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第13話 善良な妻を演じた女

第13話 善良な妻を演じた女


一月の午後、美咲は薄桃色のニットワンピースを着て、駅前の喫茶店で窓際の席に座っていた。テーブルには苺のショートケーキとカフェラテが置かれ、泡の上には茶色い粉で小さなハートが描かれている。美咲はケーキへ手をつける前に、窓から差し込む光が最もきれいに当たる角度を探し、スマートフォンで何枚も写真を撮った。店内には焼いたワッフルの甘い匂いが漂い、隣の席では制服姿の女子高校生二人が数学の宿題について話していた。


美咲は写真加工のアプリで肌を白く見せ、目元を少しだけ大きくした。テーブルの端に置いた左手も画面へ入れ、薬指に指輪がないことを確かめてから投稿する。新しく作ったSNSのアカウント名は「みぃ・愛を信じたかった女」で、自己紹介には「地方暮らし、三十五歳、料理と花が好き」と書いてあった。拓也とホテルへ入る写真を証拠として突きつけられた女ではなく、誠実な恋を望んでいた普通の女性に見えるよう、言葉を一つずつ選んでいた。


「今日から少しずつ、私に起きたことを書こうと思います」美咲は最初の一文を入力し、赤い唇をストローへ近づけた。カフェラテはすでにぬるく、泡のハートも崩れかけている。美咲は一口だけ飲むと、既婚者だと知らずに男性と交際し、その妻から突然、法外な慰謝料を請求されたと続けた。男性からは離婚していると聞かされていたという説明も加えたが、それは離婚協議の際、自分で否定したはずの話だった。


最初の投稿についた反応は七件だけだった。それでも「ひどい男ですね」「あなたは被害者です」というコメントを読むたび、美咲は背筋を伸ばした。自分を責める人のいない場所を見つけた気がして、ショートケーキの先端をフォークで切り取った。苺の酸味と生クリームの甘さが舌へ広がると、美咲は次の投稿に書く内容を考え始めた。


その夜、美咲は築二十年のワンルームへ戻り、電気ストーブの前で膝を抱えた。白いローテーブルには、食べ終えたカップスープの容器と、コンビニで買った鮭おにぎりの包みが残っている。流しには三日前に使ったマグカップが置かれ、排水口から古い油の匂いが上がっていた。以前なら拓也を呼び出し、部屋を片づける代わりに夕食をおごらせたが、今は連絡をしても応じてもらえなかった。


「あなたは悪くないって、みんな言ってくれているのよ」美咲はフォロワーが三十二人に増えた画面を見ながら、誰もいない部屋でつぶやいた。慰謝料の分割金を支払うため、毎月の給料から五万円が消えていく。新しい化粧品も買えず、先月は美容院へ行く予定も延期した。悪いのは自分を選ばなかった拓也と、最後まで妻という立場を使った紗季であり、自分は二人の争いへ巻き込まれただけだと考えれば、冷たい床に座っている理由にも説明がついた。


翌日から、美咲は毎晩投稿するようになった。最初は「独身だと信じていた」「結婚を約束されていた」という内容だったが、反応が増えるにつれて、事実にはなかった話も加わっていった。拓也のために毎朝弁当を作ったことになり、病気の拓也を一晩中看病したことになり、離婚後の新居を二人で探していたことにもなった。実際に美咲が作った料理は市販の鍋つゆを使った寄せ鍋一度だけで、拓也が風邪をひいた夜には、うつると困るから来ないでほしいと断っていた。


「私は奥さんから彼を奪いたかったのではありません。ただ、彼の帰る場所になりたかっただけです」美咲がそう投稿すると、初めて百件を超える反応がついた。コメント欄には、戸籍上の妻だけが正しいとは限らない、心が結ばれていたなら美咲こそ本当の妻だという言葉まで並んだ。美咲はその文章を何度も読み返し、自分は拓也に尽くした善良な妻だったのだと思い始めた。


美咲はさらに、紗季についての情報を書き加えた。地方都市の住宅街に住んでいた三十四歳の専業主婦で、営業職の夫とは結婚八年目、子供はいなかったと記した。名前こそ「元妻のSさん」と伏せたものの、以前のマンションの最寄り駅、拓也が勤めていた会社の業種、結婚記念日の月まで書いている。過去の投稿には、拓也から贈られた花束と一緒に、店名が読めるレストランの伝票も写っていた。


「Sさんは働かず、夫の給料でぜいたくをしていました。それなのに離婚のとき、貯金も車も全部奪っていきました」美咲は投稿ボタンを押し、袋からポテトチップスを取り出した。指についた塩と油をニットの裾で拭き、すぐに増えていく閲覧数を眺める。紗季が結婚後に仕事を辞めたのは拓也から家庭へ入ってほしいと頼まれたためで、車は今も拓也が使っている。だが、コメント欄で紗季を「寄生妻」と呼ぶ人が現れても、美咲は訂正しなかった。


