第15話 母親を味方につければ
第15話 母親を味方につければ
二月の土曜日、拓也は朝から細かな雨が降るなか、母の玲子が暮らす実家へ向かっていた。黒いダウンジャケットの襟を立て、片手には駅前の洋菓子店で買った小さな箱を提げている。給料の差し押さえが続いているため、箱の中身は玲子が好きだった栗のモンブランではなく、特売になっていたシュークリームが二つだった。バス停から住宅街へ入ると、濡れた土と石油ストーブの煙が混じった匂いが流れてきた。
拓也が実家へ来るのは、離婚の話し合いで玲子から平手打ちを受けて以来だった。それでも母親なら、息子が頭を下げれば最後には助けてくれると考えていた。子供のころ、学校の窓ガラスを割ったときも、玲子は教師と被害に遭った家へ何度も謝りに行った。大学時代に家賃を使い込んだときも、父親には黙ったまま不足分を振り込んでくれた。
玄関の呼び鈴を押すと、しばらくして内側から足音が聞こえた。玲子は小豆色のカーディガンに黒い割烹着を重ね、白い髪を後ろで小さく束ねていた。手には里芋の皮をむいていたらしく、右の親指へ薄い茶色の泥がついている。扉を開けた玲子は息子の顔を見ても表情を変えず、雨で濡れた靴を玄関の隅へそろえるよう告げた。
「急に来てごめん。電話をしても出てくれないから」拓也は洋菓子の箱を差し出した。玲子は箱を受け取ったものの礼は言わず、賞味期限を確認してから冷蔵庫へ入れた。台所からは昆布とかつおだしの匂いが漂い、鍋の中では大根、里芋、こんにゃくが静かに煮えていた。
「電話に出なかったのは、話すことがないと思ったからです。今日は何の用ですか」玲子は居間へ座るよう勧め、自分は台所へ戻った。拓也はこたつへ足を入れ、古い座布団の端を指でなぞった。棚の上には、紗季が結婚二年目の母の日に贈った黄色い湯飲みが今も置かれていた。
「母さん、俺、紗季に謝りたいんだ」拓也は台所へ聞こえるよう、少し大きな声で言った。玲子は返事をせず、包丁で長ねぎを刻んでいた。まな板を打つ一定の音が止まらないため、拓也はこたつの上へ両手を置き、言葉を続けた。
「俺が間違っていた。美咲とはもう終わっているし、ほかの女とも何もない。やっぱり俺には紗季しかいなかったんだ」拓也は目へ力を入れ、まばたきを我慢した。しばらくすると目尻へ涙が浮かび、自分でも十分に反省している顔になったと思った。玲子は切った長ねぎを小皿へ移し、包丁についた欠片を指先で落とした。
「紗季さんしかいなかったのではなく、あなたの世話をする人がいなくなったのでしょう」玲子は鍋の灰汁をすくいながら答えた。紗季が家を出てから、拓也は美咲へ行き、美咲と別れれば奈緒子へ近づいた。奈緒子からも離れられたあとで初めて紗季へ戻りたいと言う息子を、玲子は黙って見上げた。
「奈緒子さんのことまで知っているのか」拓也は思わず声を上げた。玲子は、奈緒子本人から聞いたわけではないと答えた。拓也が勤務先で借金をし、その返済を求められているという話は、紗季からではなく、以前の会社で付き合いのあった人を通じて耳へ入っていた。
「小さな町で、自分のしたことだけ秘密にして暮らせると思わないことです」玲子は煮物の鍋へ醤油とみりんを加えた。甘辛い香りが強くなり、石油ストーブの上に置かれたやかんが細い湯気を吐いている。拓也は反論しようとしたが、朝から何も食べていなかったため、鍋の匂いで腹が鳴った。
玲子はその音を聞くと、食器棚から茶碗を二つ出した。冷蔵庫に残っていた鯵の開きを魚焼きグリルへ入れ、ほうれん草のおひたしも小鉢へ盛った。拓也が子供のころから好きだった里芋と鶏肉の煮物を作っていたのは、息子が来ると知っていたからではない。商店街の八百屋で里芋が一袋百八十円になっており、昨夜から下ごしらえをしていただけだった。
「食べていきなさい。ご飯は一膳分しか残っていませんから、お代わりはありません」玲子は麦を混ぜたご飯と豆腐の味噌汁を食卓へ並べた。拓也は母が食事を出してくれたことで、話を聞く気になったのだと受け取った。湯気の上がる煮物を箸で割ると、里芋は中までだしが染み、鶏肉は柔らかく煮えていた。
