第16話 専業主婦だった八年間
第16話 専業主婦だった八年間
三月の初め、紗季は料理教室で習った菜の花と海老のちらし寿司を保存容器へ詰め、玲子の家へ向かっていた。薄い若草色のニットに生成りのロングスカートを合わせ、まだ風が冷たいため、上から紺色のトレンチコートを羽織っている。住宅街の庭先では沈丁花が咲き始め、甘い香りが細い道へ流れていた。手提げ袋の中で保存容器が傾かないよう、紗季は歩幅を小さくして歩いた。
玲子は桃色の割烹着を着て、玄関まで迎えに出た。食卓には蓮根と椎茸を入れたちらし寿司、蛤の潮汁、ほうれん草の白あえが並び、紗季の持ってきた料理と合わせると、四人分ほどの量になった。二人しかいないのに作りすぎたと玲子は笑い、余った分は夕食にすればよいと言って、小さな重箱の蓋を開けた。蛤の殻が開いた潮汁から、昆布と三つ葉の匂いが立ち上った。
「同じ日に二人ともちらし寿司を作るなんて、相談したみたいね」玲子は紗季の菜の花を見て、自分も買えばよかったと箸を伸ばした。紗季は玲子の蓮根を一口食べ、甘酢の加減がちょうどよいと伝えた。拓也と暮らしていたころの三月三日には、彼が酸っぱいものを嫌うため、酢を半分に減らして作っていた。今日は自分の好みに合わせて少し強めの酢飯にしたが、そのことを誰かへ説明する必要はなかった。
食事を終え、二人で食器を洗っていると、玲子が台所の引き出しから古い缶を取り出した。紗季が結婚前に勤めていた北辰食品の菓子缶で、蓋には黄色い南瓜の絵が描かれている。中には輪ゴム、乾電池、使いかけのろうそくが無造作に入っていた。商品名は「ひとやすみ南瓜スープ」で、紗季が商品企画部にいたころ、初めて中心となって企画したものだった。
「これ、まだ使ってくださっていたんですね」紗季は缶の縁にできた小さなへこみを指でなぞった。発売当時、拓也は段ボール一箱分を営業先へ配り、玲子も近所の人へ勧めてくれた。大きな売上ではなかったが、一人分の粉末スープとして半年間、社内の販売目標を超えた商品だった。
「捨てる理由がないもの。電池を入れるのにちょうどいいのよ」玲子は単三電池と単四電池が混ざって探しにくいことをこぼした。紗季は厚紙で仕切りを作ればよいと答え、空になった菓子箱を切って、その場で小さな仕切りを組み立てた。玲子は、そういうことを思いつくのが昔から得意だったのねと缶の蓋を閉めた。
「昔のことです。今は新しい商品も、売り方も、ずいぶん変わっているでしょうから」紗季は洗った重箱を布巾で拭きながら答えた。八年間、会社の会議にも市場調査にも参加していない。自宅で新商品を見かけても、拓也の好みに合うか、特売品かという目でしか見なくなっていた。
「八年間、ご飯を作り、家計を回し、あの子の取引先にまで気を配っていたのでしょう。それを何もしていなかった八年みたいに言わないでちょうだい」玲子は冷蔵庫から苺を出し、へたを取って皿へ盛った。少し熟しすぎた苺の一つには、赤い果汁がにじんでいる。紗季は返事をせず、形の崩れた苺から先に口へ入れた。
玲子の家を出たあと、紗季は駅前の書店へ立ち寄った。食品業界の雑誌を一冊手に取り、目次を確認していると、背後から名字を呼ばれた。振り返ると、灰色のパンツスーツを着た女性が、料理雑誌を胸へ抱えて立っている。北辰食品で同期だった水野真紀だった。
「やっぱり紗季じゃない。髪が少し短くなったけれど、すぐ分かったわ」真紀は紗季の両手を握り、書店の通路で大きな声を出した。近くで立ち読みをしていた男性が顔を上げたため、二人は声を抑えて笑った。真紀は四年前に結婚して名字が変わったが、会社では旧姓を使い続けているという。
二人は書店の二階にある喫茶店へ入り、窓際の席へ座った。真紀は苺のワッフルと紅茶を注文し、紗季は昼食を食べたばかりだったため、深煎りのコーヒーだけを頼んだ。店内には焼いたバターとメープルシロップの香りが漂い、カップを並べる陶器の音が小さく響いている。真紀はワッフルへ載った生クリームを見て、健康診断が来週なのに頼んでしまったと肩をすくめた。
「今、何をしているの。旦那さんは元気?」真紀が尋ねると、紗季は離婚したことを簡潔に伝えた。不倫や慰謝料については話さず、今は一人で暮らしながら、これから仕事を探そうと思っていると続けた。真紀はナイフを置き、もう少し早く会いたかったと身を乗り出した。
