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第14話 削除しても消えません

第14話 削除しても消えません


内容証明郵便を受け取った日の午後、美咲は食卓へノートパソコンを広げ、SNSの投稿を上から順に削除していた。薄桃色のフリースの袖口にはインスタントコーヒーの染みがつき、床には脱いだままの靴下と通販の段ボール箱が転がっている。昼に買った海苔弁当は半分残され、冷えた白身魚のフライから古い油の匂いがしていた。美咲は削除ボタンを押すたびに確認画面を閉じ、次の投稿へ移った。


「これでいいんでしょう。全部消せば、見られるものは何もないんだから」美咲は誰もいない部屋でそう言い、三か月分の投稿を一時間ほどで消した。紗季を寄生妻と呼んだコメントも、妊娠した子供を諦めさせられたと訴えた文章も、画面からは見えなくなった。最後にアカウントそのものを削除すると、「みぃ・愛を信じたかった女」という名前も検索結果に表示されなくなった。


美咲は内容証明の一枚目だけを残し、ほかの書類を二つに折ってゴミ箱へ押し込んだ。削除要求には応じたのだから、損害賠償まで払う理由はないと考えたのである。弁護士からの手紙は、相手を怖がらせるために難しい言葉を並べているだけだと、美咲は以前、知人から聞いたことがあった。その知人がどのような問題で弁護士から通知を受けたのかまでは覚えていなかった。


美咲はコンビニで買っておいたプリンの蓋を開けた。カラメルソースが底へたまっていたため、プラスチックのスプーンで何度も混ぜる。投稿が消えた画面を見ながら一口食べると、甘さで舌が重くなった。内容証明の返事には「問題となった投稿はすべて削除しましたので、本件は解決済みと考えます」と書けばよいと思った。


翌朝、美咲は駅前の文房具店で便箋と白い封筒を買った。灰色のダウンコートの下には毛玉のついた黒いセーターを着ており、化粧は眉と口紅だけで済ませている。店内には新しい紙とインクの匂いが漂い、入学準備の売り場では、母親と小学生らしい女の子が赤い筆箱と紫色の筆箱を見比べていた。美咲は一番安い便箋を選び、近くの喫茶店へ入った。


「投稿は削除済みであり、現在は誰も閲覧できません。したがって損害は発生していないものと考えます」美咲は便箋へそう書き、最後に高橋美咲と署名した。法律用語を使えば三上にも通用するような気がして、「法的根拠のない請求には応じかねます」という一文も付け加えた。注文した卵サンドはパンの端が少し乾き、マヨネーズの匂いだけが強かったが、美咲は手紙を書き終えるまで口をつけなかった。


手紙を投函したあと、美咲は駅のホームで拓也へ電話をかけた。二人は慰謝料請求を受けたあと激しく罵り合い、それからほとんど連絡を取っていない。それでも紗季を相手にすることになれば、拓也は同じ側へ戻ってくるかもしれないと考えた。冷たい風がスカートの裾を揺らし、ホームの売店から肉まんの湯気が流れてきた。


「ねえ、紗季がまた弁護士を使ってきたの。私がSNSに少し書いたくらいで、損害賠償だって」美咲が話すと、拓也はしばらく黙ったあと、自分を巻き込むなと答えた。給与を差し押さえられ、奈緒子から貸した金を返せと請求されている拓也には、美咲を助ける余裕がなかった。美咲が、もとはといえば拓也が妻と別れると言ったからだと声を上げると、通話は一方的に切られた。


「自分だけ逃げるつもりなの」美咲は切れた画面へ言葉を投げた。電車が到着し、開いた扉から暖房と人の匂いが押し寄せてくる。美咲は人の流れに押されて車内へ入り、空いた優先席へ腰を下ろした。膝の上の鞄には、食べなかった卵サンドが紙袋に入ったまま残っていた。