一週間後、紗季は料理教室から帰り、玄関で生成り色のコートを脱いでいた。手には教室で作った鯖の味噌煮と炊き込みご飯が入った保存容器を提げている。部屋には朝干した洗濯物が残り、暖房の風を受けたタオルから柔軟剤の淡い匂いがした。紗季が台所で湯を沸かしていると、奈緒子からメッセージが届いた。


「紗季さん、こちらの投稿をご存じですか。お名前はありませんが、私は紗季さんのことだと思いました」メッセージには、SNSの投稿画面がいくつも添付されていた。奈緒子は会社の同僚から、拓也との関係をからかうように見せられたという。投稿には奈緒子のことまで「元妻が送り込んだ年上の女」と書かれており、料理教室で紗季と知り合った経緯も、事実とは違う形で説明されていた。


紗季は火を止め、沸騰した湯を急須へ注いだ。ほうじ茶の香ばしい匂いが立ったが、カップへ移すのを忘れたまま、スマートフォンの画面を上から順に読んだ。自分が美咲へ怒鳴り込み、妊娠した子供を諦めさせたという投稿もある。美咲が妊娠していなかったことは録音によって確認され、離婚協議書にも記載されているため、紗季はその文章を二度読み返した。


「お知らせくださってありがとうございます。奈緒子さんのことまで書かれてしまって、申し訳ありません」紗季が電話をかけると、奈緒子は謝るのは美咲のほうだと強い口調で答えた。自分が拓也に近づいたのではなく、拓也から嘘をついて金を借りたのだと、SNSで反論すると言う。紗季は急須の蓋を指で押さえ、冷めかけたほうじ茶をカップへ注いだ。


「今は反論しないでください。書けば書くほど、こちらが美咲さんを攻撃したように見せられるかもしれません」紗季は落ち着いて証拠を残したいと説明した。奈緒子はしばらく黙ったあと、腹が立ってスマートフォンを投げそうだと息を吐いた。紗季は、投げるなら布団の上にしたほうがいいと答え、奈緒子は電話の向こうで小さく笑った。


紗季は夕食を食べる前に、ノートパソコンを開いた。二年前から使っている外付けの保存装置を接続し、新しいフォルダを作る。名前は「美咲SNS投稿」とし、その中を日付ごとに分けた。画面の右下には午後七時十二分と表示され、窓の外では灯油販売の車が、古い童謡を流しながら住宅街を通り過ぎていった。


投稿の画面だけではなく、アカウント名、投稿日時、閲覧数、共有数、コメント欄まで一つずつ保存した。画面を上から下まで記録できるようにし、元のページへつながる情報も残す。紗季は作業の途中で炊き込みご飯を温めたが、電子レンジから出したあとも食卓へ運ばなかった。味噌煮のたれは冷えて固まり、鯖の皮には白い脂が浮いていた。


午後九時を過ぎると、美咲は新しい投稿を追加した。そこには紗季が慰謝料を使って高級マンションへ引っ越し、働かずに優雅な生活をしていると書かれている。実際の部屋は駅から徒歩十五分の一LDKで、紗季は来月から食品会社の契約社員として働くため、面接用の書類を準備していた。食卓の椅子にはアイロンをかける前の白いブラウスが掛かり、床にはスーパーでもらった特売日のチラシが落ちていた。


「高級マンションで食べる夕食が、冷めた鯖の味噌煮とは、美咲さんも想像しなかったでしょうね」紗季は鯖を電子レンジへ戻し、今度は温め終わるまで前に立って待った。湯気の戻った味噌煮を一口食べると、しょうがの香りと甘い味噌の味が広がった。紗季は食事を終えたあと、三上へ相談を希望するメールを送った。


翌日の午後、三上は法律事務所の応接室で、紗季が印刷した投稿を読んでいた。濃い茶色のスーツに臙脂色のネクタイを締め、机の端には妻が持たせたという蜜柑が二つ置かれている。事務員が淹れたコーヒーは少し薄く、三上は一口飲んでから、今日は自分で淹れたほうがよかったかもしれないとつぶやいた。紗季は薄い紫色のセーターに黒いパンツを合わせ、膝の上へ紺色の鞄を置いていた。


「事実と異なる内容が複数あります。個人名は伏せられていますが、周囲の人が紗季さんだと判断できる情報も十分に含まれています」三上は結婚年数、年齢、居住地域、元夫の職業が記載された部分へ印をつけた。実際に奈緒子が特定し、会社の人間も拓也の元妻だと認識している。美咲自身が以前投稿した写真や文章と組み合わせれば、対象を特定することは難しくなかった。


「私は、何も書き返していません。奈緒子さんにも反論しないようお願いしました」紗季は保存したデータの一覧を差し出した。三上は投稿日時と閲覧数を表にまとめた資料を確認し、よくここまで残しましたねと顔を上げた。紗季は、家計簿をつけるのと同じ要領だったと答えた。