「北辰へ戻る気はない? 商品企画部で人を探しているのよ」真紀は現在、商品企画部の課長になっていた。子育て中の社員が一人退職し、若い社員だけでは消費者の生活を具体的に捉えきれず、新しい人材を探しているという。紗季が八年前に作った南瓜スープは、今も季節限定商品として販売されていた。
「私、八年も仕事をしていないのよ。表計算ソフトだって、今のものは操作が変わっているでしょう」紗季はコーヒーカップの持ち手を指で何度もなぞった。退職した年に使っていたパソコンはすでに処分し、会社のメールを開くときに必要だった暗証番号さえ覚えていない。三十四歳で一からやり直す自分を想像すると、喫茶店の椅子が急に硬くなったように感じた。
「操作は教えれば覚えられるわ。でも、生活している人が何に困っているかを考える力は、研修だけでは身につかないの」真紀はワッフルを一口食べ、シロップが袖口へ落ちそうになって慌てて紙ナプキンで押さえた。会議では冷静な課長として通っているらしいが、食べ物をこぼす癖は入社当時から変わっていなかった。紗季が笑うと、真紀は昔も昼休みに何度ハンカチを借りたか分からないと開き直った。
「結婚してから、どんなことをしていたか教えて」真紀は手帳を開き、ペンを持った。紗季は、特別なことは何もしていないと答えかけたが、玲子の言葉を思い出した。毎朝、拓也の出勤時刻に合わせて朝食を用意し、夕食は昼食と重ならないよう考え、月末には家計簿の数字を合わせていた。
「夫は魚の骨を嫌がるので、焼く前に取れる骨は抜いていました。朝はパンよりご飯を好みましたが、出張の翌日は味噌汁だけにしてほしいと言うこともありました」紗季は話しながら、八年間の台所を一つずつ思い出した。夏の営業回りには塩分を少し強くしたおにぎりを持たせ、胃が疲れている日は大根を柔らかく煮た。給料日前には冷蔵庫の残り物を組み合わせ、同じ材料が続いていると気づかれないよう、切り方や味を変えていた。
「取引先への贈答品も選んでいたわよね。前に拓也さんが、紗季に全部任せていると話していたもの」真紀が言うと、紗季は年二回、三十件近い送り先を管理していたと答えた。甘い物を控えている人、酒を飲まない人、子供がいる家庭、夫婦二人だけの家庭を帳面へ書き分け、同じ品物が三年続かないよう確認した。拓也は発送が終わると自分の気配りとして取引先から礼を言われ、紗季には「今年も無事に済んだな」とだけ話していた。
「それ、顧客管理と商品選定よ。家計簿は予算管理、毎日の献立は在庫管理と企画、贈答品は購買行動の分析でしょう」真紀は手帳へ次々と書き込み、ペン先で紙を二度たたいた。家庭の中にあったため給与が発生しなかっただけで、紗季が考え、選び、調整してきた事実までなくなったわけではない。紗季は冷めたコーヒーを飲み、底に残った苦みをゆっくりのみ込んだ。
「でも、いきなり正社員として戻るのは怖いわ」紗季は窓の外を通る電車へ目を向けた。朝の通勤、会議、締め切り、電話対応を一度に始め、途中で動けなくなれば、会社にも真紀にも迷惑をかける。専業主婦だった八年間を否定するために、無理な働き方を選びたいわけではなかった。
「最初は契約社員でどう? 半年契約で、週四日。企画補助から始めて、続けられそうなら次を考える」真紀は会社へ戻って人事と相談すると言った。特別扱いで採用するのではなく、正式な面接と実技課題を受けてもらう。紗季が今も企画の仕事をできるか、会社側もきちんと確認する必要があった。
「課題で落ちても、恨まないでね」真紀は最後のワッフルを切り、口へ運んだ。紗季は、落ちたら真紀が昔こぼしたカレーうどんの話を社内へ広めると答えた。真紀は、もう課長なのだからそれだけはやめてほしいと笑い、喫茶店の紙ナプキンへ面接担当者の名前を書いた。
帰宅した紗季は、クローゼットの奥から黒いスーツを取り出した。退職時に着ていたものは肩の形が古く、スカートの腰回りも少しきつい。ハンガーへ掛けて眺めたあと、翌日、駅前の衣料品店で面接用のパンツスーツを探すことにした。ベッドの上には取り込んだ洗濯物が積まれ、片方だけの靴下が一枚、枕の下から見つかった。
夕食は玲子から持たされたちらし寿司と、朝に作っておいた豆腐の味噌汁だった。味噌汁は鍋の中で冷え、表面に薄い膜が張っていたため、少し水を足して温め直した。ちらし寿司に刻み海苔を載せ、冷蔵庫に残っていた胡瓜の浅漬けも小皿へ出す。食卓へ座ると、玲子から「今日は楽しかったです」という短いメッセージが届いていた。
