなら、パンとスープを別に買えばよいのではありませんか」営業部長が尋ねた。紗季は、別々の商品では量が多くなり、どちらかを余らせるという調査結果を示した。小さなパン一個だけを個包装すると包装費が増えるため、一つの容器へまとめることで価格を抑えられることも説明した。


「一人分だから簡素にするのではありません。一人分だからこそ、きちんと食べ終えられる形にします」紗季は試作品の蓋を開けた。南瓜、鶏肉、いんげんの色が見え、豆乳スープの湯気が上がる。社長はスプーンで南瓜を割り、中心まで温まっていることを確かめた。


製造部長からは、具材が大きいと加熱むらが生じるという指摘が出た。紗季は一か月間の加熱試験をまとめた帳面を開き、南瓜を三センチから二・四センチへ変更した経緯を説明した。帳面の表紙には豆乳をこぼした薄い染みがあり、ページの隅には美月が描いた小さな南瓜の顔まで残っていた。きれいに整えられた最終企画書の裏には、何度も失敗した朝食の記録がある。


「毎朝、これを食べたのですか」社長が帳面をめくりながら尋ねた。紗季は三種類を交代で食べたが、冷凍庫が試作品で埋まり、冷凍うどんを縦に立てることになったと答えた。会議室に笑いが起こり、製造部長は、それなら冷凍庫の収納商品も企画してほしいと言った。


試食と質疑が終わると、社長は空になった容器の蓋を閉じた。朝食を簡単にする商品は珍しくないが、一人で食べることを不足として扱わない点がよいと評価した。南瓜豆乳、具だくさんトマト、きのこと鶏肉の三種類で試験販売を行い、売上と購入者の反応を確認することが決まった。美月は机の下で両手を握り、真紀は議事録へ承認の文字を書き込んだ。


「相沢さん、この企画を進めてください」社長の言葉を受け、紗季は深く頭を下げた。復職して二か月、契約社員として初めて中心に立った企画だった。顔を上げると、スクリーンには一人分の朝食が並ぶ小さな食卓の写真が映っている。向かい側に誰かが座ることを前提にせず、自分のために用意された朝だった。


会議のあと、真紀は給湯室で二人分のコーヒーを淹れた。紙コップへ砂糖を二本入れようとしたため、紗季は健康診断が近いと言っていたことを思い出させた。真紀は企画が通った日は砂糖の一本くらい帳消しになると主張したが、結局、一人一本ずつ分けた。窓の外では雨が上がり、ビルの屋上にたまった水が白く光っていた。


「おめでとう。八年前より、ずっと生活の顔が見える企画になったわ」真紀は紙コップを持ち上げた。紗季は、製造部や品質管理部の協力がなければ、南瓜の中心が冷たいまま発売されていたと答えた。真紀は、修正を受け入れ、人をつなぐことも企画担当者の力だと言った。


一週間後、「朝のひとさら」を販売する協力会社との商談が決まった。相手は東都住宅販売で、単身女性向け賃貸住宅の共用部へ冷凍食品の無人販売設備を導入しようとしていた。夜遅く帰宅する入居者が翌朝の商品を買えるようにしたいという提案で、北辰食品の企画とよく合っている。営業部から届いた参加者名簿を見た紗季は、三人目の名前で指を止めた。


相沢拓也、法人営業第二課。見慣れていたはずの文字が、画面の上では他人の名前のように並んでいた。紗季は名簿を閉じず、真紀へ内線電話をかけた。事情を隠したまま商談へ出れば、かえって会社に迷惑をかける可能性がある。


「来週の商談ですが、先方の担当者は私の元夫です」紗季は事実だけを伝えた。真紀はすぐに、担当を美月へ替えることもできると答えた。離婚相手と仕事で向き合うことを、成長の試験にする必要はないという。


「企画担当者として出席します。ただし、私生活の話が出た場合は、課長から止めてください」紗季は頼んだ。真紀は営業部長へも事情を共有し、商談には必ず同席すると約束した。電話を切ったあと、紗季は引き出しから醤油煎餅を一枚取り出し、半分に割ってゆっくりかんだ。


商談当日の朝、紗季は白いボウタイブラウスに濃紺のパンツスーツを合わせた。雑穀おにぎり一個と、小松菜と豆腐の味噌汁を朝食にしたが、味噌汁は二口ほど残った。鍋へ戻すのは衛生上よくないと思い、そのまま流しへ運ぶ。冷めた味噌汁の表面では、小さく切った豆腐が白く浮いていた。