同じころ、紗季は自宅の食卓で、厚紙のファイルへ資料を収めていた。白いタートルネックに紺色のジャンパースカートを重ね、足元には厚手の灰色い靴下を履いている。台所の鍋では昨夜作った豚汁を温めており、ごぼうと味噌の匂いが部屋へ広がっていた。洗濯機が脱水へ移ると、浴室の扉が細かく震え、置き忘れた洗面器が中で転がった。


紗季が保存したのは、投稿のスクリーンショットだけではなかった。投稿が表示されていたウェブページを日時の分かる形で保存し、画面を印刷した紙には元のアドレスと保存日時を書き添えている。奈緒子が最初に見つけた際のメッセージ、東都住宅販売の社員が奈緒子へ見せた画面、その社員が覚えている内容も記録してあった。投稿が削除されても、それ以前に存在し、多くの人へ読まれたことを示す資料は残っていた。


紗季は一部の印刷資料を公証役場へ持参し、その日までに資料が存在していたことを示す確定日付を得ていた。確定日付だけで投稿内容のすべてが自動的に真実と認められるわけではないと、三上から説明も受けている。それでも後から作った資料ではないことを補う意味があり、ほかの保存記録や第三者の証言と組み合わせれば、証拠としての重みが増す。紗季は赤い印の押された書類を透明な袋へ入れ、角が折れないよう厚紙を添えた。


豚汁が沸騰し、鍋の蓋がかたかたと鳴った。紗季はファイルを閉じて台所へ立ち、火を弱めた。大根を一つ味見すると中まで熱く、舌の先を少しやけどしたため、冷蔵庫から麦茶を出して飲んだ。拓也と暮らしていたころは豚汁へ里芋を入れていたが、一人分では使い切れないので、今回はじゃがいもで代用していた。


「一人分の豚汁に、ごぼうを一本買うと余るのよね」紗季は半分残ったごぼうを新聞紙で包みながら、窓辺のサボテンへ話しかけた。明日はきんぴらにすればよいと考え、冷蔵庫の野菜室へ入れる。生活は事件のためだけに続いているわけではなく、洗濯物はたまり、野菜は傷み、食事の時間は毎日やってくる。だからこそ紗季は、美咲の投稿に一日中気持ちを支配されないよう、証拠を整理する時間を夜九時までと決めていた。


その夜、奈緒子から新しい情報が届いた。美咲の表向きのアカウントは削除されたが、紗季へ中傷を送っていた匿名アカウントがまだ残っているという。アカウント名は「真実を知る人」で、紗季がSNSへ投稿した料理写真や近所の風景写真に、「他人の家庭を壊して食べるご飯はおいしいですか」「元夫から金を奪った女」といった言葉を書き込んでいた。紗季はそのアカウントを知らなかったが、通知を確認すると、半年前から同じ人物による書き込みが十数件届いていた。


「紗季さん、この人、美咲さんではないでしょうか。文章の癖がよく似ています」奈緒子は電話口で、疑わしい箇所を一つずつ説明した。美咲は「本当」を「ほんとぉ」と書き、疑問符を二つ重ねる癖がある。匿名アカウントにも同じ表記があり、美咲しか知らないはずの結婚記念日の出来事まで書かれていた。


「似ているだけでは、本人だと決められません。こちらも保存して、三上先生に確認していただきます」紗季はスマートフォンをパソコンへ接続し、書き込みを記録した。奈緒子は、相変わらず落ち着いていると息を吐いた。紗季は落ち着いているのではなく、豚汁の大根で舌をやけどして、今もひりひりしていると答えた。


「こんなときに大根の話をする人、初めてです」奈緒子は電話の向こうで笑った。母が作った焼き芋を食べているところで、一本が大きすぎるから明日の朝も同じ焼き芋になりそうだという。二人は匿名アカウントの話を終えたあと、冷めた焼き芋をおいしく食べる方法について話し、最後にはバターを載せてトースターで焼くことに決めた。


翌日、三上は匿名アカウントに関する資料を確認した。黒いスーツの上着を椅子の背へ掛け、白いシャツの袖を肘までまくっている。机の上には朝から飲み続けている緑茶があり、湯飲みの底には細かな茶葉が沈んでいた。三上は文章の癖だけで本人と断定することはできないと説明し、裁判所を通じた発信者情報開示の手続きを検討すると告げた。