「母さんの煮物、やっぱりうまいよ。最近は、こういうものを食べていなかったんだ」拓也は里芋を続けて二つ口へ入れた。玲子は鯵の小骨を箸で外し、自分の皿の端へ並べている。拓也の部屋には調味料もろくにそろっておらず、毎晩カップ麺かコンビニ弁当で済ませていると聞いても、玲子はかわいそうだとは言わなかった。
「三十六歳なら、煮物くらい自分で作れます。里芋が面倒なら、大根だけでも煮ればいいでしょう」玲子は、鍋に水とだしを入れるところから教えようかと尋ねた。拓也は今は仕事が忙しく、料理をする時間がないと答えた。だが玲子は、煮物を作る三十分はなくても、奈緒子のマンション前で一時間待つ時間はあったのですねと言った。
「それは謝りたかったからだ。奈緒子さんにも、誤解を解きたかったんだよ」拓也は味噌汁の椀を置き、声を低くした。玲子は、給湯器が壊れたと嘘をついて借りた十万円のどこが誤解なのかと尋ねた。拓也は車の維持費や携帯電話料金が重なっただけで、最初から返さないつもりではなかったと説明した。
「返すつもりという言葉は、返してから使いなさい」玲子は冷めかけた味噌汁を飲んだ。表面には豆腐と長ねぎが浮き、椀の底には溶けきらなかった味噌が少し沈んでいた。拓也は母が紗季と同じような言い方をすることに舌打ちしかけ、代わりに鯵の皮を箸でめくった。
食事が半分ほど進んだころ、拓也は結婚していた八年間の思い出を話し始めた。紗季と初めて実家を訪ねた日、玲子の筑前煮を褒め、作り方を手帳へ書いていたこと。玲子の膝の手術では、拓也より先に病院へ来て、退院後の買い物まで手伝ったこと。正月には拓也が寝ている間に玲子と二人で雑煮を作り、味つけをめぐって笑っていたことを挙げた。
「母さんだって、紗季が戻ってきたほうがうれしいだろ。俺たちがやり直せば、また三人で食事ができる」拓也は目元を手でこすった。母にとっても紗季は大切な嫁だったのだから、それを利用すれば玲子は仲介を引き受けると考えていた。玲子はしばらく返事をせず、煮物の汁がついたテーブルを布巾で拭いた。
「紗季さんと食事をしたいなら、私は一人で会います。あなたと夫婦に戻す必要はありません」玲子は布巾を流しで洗い、固く絞った。離婚後も玲子は月に一度ほど紗季と電話をし、ときには料理教室の帰りに喫茶店で会っていた。紗季が新しい部屋で暮らし始めたときには、赤飯を炊いて持たせた。
「紗季と会っているのか。それなら、住所も知っているんだろう」拓也は箸を止め、身を乗り出した。差し押さえが始まってから、紗季は電話もメッセージも受け付けなくなり、新しい住所も拓也には知らせていない。母に間へ入ってもらうという考えが、急に現実的なものへ変わった。
「母さんから紗季に話してくれないか。俺が本当に反省しているって。住所を教えてくれれば、俺が直接行って謝る」拓也は目に涙を浮かべ、声を震わせた。花束を持って玄関前で待ち、昔の写真を見せれば、紗季も八年間を思い出すはずだと考えた。できれば一度部屋へ入り、温かい食事を食べながらゆっくり話したかった。
「住所は教えません」玲子はすぐに答え、拓也の茶碗へ目を向けた。紗季が知らせていない住所を、本人の許可なく教えるつもりはない。謝罪するだけなら三上を通して手紙を渡せるし、紗季が受け取りを望まなければ、拓也にはそれ以上近づく権利がなかった。
「俺は息子だぞ。母さんまで紗季の味方をするのか」拓也は茶碗を強く置き、縁から米粒を一つ落とした。玲子はその米粒を指で拾い、自分の皿へ置いた。食べ物を粗末にするなと子供のころから何度も教えたのに、拓也は四十歳近くなっても、思いどおりにならないと手元の物へ力をぶつける。
「私は、正しいほうの味方をします。息子だから嘘まで正しいことにはできません」玲子は立ち上がり、仏壇の下にある引き出しから茶色い封筒を取り出した。拓也はそこに紗季の住所や電話番号が入っていると思い、椅子へ座り直した。顔から強ばりが消え、味噌汁の椀へもう一度手を伸ばした。