東都住宅販売の本社会議室には、灰色のカーペットと長い木目調の机があった。窓は閉め切られ、空調の乾いた風に、清掃用洗剤の柑橘系の匂いが混じっている。北辰食品の五人が席へ着くと、会社名の入ったペットボトルの水が一人一本ずつ配られた。紗季は企画書、調査結果、会議議事録の順に資料を並べた。


扉が開き、東都住宅販売の営業部長、山根課長、そして拓也が入ってきた。拓也は紺色のスーツに青いストライプのネクタイを締めている。紗季を見た瞬間、足がわずかに止まったが、すぐに親しげな笑みを作った。以前より頬がこけ、名刺入れの角は白く擦れていた。


「お久しぶりです、相沢さん」紗季はほかの取引先にするのと同じように名刺を差し出した。名刺には、北辰食品商品企画部、相沢紗季と印刷されている。拓也は契約社員という文字へ一瞬目を止め、会社へ戻ったとは知らなかったと小声で言った。


「本日はよろしくお願いいたします」紗季はそれだけ答え、席へ戻った。真紀は拓也の顔を一度確認したが、何も言わず商談開始の合図をした。保冷箱から試作品が取り出され、会議室へトマトと炒め玉ねぎの匂いが広がった。


紗季は調査結果と商品開発の経緯を説明し、東都住宅販売が管理する賃貸住宅との相性を示した。無人販売設備へ入る容器の寸法、予定価格、賞味期限、補充の回数まで資料にまとめてある。山根課長は、帰宅時間が遅い入居者は夕食として購入する可能性もあると指摘した。紗季は購入時刻の記録を取り、夕食需要が多ければ量の多い商品を別に企画すると答えた。


試食が始まると、拓也は南瓜豆乳スープを口へ運び、懐かしい味だと笑った。紗季は資料へ視線を置いたまま、次の質問を待った。ところが拓也はスプーンを容器へ戻し、自社の営業部長へ顔を向けた。何か気の利いた裏話を披露するような口調だった。


「実は相沢さん、私の元妻なんですよ」拓也は会議室にいる全員へ聞こえる声で言った。東都住宅販売の山根課長が驚いて紗季を見た。真紀はペンを置き、北辰食品の営業部長は眉を寄せた。


「結婚していたころから、朝食については私もいろいろ助言していました。パンは一個で十分だとか、スープの具は大きいほうが腹にたまるとか。この企画も、うちで作っていた朝食が土台なんじゃないかな」拓也は紗季へ同意を求めるように笑った。夫婦だったという立場を使えば、紗季は人前で強く否定できないと思っていた。企画へ関わった人物として自分を見せれば、取引先での評価も上がると考えていた。


「それなら、相沢君も商品開発へ協力したということか」営業部長が拓也へ尋ねた。拓也は正式な仕事ではないと前置きしながら、八年間、消費者代表として紗季へ意見を言ってきたと答えた。南瓜を大きく切ることも、自分が食べ応えを求めた結果だと付け加えた。


紗季は拓也を見ず、手元のファイルを開いた。企画書の初稿、聞き取り調査の集計、試作会議の議事録、共有ファイルの変更履歴が順番に収められている。パンを一個にした案は、一人暮らしの女性への調査結果から生まれていた。具材の大きさも、製造部の加熱試験によって三度変更されている。


「こちらが企画書の作成記録と、社内会議の議事録です」紗季は必要な資料を両社の営業部長へ渡した。真紀もパソコンを開き、共有ファイルの変更履歴を画面へ表示した。誰が、いつ、どの部分へ意見を出したか、すべて記録されている。


「パンの個数は、調査対象者百二十人の回答を基に決定しました。南瓜の大きさは加熱試験の結果です。商品開発について、先方の相沢様から助言を受けた事実はございません」紗季は数字と日付を示した。拓也が結婚中に食べた朝食も、紗季の生活者としての経験には含まれている。しかし今回の商品は、拓也一人の好みを再現したものではなかった。


「夫婦だったころの経験が、私の考え方の一部になっていることは否定しません。ただ、この商品は北辰食品の調査と、各部署の検討によって作られました」紗季は拓也を嘘つきと呼ばなかった。怒鳴ることも、結婚中の食卓について細かく暴露することもしない。記録に残っている事実だけを、会議の参加者へ提示した。