「費用と時間はかかりますが、投稿に使われた接続記録が残っていれば、契約者情報へたどれる可能性があります」三上は手続きの流れを紙へ書いた。投稿先の運営会社から接続情報の開示を受け、次に通信事業者へ契約者情報を求める。記録の保存期間には限りがあるため、必要なら早めに保存を求めなければならなかった。


「お願いします。匿名だから許されると思っているなら、誰が書いたのかだけは確認したいです」紗季は委任状へ署名した。怒鳴り返したいとは思わなかったが、玄関の鍵を閉めても窓の隙間から手を入れられているようで、生活のどこかにざらつきが残っていた。紗季は署名の下へ日付を書き、ペンのキャップをしっかり閉めた。


数週間後、SNSの運営会社と通信事業者から、裁判所の手続きを経て情報が開示された。匿名アカウントの投稿に使われていた回線の契約者は、高橋美咲本人だった。投稿時刻の多くは美咲が自宅にいた時間と重なり、同じ端末から表向きのアカウントへ接続していた記録も確認された。三上はその結果を電話では伝えず、紗季に事務所へ来てもらった。


その日の紗季は薄い茶色のコートに青いマフラーを巻き、手土産として商店街の小さな菓子店で最中を六個買っていた。応接室へ入ると、暖房の乾いた空気と、事務員が淹れたコーヒーの香りが鼻へ届いた。三上の机には資料の束が三つ並び、それぞれに表向きの投稿、匿名投稿、開示された情報と書かれた付箋がついている。隅には昼食に食べたらしいサンドイッチの包みがあり、レタスの切れ端が一枚だけ透明な蓋へ張りついていた。


「匿名アカウントの発信者は、高橋美咲さんで間違いありません」三上は開示結果を紗季へ示した。匿名投稿の内容には、虚偽の情報だけでなく、紗季の人格を傷つける言葉や、住所を知っていると不安をあおる文章も含まれている。表向きの投稿を削除したあとにも匿名アカウントから書き込みが続いていたため、内容証明を受け取ってからも行為をやめなかったことになる。


「削除したという返事も届きました。美咲さんは、今は誰も読めないのだから損害はないと主張しています」三上は美咲の便箋を資料の上へ置いた。青いボールペンで書かれた文字は途中から大きくなり、最後の「応じかねます」だけが二重線で強調されている。紗季は手紙を読み終えると、元の位置へ戻した。


「削除したあとも、別の名前で書き続けていたのですね」紗季は匿名投稿の一覧へ目を落とした。そこには、料理教室で作った鯖の味噌煮の写真に対する中傷まで残っていた。美咲は紗季の生活をぜいたくだと非難していたが、その日の材料費は一人六百円で、余った味噌煮は翌朝のご飯にも載せて食べていた。


三上は表向きの投稿、保存されたウェブページ、確定日付のある資料、奈緒子と会社員の証言、匿名アカウントの開示結果を順に机へ並べた。紙の束は最初の内容証明を作成したときより厚く、端をそろえると重い音がした。美咲が削除した画面はもう見られなくても、投稿によって起きたことと、その後の行動は一つずつ資料に残っている。三上は両手を机の上で組み、美咲から届いた手紙を見た。


「削除は、なかったことにする魔法ではありません」三上は、名誉を傷つける情報が第三者に読まれた時点で問題は生じており、後から消しても過去の公開や拡散まで消えるわけではないと説明した。むしろ内容証明を受け取ったあと、匿名で同じ行為を続けた事実は、美咲が問題を理解しながら書き込んだことを示す事情になり得る。紗季は青いマフラーを膝の上で畳み、端にできた小さな毛玉を指で取った。


「二度目の請求を出しましょう。最初の投稿だけでなく、匿名投稿による損害と、発信者を特定するために必要となった費用も含めます」三上は新しい通知書の案を示した。請求額は最初より増え、訂正文の掲載、今後の接触禁止、保存している紗季の個人情報や写真の削除も求める内容になっていた。期限までに協議へ応じなければ、訴訟を提起すると明記されている。