「私、北辰食品の面接を受けるかもしれません」紗季が電話をかけると、玲子はすぐに「受けなさい」と答えた。採用されるかどうかより、応募書類を書いて会社の扉まで行くことが大切だという。玲子は電話の向こうで食器を洗っており、水道の音と、茶碗同士が触れる音が聞こえた。
「もし落ちたら、少し格好が悪いですね」紗季はちらし寿司から、酢蓮根を一枚箸で持ち上げた。玲子は、誰に対して格好が悪いのかと尋ねた。拓也に知られるわけでもなく、近所の人へ結果を報告する必要もないのだから、落ちたら家で温かいご飯を食べ、次の日に別の求人を探せばよいと言った。
「そうですね。明日の味噌汁は、落ちても受かっても同じ味ですものね」紗季は椀へ口をつけた。温め直した味噌汁は少し薄くなっていたが、ちらし寿司と一緒に食べるにはちょうどよかった。電話を切ったあと、紗季はノートパソコンを開き、北辰食品の求人ページへアクセスした。
応募書類の職歴欄には、八年前までの商品企画の経験を書いた。その下には長い空白が残ったが、紗季は結婚に伴い退職とだけ記し、何度も言い訳を書き足すことはしなかった。自己PR欄では手が止まり、家計簿、献立、贈答品という言葉を別の紙へ書き出した。最初は仕事と呼べないと思っていた一つ一つを、生活者としての経験に言い換えていった。
「限られた予算と食材で、栄養、季節、嗜好を考慮した献立を八年間継続しました」紗季は入力した文章を声に出して読んだ。少し大げさに見えて削除しかけたが、嘘は一つも書いていない。続けて、家庭ごとに異なる贈答品の需要を把握し、送付先と履歴を管理した経験も記した。
面接の日、紗季は新しく買った濃紺のパンツスーツに、白いボウタイブラウスを合わせた。朝食には鮭のおにぎりを一つと、わかめの味噌汁を用意したが、半分ほどしか喉を通らなかった。玄関を出る前に鏡を見ると、襟元のリボンが少し曲がっている。結び直しているうちに予定より五分遅くなり、紗季は鞄を抱えて駅まで早足で歩いた。
北辰食品の本社は、以前と同じ薄茶色の八階建てだった。玄関脇の植え込みは新しくなり、受付は紙の名簿ではなく、タッチパネルへ変わっている。紗季は訪問先を入力しようとして、商品企画部の文字を二度押してしまった。受付の女性に操作を教えられ、礼を言ってから来客証を首へ掛けた。
会議室には真紀と人事課の男性、商品企画部長の三人が待っていた。机の上には紙コップの水と、応募書類、実技課題の用紙が並んでいる。真紀は課長らしい顔で一礼し、喫茶店で再会したときのような笑顔は見せなかった。紗季も旧友ではなく応募者として椅子へ座り、膝の上で両手をそろえた。
「八年間の離職期間がありますが、仕事へ戻ろうと思った理由を聞かせてください」人事担当者が尋ねた。紗季は一度息を吸い、夫を支えるために退職し、離婚を機に自分の生活を作り直そうと考えたと答えた。専業主婦だった時間を隠すことも、必要以上に立派に見せることもしなかった。
「家事は会社の仕事とは違います。しかし、誰が、いつ、何を必要とするかを考え、限られた予算で選ぶことは毎日続けてきました。その経験を、もう一度商品企画に生かしたいと思っています」紗季は面接官の顔を順に見た。部長は応募書類へ視線を落とし、南瓜スープの企画について質問した。紗季は高齢の女性が一人でも飲み切れる量、缶を小物入れとして再利用できる形、甘すぎない味を考えた経緯を説明した。
実技課題は、一人暮らしの女性を対象とした朝食商品の案を三十分でまとめることだった。机には市場調査の簡単な資料、原材料費の目安、既存商品の一覧が置かれている。紗季は最初の五分間、何も書けず、鉛筆の先で用紙の隅へ小さな点を作った。八年前なら、競合商品や販売価格から考え始めていた。
やがて紗季は、自分が離婚後に初めて一人分の朝食を作った日を思い出した。食パンを二枚焼き、コーヒー豆を二人分挽いてしまった朝である。一人だから量を減らすだけではなく、一人でも食卓を整えたくなる商品が必要だった。忙しい朝にも温かいものがあり、洗い物が少なく、食べ切れなかった罪悪感も残らない形を考えた。
「一人分の野菜スープと、小さな丸パンを組み合わせた冷凍朝食セット」紗季は用紙の中央へ題名を書いた。スープは南瓜、トマト、豆乳きのこの三種類から選べ、パンは一個だけ入れる。容器のまま温められ、蓋は皿代わりになる。包装には栄養成分だけでなく、食べた人へ向けた短い朝の言葉を添える案も書き加えた。