玲子は封筒から数枚の紙を取り出し、拓也の前へ置いた。最初の紙には「慰謝料・借入金返済予定表」と大きく書かれている。公正証書に定められた慰謝料の残額、給与から差し押さえられる見込み額、奈緒子から借りた十万円、友人名義へ移した車の維持費まで、月ごとに数字が並んでいた。拓也は紙をめくったが、どこにも紗季の住所はなかった。
「これは何だよ」拓也は予定表を持ち上げ、玲子の顔を見た。玲子は、先週から家計簿の古いノートを使って自分で作ったのだと答えた。紗季から金額を聞き出したのではなく、拓也自身が以前話していた慰謝料総額と、差し押さえ後の給与明細を見せれば、さらに正確なものへ直すつもりだった。
「本当に謝りたいなら、まず約束を守りなさい」玲子は返済予定表の一行目を指で押さえた。謝罪は涙を見せることでも、昔の写真を持っていくことでもない。自分で署名した公正証書に従い、借りた金を返し、紗季の生活へ入ろうとしないことが最初の一歩だった。
「こんな金額、今の給料で払えるわけがない。差し押さえまでされているんだぞ」拓也は予定表を机へ投げた。紙の角が湯飲みに当たり、冷めた緑茶が少しこぼれた。玲子はすぐに布巾で拭き、濡れた予定表をストーブの近くへ広げた。
「だから車を手放しなさい。友人名義に変えても、ガソリン代と保険料と駐車場代はあなたが払っているのでしょう」玲子は一か月の維持費を計算した欄を示した。車を処分して電車通勤へ変え、外食と酒を減らせば、奈緒子への十万円は数か月で返せる。新しいスーツやネクタイを買う余裕がないなら、以前のものをクリーニングへ出せばよかった。
「営業には車が必要なんだ。付き合いだってある。母さんには分からないよ」拓也は椅子の背へもたれ、腕を組んだ。玲子は、会社の営業車があることも、電車で通勤できる距離であることも調べていた。息子が話を聞かないことを予想し、駅までの定期代と、車を手放した場合に浮く金額まで予定表へ書き込んでいる。
「私は紗季さんの代わりにあなたの生活を管理するつもりはありません。これを使うか捨てるかは、自分で決めなさい」玲子は返済予定表を封筒へ戻し、拓也の鞄の横へ置いた。援助を求められても現金は渡さないこと、保証人にもならないこと、紗季への連絡役にもならないことを一つずつ伝えた。拓也が黙っていても、玲子は言葉を曖昧にしなかった。
「母さんは俺より紗季を選ぶんだな」拓也は席を立ち、ダウンジャケットを乱暴に着た。玲子は食卓に残された茶碗を見た。煮物はきれいに食べてあるのに、鯵の身は半分残り、味噌汁も冷めて表面に薄い膜が張っていた。
「誰かを選ぶ話ではありません。紗季さんは、あなたの妻だったときに果たすべきことを果たしました。今度はあなたが、自分のしたことを引き受ける番です」玲子は残った鯵へラップを掛け、冷蔵庫へ入れた。明日の朝、身をほぐして大根の葉と一緒に混ぜご飯へすれば、無駄にせずに済む。拓也は玄関へ向かいながら、シュークリームを持って帰ると言い出した。
「持ってきたものを持って帰りたいなら、どうぞ」玲子は冷蔵庫から箱を出した。拓也は少し迷ったあと、一つだけ食べると言って箱を開けた。母へ贈ったはずのシュークリームを玄関に立ったまま頬張り、口元についたクリームを手の甲で拭った。
「紗季に、俺が来たことくらいは伝えてくれ。それくらいいいだろう」拓也は靴ひもを結びながら頼んだ。玲子は、伝える必要があると判断したことだけは三上へ連絡すると答えた。復縁したいという言葉ではなく、拓也が住所を聞き出そうとした事実を知らせるつもりだった。
「どうして、そこまで俺を悪者にするんだよ」拓也は玄関の扉へ手を掛けた。玲子は息子の顔をまっすぐ見た。悪者にしているのではなく、拓也自身がしたことを、別の誰かのせいにして隠す手伝いをしないだけだった。
「あなたは、美咲さんに騙されたと言いました。次は紗季さんに金を奪われたと言い、奈緒子さんには生活が苦しいと嘘をつきました。今度は、母親が助けてくれなかったと言うのでしょう」玲子は割烹着のポケットからハンカチを出し、拓也の口元に残っていたクリームを示した。拓也は舌で唇をなめ、目をそらした。