「お願いします。今度は、削除しましたという一言だけでは終わらない形にしてください」紗季は通知書の内容を確認し、送付に同意した。持参した最中を三上へ渡すと、三上は事務所のみんなでいただくと言いながら、一つだけ粒あんか白あんか確認した。紗季が粒あんだと答えると、三上は妻が白あん派なので、家へ持ち帰ると取り合いにならずに済むと笑った。


二度目の通知書は、最初のものより厚い封筒に入れられた。表向きの投稿に関する請求だけでなく、匿名アカウントの開示結果と追加の損害賠償額が記されている。三上は配達証明のついた内容証明郵便として発送し、紗季には控えを渡した。紗季は事務所を出ると、夕食用に商店街の魚屋でアジの開きを二枚買った。


「一枚でも売れるよ」と店主に言われたが、紗季は二枚とも包んでもらった。片方は焼いて夕食にし、もう片方は明日の昼にほぐしてお茶漬けへ入れるつもりだった。魚屋の店先には氷の上へ鯖や鰤が並び、濡れた発泡スチロールと潮の匂いが混じっている。紗季は紙袋を胸へ抱え、冷たい風の中をゆっくり歩いた。


二日後、美咲の部屋へ再び配達員が訪れた。美咲は赤いジャージーの上下を着て、台所で賞味期限の切れた食パンを焼いていた。トースターの受け皿には黒いパンくずがたまり、焦げた匂いが部屋へ広がっている。呼び鈴の音を聞いた瞬間、美咲は手にしていたマーガリンの容器を流しへ落とした。


「また、法律事務所ですか」美咲が扉を細く開けて尋ねると、配達員は差出人について答えず、受領印を求めた。厚い封筒を受け取ると、美咲はその場で裏返し、三上法律事務所の名前を確認した。最初の通知書を削除要求だと思っていた美咲にも、二通目が同じ内容ではないことは封筒の重さで分かった。


書類を開いた美咲は、匿名アカウントの名前が記載されているのを見て、玄関の床へ座り込んだ。本人しか知らないはずの接続日時、通信事業者、契約者情報が一覧になっている。追加された損害賠償額の下には、発信者情報を特定するために要した費用も請求項目として並んでいた。削除すれば終わると思っていた投稿は、別の形になって美咲の前へ戻ってきた。


「匿名だったのに。名前なんて、どこにも書いていなかったのに」美咲は書類を握ったまま、冷たい床にかかとをつけた。トースターが音を立てて止まり、中では食パンの端が黒く焦げている。マーガリンの容器は流しの水たまりへ落ち、白い中身に茶色い汚れがついていた。美咲は立ち上がろうとしたが、膝に力が入らず、二度目の請求書を胸元へ引き寄せた。


その夜、紗季は買ってきたアジの開きを魚焼きグリルへ入れた。皮が焼ける香ばしい匂いが台所へ広がり、脂が落ちるたび小さな音がする。大根おろしを添え、豆腐とわかめの味噌汁、白菜の浅漬けを食卓へ並べた。スマートフォンには、二度目の通知書が美咲へ配達されたという三上からの連絡が届いていた。


「今日は少し焼きすぎたかしら」紗季はアジの焦げた尾を箸で取り除いた。食べられる部分は十分にあり、大根おろしへ醤油を一滴ずつ落とす。窓辺のサボテンには新しい芽がもう一つ増え、二つの小さな丸い茎が並んでいた。紗季はスマートフォンを伏せ、温かい味噌汁から先に口をつけた。


画面から消えた言葉を追いかけて、一晩中SNSを見張る必要はなかった。必要な記録は三上の事務所と紗季の手元に残り、第三者の記憶にも残っている。美咲が削除ボタンを何度押しても、紗季の生活を傷つけるために言葉を広めた事実まで消すことはできなかった。紗季はアジの身を丁寧に骨から外し、明日の昼に使う分を、小さな保存容器へ取り分けた。



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