「一人暮らしだからこそ、食事を省略するのではなく、一人分をきちんと食べ終えられる商品にしたいです」課題発表で紗季が説明すると、部長はパンを一個にした理由を尋ねた。紗季は二個では多い人が残し、一個だけでは商品として寂しく見える可能性があるため、スープの具を大きくして満足感を補うと答えた。朝に食べ切れなかったパンを夜まで袋に残し、硬くしてしまった自分の経験も付け加えた。
面接から一週間後、紗季は自宅で大根と油揚げの味噌汁を作っていた。雨が降っていたため洗濯物は浴室へ干し、部屋には柔軟剤と味噌の匂いが混じっている。スマートフォンが鳴り、北辰食品の人事課と表示された。紗季は火を止め、エプロンで濡れた手を拭いてから電話へ出た。
「相沢紗季さんでいらっしゃいますか。先日の選考について、契約社員として採用させていただきたいと思い、ご連絡しました」担当者は、週四日の勤務から始め、三か月後に勤務日数を見直すと説明した。配属は商品企画部で、最初の担当は実技課題にも出された、一人暮らしの女性向け朝食商品の企画補助だった。出社日は翌月一日からとなる。
「ありがとうございます。よろしくお願いいたします」紗季は電話を持ったまま、何度も頭を下げた。通話が終わると、火を止めた鍋の蓋を開けた。味噌汁は少し冷めていたが、大根にはだしが染みていた。
最初に玲子へ連絡すると、受話口の向こうで大きな拍手が聞こえた。玲子はちょうどスーパーから帰ったところで、特売の卵を冷蔵庫へ入れているという。お祝いに赤飯を炊くと言い、紗季がちらし寿司の残りをようやく食べ終えたばかりだと伝えても、今度は別のものだから問題ないと譲らなかった。
「八年間が空白ではなかったと、会社の方にも分かっていただけたのですね」玲子の声を聞き、紗季は食卓の椅子へ座った。窓の外では雨粒がベランダの手すりへ当たり、一定の音を立てている。テーブルには面接で使った鞄、半分読んだ食品業界誌、昨日スーパーでもらった割引券が重なっていた。
「空白ではありませんでした。でも、あの八年間へ戻りたいわけでもありません」紗季は自分の言葉を確かめるように答えた。拓也の好みを考え、拓也の客へ品物を選び、拓也の帰宅時間に合わせて食事を温めた経験は消えていない。その力を今度は、顔も名前も知らない誰かの朝と、自分自身の暮らしのために使えばよかった。
翌月一日の朝、紗季は五時四十分に目を覚ました。濃紺のジャケットに淡い水色のブラウス、足元には歩きやすい黒いパンプスを合わせた。朝食には小さな丸パン一個、茹で卵、前夜に作った野菜スープを並べた。実技課題で提案した商品とよく似た献立になったことに気づき、紗季は一人で笑った。
玄関を出る前、紗季は窓辺のサボテンへ少しだけ水を与えた。二つに増えた新芽は、それぞれ違う方向へ伸び始めている。八年前に会社を辞めた自分と、今日会社へ戻る自分は、同じ人間であっても同じ場所には立っていなかった。紗季は社員証を受け取るための書類が鞄に入っていることを確認し、鍵を閉めた。
北辰食品の商品企画部へ入ると、パソコンの起動音、電話の呼び出し音、コピー機から出る温かい紙の匂いが一度に押し寄せた。紗季の机には新品のノート、黒いボールペン、試食用の小さな白い皿が置かれている。真紀は紗季を若い社員たちへ紹介し、最後に、最初の仕事を説明した。机の上へ置かれた企画書の表紙には、「一人暮らしの女性のための朝食商品」と印刷されていた。
「おかえり、紗季。ここからは同期ではなく、私が課長だから、びしびし働いてもらいます」真紀は真面目な顔を作ったが、紺色のブラウスの胸元には、朝食のコーヒーらしい小さな染みがついていた。紗季は鞄から染み抜き用の携帯シートを取り出し、真紀へ差し出した。八年前にも同じことをした覚えがあり、二人は顔を見合わせた。
「まずは、その染みを落としてから会議にしましょう」紗季は自分の席へ座り、企画書を開いた。専業主婦だった八年間は、履歴書の上では短い一行だった。しかし、その間に作った朝食も、使い切った食材も、何度も書き直した家計簿も、紗季の中には残っている。真っ白なノートの最初のページへ、紗季は「一人分だからこそ、きちんとおいしい朝を」と、ゆっくり書いた。