「企画責任者は相沢紗季です。私は初稿からすべての会議に参加していますが、東都住宅販売の相沢様から意見を受けたことはありません」真紀も明確に説明した。会議室には資料をめくる音だけが残った。拓也は紙コップの水へ手を伸ばしたが、指が容器へ当たり、机へ一滴こぼれた。


「相沢君、どうして確認していないことを商談で話したのかね」東都住宅販売の営業部長は低い声で尋ねた。拓也は場を和ませるための話だったと答えた。元妻が緊張しているように見えたので、昔の話をすれば説明しやすいと思ったとも付け加えた。


「相沢さんが緊張しているようには見えませんでした」山根課長が資料を閉じた。企画へ関与したような説明は、場を和ませる雑談ではない。取引先の商品に対する権利や貢献を誤認させる可能性があり、会社同士の商談で軽く扱える話ではなかった。


営業部長は拓也へ視線を向けたまま、しばらく黙っていた。会社には、拓也の給与に対する債権差押命令が届いている。公正証書で約束した慰謝料を支払わず、元妻との法的な問題が続いていることも、総務から報告を受けていた。詳細を取引先へ話すことはなかったが、拓也が以前説明した「元妻に突然財産を奪われた」という話と、公的な書類の内容が一致しないことは把握していた。


「相沢君、君は私生活上の問題を業務へ持ち込まないよう、すでに注意を受けていたはずだ」営業部長は机の上で両手を組んだ。拓也は、離婚と今回の商品は別の話だと反論した。だが、その別の話を商談へ持ち込んだのは拓也自身だった。


「このあとの商談から外れてくれ。担当は山根課長へ変更する」営業部長は扉を示した。拓也は、この物件の調査を最初に行ったのは自分であり、入居者アンケートをまとめたのも自分だと訴えた。最後まで参加する権利があるという声は、話すたびに大きくなった。


「担当者に必要なのは、資料を集めることだけではない。取引先との信頼を守ることだ」営業部長は返答を変えなかった。廊下では、台車の車輪が床の継ぎ目を越える音がした。拓也は唇を結び、椅子の背へ掛けていたジャケットを乱暴に取った。


会議室を出る前、拓也は紗季の席の前で足を止めた。自分を否定したせいで商談から外されたのだと、目が訴えている。以前の紗季なら、夫が職場で恥をかかないよう話を合わせ、帰宅してから二人だけで注意しただろう。今の紗季には、拓也の嘘を守る理由がなかった。


「お仕事ですので、私情は持ち込みません」紗季は立ち上がり、取引先へするのと同じ角度で丁寧に頭を下げた。拓也を責める言葉ではなかったため、誰が私情を持ち込んだのかが、かえってはっきりした。拓也は何も答えず、扉を開けて廊下へ出た。


休憩スペースまで歩いた拓也は、自動販売機で缶コーヒーを買った。微糖を押したつもりだったが、落ちてきたのは無糖だった。蓋を開けると強い苦みの匂いが立ち、一口飲んだだけで顔がゆがんだ。壁際のテーブルには、誰かが昼食に使った割り箸の袋と、丸めた紙ナプキンが残っていた。


拓也はスマートフォンを確認した。美咲からも奈緒子からも、玲子からも連絡はない。紗季へ電話をかけようとしたが、番号は着信拒否されている。差し押さえ後の給料では昼食代も気になり、今朝はコンビニのパン一個だけで済ませていた。


会議室では山根課長が拓也の席へ移り、商談が再開された。単身女性の多い三棟で三か月間の試験販売を行い、販売数、購入時間、売れ残りの種類を記録することになった。設備の温度管理や商品の補充方法も一つずつ決められた。紗季は先ほどの出来事に触れず、企画担当者として質問へ答え続けた。


「案内書には、商品の説明だけでなく、一人の朝を肯定できる写真を使いたいと考えています」紗季は試作した紙面を示した。窓辺の小さな食卓へ、スープとパンが一人分だけ置かれている。空席を寂しそうに見せず、自分のために整えた朝食として撮影したものだった。


商談終了後、東都住宅販売の営業部長は、担当者の不適切な発言について北辰食品へ謝罪した。真紀は会社同士の問題として謝罪を受け、今後は山根課長を窓口にして企画を進めると確認した。紗季も最後まで取引先への態度を崩さず、資料を順番に鞄へ収めた。使わなかった予備の企画書だけ、角が少し折れていた。