「拓也さんは、レシートを財布へためる人でした。一週間分まとめて渡されるので、日付順に並べる癖がついたんです」紗季は、雨に濡れたレシートをドライヤーで乾かしたことまで思い出した。拓也は面倒そうに財布を渡すだけだったが、その癖が今は証拠を整理する役に立っている。三上は蜜柑を一つ紗季へ勧め、皮をむくと事務所に匂いが残るので持ち帰ったほうがいいと付け加えた。


三上は美咲へ送る内容証明郵便の案を作成した。虚偽の投稿を削除すること、今後同様の投稿を行わないこと、訂正文を掲載すること、紗季と奈緒子に関する情報を公開しないことを求める。その下には、離婚時の慰謝料とは別に、名誉を傷つけた行為に対する損害賠償請求が記された。期限までに対応しない場合には、投稿者情報の開示や訴訟を含む法的手続きを取る可能性があることも加えられた。


「削除を求めるだけではないのですね」紗季が尋ねると、三上は、すでに多くの人へ拡散され、紗季を知る人が閲覧していると説明した。消せば最初から存在しなかったことになるわけではない。美咲が被害者を名乗る自由はあっても、他人を悪者にするために事実を作る自由はなかった。


「送ってください。美咲さんが何を言ったかではなく、何をしたかで判断していただきたいです」紗季は委任に必要な書類へ署名した。ペン先が紙を滑る音を聞きながら、二年前、離婚準備という名前のフォルダを初めて作った夜を思い出した。あの夜は拓也の帰りを待ちながら作業していたが、今は誰の足音も待たずに、自分の意思で先へ進める。


三日後の午前、美咲はピンク色のフリースを羽織り、台所でインスタントコーヒーを作っていた。寝癖のついた髪は後ろで束ねただけで、顔には化粧もしていない。食卓には前夜に食べた唐揚げ弁当の空き容器が残り、蓋についた油が蛍光灯の下で光っていた。玄関の呼び鈴が鳴ると、美咲は通販で注文した化粧水が届いたのだと思い、スリッパのまま扉を開けた。


「高橋美咲さんですね。内容証明郵便です。こちらへ受領印をお願いします」配達員は厚い封筒と携帯用の印鑑台を差し出した。美咲は差出人の欄にある三上法律事務所の文字を見て、持っていたマグカップを靴箱の上へ置いた。コーヒーが揺れ、白い靴箱の天板へ茶色い滴が落ちたが、美咲は拭こうとしなかった。


封筒を開けると、投稿の削除要求と損害賠償請求が目に入った。添付された一覧には、最初の投稿から前夜の投稿まで、日時と内容が一つも漏れずに並んでいる。美咲が途中で書き換えた文章も、削除したコメントも保存されていた。自分を励ましていた何百人もの言葉が、今度は拡散規模を示す数字として記載されている。


「どうして、何も言わなかったのよ」美咲は書類を握り、低い声を漏らした。紗季が反論すれば、妻という立場で弱い女性を攻撃したと訴えるつもりだった。怒りに任せた文章を投稿すれば、それを切り取ってさらに同情を集める準備もしていた。ところが紗季は一度も美咲の名前を出さず、画面の向こうで静かに記録だけを積み重ねていた。


スマートフォンには、新しいコメントが次々と届いていた。身元を特定したという人物が、紗季の以前の住所や拓也の会社名を書き込み始めている。美咲は慌ててコメントを削除したが、更新するたび別の場所へ転載された画像が表示された。ストーブの上に置いたやかんが音を立て、沸騰した湯が注ぎ口からこぼれた。


一方、紗季は自宅の窓を開け、朝の空気を入れていた。白いタートルネックの上に深緑色のカーディガンを羽織り、ベランダから取り込んだ靴下を一足ずつ丸めて籠へ入れる。台所では林檎を煮た鍋が冷め、シナモンの甘い香りが部屋へ残っていた。三上から内容証明が配達されたとの連絡を受けると、紗季は短く礼を返した。


「言葉は消えても、したことは消えないのね」紗季は窓辺のサボテンへ水を少しだけ与えた。新しく出た芽は前より大きくなり、丸い先端に柔らかな棘が並んでいる。紗季は鍋から煮林檎を取り出し、焼いた食パンの上へ載せた。美咲の投稿へ反論する代わりに、今日も記録を残し、必要な相手に必要な書類を送った。


そのころ美咲の食卓では、善良な被害者を演じるために使ったスマートフォンが鳴り続けていた。封筒の最後のページには、不貞慰謝料の残額とは別に、新たな損害賠償請求の文字があった。美咲は冷めたコーヒーを飲もうとしたが、靴箱の上に置いたままだと気づき、取りに戻った。白い天板へこぼれた茶色い染みはすでに乾き始め、濡れた布巾で何度こすっても、薄い輪が残った。



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