「誰かが助けてくれないことと、自分が何もしなくてよいことは同じではありません」玲子は玄関の内側に立ったまま言った。返済予定表は鞄に入っている。紗季へ謝る前に、そこに書かれた一行目から始めなさいと念を押した。
拓也が外へ出ると、雨は先ほどより強くなっていた。傘を持ってこなかったため、黒いダウンジャケットへ冷たい雨粒が次々と落ちる。門の前へ止めた白い車まで走り、濡れた手で鍵を開けた。助手席へ投げた鞄から、茶色い封筒が床へ滑り落ちた。
車内には、昨夜食べたハンバーガーの包みと空のペットボトルが残っていた。芳香剤の甘い香りに、湿った衣服と古い油の匂いが混じっている。拓也はエンジンをかけ、曇ったフロントガラスへ暖房の風を当てた。ガソリンの残量を示す針は赤い線の近くにあり、給料日まであと九日だった。
実家の居間では、玲子が食卓を片づけていた。拓也の使った茶碗を水へ浸し、冷めた味噌汁は小鍋へ戻した。シュークリームは一つ残っていたが、夕食前に甘いものを食べると胃がもたれるため、明日の午前に紅茶と一緒に食べることにした。ストーブの上のやかんから湯気が上がり、窓ガラスへ細かな水滴がついていた。
片づけを終えると、玲子は紗季へ電話をかけた。紗季はちょうど大根の葉を刻み、明日の弁当に入れるふりかけを作っているところだった。油を引いたフライパンから、ごま油と削り節の香りが立っている。玲子が拓也の訪問と住所を尋ねられたことを伝えると、紗季は包丁を置き、最後まで黙って聞いた。
「教えないでくださって、ありがとうございます」紗季は静かに礼を言った。玲子は当たり前のことをしただけだと答えたが、受話口を持つ手へ少し力が入った。息子を玄関から帰したあと、居間の広さが急に増したように感じていたものの、そのことを言葉にはしなかった。
「里芋の煮物を出したら、あの子、昔と同じように三つも続けて食べたのよ」玲子は、拓也が鯵を半分残したことも話した。紗季は、拓也は骨の多い魚を途中で面倒がる癖があると答えた。結婚中は紗季が先に骨を外して皿へ載せていたが、今思えば三十代の夫にすることではなかったと、二人は少しだけ笑った。
「紗季さん、今度の日曜日、よかったらお昼を一緒に食べませんか。返済の話も、拓也の話もしないで」玲子は冷蔵庫に蓮根が残っているから、ちらし寿司を作るつもりだと言った。紗季は料理教室で習った茶碗蒸しを持っていくと答えた。銀杏は高いので、代わりに枝豆を入れてもよいかと尋ねると、玲子はそのほうが彩りがきれいだと喜んだ。
電話を切ったあと、玲子は仏壇の前へ座った。線香へ火をつけると、細い煙と白檀の匂いが居間へ広がった。棚には紗季と拓也の結婚式の写真が伏せて置かれていたが、玲子はそれを起こさなかった。家族だった八年間をなかったことにはしないが、壊した本人の都合で元の形へ戻すこともできなかった。
紗季は出来上がった大根の葉のふりかけを、小さな保存容器へ移した。味見をすると少し醤油が濃かったため、白ごまを追加して混ぜる。日曜日に玲子と食べるちらし寿司を思い浮かべながら、茶碗蒸しの器を戸棚から二つ取り出した。拓也を夫へ戻さなくても、玲子との縁まで捨てる必要はなかった。
雨の中を走る白い車では、拓也が赤信号で止まり、助手席の床へ落ちた封筒を拾っていた。濡れた指で返済予定表を開くと、最初の欄には奈緒子への返済一万円と書かれている。その下には、酒代、外食費、車の維持費を見直すよう、玲子の丸い字で注意書きがあった。拓也は紙を丸めかけたが、財布に残った千円札一枚を思い出し、結局、二つ折りにしてダッシュボードへ入れた。
母親を味方につければ、紗季の住所も、温かい食事のある家も取り戻せると思っていた。だが玲子が差し出したのは、逃げ道ではなく、拓也自身が払うべき金を並べた予定表だった。信号が青へ変わり、後ろの車から短くクラクションを鳴らされた。拓也はハンドルを握り直し、ガソリンスタンドの明かりを横目に見ながら、給油せずに古いアパートへ戻った。