外へ出ると、午後から再び雨が降っていた。紗季と真紀は一本の傘へ入り、駅へ向かって歩いた。パンプスの先へ雨水が跳ね、歩道脇の紫陽花には大きな雫がたまっている。真紀は信号待ちで紗季の顔を見た。


「大丈夫?」真紀は短く尋ねた。紗季は、朝の味噌汁を冷蔵庫へしまったかどうか、それだけが気になると答えた。真紀は目を丸くしたあと、梅雨時だから帰ったら匂いを確かめるよう、真面目な顔で助言した。


「昔なら、あの人が恥をかかないよう、私が話を合わせていたと思う」紗季は濡れた横断歩道を見ながら言った。拓也が取引先で間違った説明をしても、その場では夫を立て、家へ帰ってから直していた。拓也は今日も、紗季が同じことをすると信じていたのだろう。


「あなたが恥をかかせたんじゃないわ。あの人が自分で持ってきた嘘を、自分で机へ広げたのよ」真紀は傘を紗季側へ寄せた。自分の肩が濡れたため、紗季は傘の柄を中央へ押し戻した。二人は駅前のパン屋へ寄り、夕方の割引になった胡桃パンを一個ずつ買った。


帰宅した紗季は、濡れたジャケットをハンガーへ掛け、パンプスへ丸めた新聞紙を詰めた。冷蔵庫を開けると、朝の味噌汁は保存容器に入れ、二段目へきちんと置いてあった。緊張していたため、しまった記憶だけが抜け落ちていたらしい。紗季は小鍋へ味噌汁を移し、卵を一つ落とした。


夕食には胡桃パンと、人参のラペも添えた。味噌汁とパンという少し妙な組み合わせになったが、一人の食卓では誰にも文句を言われない。半熟になった卵を箸で割ると、黄色い中身が味噌汁へゆっくり広がった。紗季は冷めないうちに一口飲み、小松菜をかんだ。


食後、真紀から商談の議事録が届いた。東都住宅販売での担当者変更と、次回までに準備する容器案が整理されている。拓也の発言についても、私的関係を利用して商品企画へ関与したと誤認させる説明があり、作成記録によって訂正したと客観的に記されていた。紗季は内容を確認し、「修正ありません」と返信した。


しばらくすると玲子から電話があった。拓也本人から連絡があり、紗季のせいで商談から外されたと訴えていたらしい。玲子は夕食の鰤の照り焼きを片づけているところで、水道の音と食器の触れ合う音が聞こえた。砂糖を入れすぎ、二切れとも甘くなったとこぼした。


「紗季さん、あの子がまた迷惑をかけたのね」玲子の声は低かった。紗季は、会社の記録で訂正できたため、謝る必要はないと答えた。それよりも残った鰤には大根おろしを添えると、甘さが少し和らぐと伝えた。


「あなたは昔から、話を食べ物へ戻すのが上手ね」玲子は小さく笑った。紗季は、すでに仕事として処理された問題を夕食後まで引きずりたくなかった。玲子もそれ以上拓也の話をせず、「朝のひとさら」が発売されたら最初に買うと約束した。


電話を切ったあと、紗季は翌朝のために雑穀おにぎりを一個だけ握った。炊飯器に残った茶碗半分のご飯へ、塩昆布と白ごまを混ぜる。ラップの上で三角形へ整え、冷蔵庫へ入れた。指先についたごまを洗い流すと、窓の外で雨が強くなった。


「朝のひとさら」を誰が作ったのかは、拓也の説明では変わらない。企画書、議事録、調査票、試作の失敗を記録した汚れた帳面が、商品のできるまでを残している。夫婦だった八年間には、紗季の働きを証明する勤務表も給与明細もなかった。しかし今の仕事は、誰かの一言で奪われない形になり始めていた。


紗季は食卓に置いた企画書の控えを閉じた。表紙には、企画責任者として相沢紗季の名前が印刷されている。拓也の妻でも、誰かの元妻でもなく、北辰食品の商品企画担当者として記された名前だった。窓辺のサボテンでは、二つの新芽が親株から離れるように、それぞれ別の方向へ伸びていた。



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― 新着の感想 ―
まったく、給料から慰謝料差し押さえられている身で、よく「離婚した元妻」とか言えるな。 会議室にいた全員「あ。察し‥」ってなってる。 営業部長グッジョブだよ。入居者アンケートをまとめたって、新人の仕事だ…
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