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第12話 元夫の新しい財布

第12話 元夫の新しい財布


給与の差し押さえが始まってから一か月後、拓也は東都住宅販売の休憩室で、紙コップのコーヒーをすすっていた。紺色のスーツには朝の雨で細かな染みがつき、革靴の先には乾ききらない泥が残っている。昼食はコンビニの梅おにぎり一個だけで、給料日までまだ十二日もあった。以前なら財布へ一万円札が入っていないだけで紗季に金を下ろしておくよう頼んでいたが、今は頼める相手がいなかった。


休憩室の隅では、経理課の川村奈緒子が弁当箱の蓋を開けていた。四十二歳の奈緒子は薄い灰色のニットに黒いタイトスカートを合わせ、肩までの髪を紺色のゴムで一つに結んでいる。弁当には鮭の西京焼き、ほうれん草のごまあえ、蓮根のきんぴらが隙間なく詰められ、蓋を開けた瞬間、味噌の焼けた甘い匂いが漂った。拓也はその匂いをかぎながら、空になったおにぎりの袋を細く折り畳んだ。


「川村さんのお弁当、いつもおいしそうですね」拓也が声をかけると、奈緒子は鮭の骨を箸で取り除きながら顔を上げた。自分で作ったものではなく、同居している母が朝のついでに詰めてくれるのだという。奈緒子は離婚後、足の悪い母と二人で暮らしており、毎朝六時に起きて洗濯物を干す代わりに、弁当作りを母へ任せていた。


「相沢さんは、お昼、それだけなんですか」奈緒子は梅おにぎりの袋を見て、眉を寄せた。拓也は紙コップを両手で包み、給料の一部を元妻に差し押さえられているため、食費を切り詰めていると話した。公正証書のことも慰謝料のことも伏せ、八年間連れ添った妻から突然離婚を言い渡されたと説明した。


「ある日帰ったら、荷物までまとめられていたんです。話し合いもさせてもらえませんでした」拓也は目を伏せ、親指で紙コップの縁を押した。実際には二年間にわたる不貞の証拠を示され、弁護士同席のもとで何度も話し合いが行われていた。だが、すべてを正直に話せば、奈緒子が自分へ向けている同情が消えることくらいは分かっていた。


「預金もほとんど持っていかれました。車も処分しなければならなくて、今は会社の近くの古いアパートで暮らしているんです」拓也は、車を友人名義へ変えただけだとは言わなかった。財産分与によって預金を半分ずつ分けたことも、美咲とのホテル代や贈り物に夫婦の金を使ったため、その分が拓也の取り分から差し引かれたことも話さない。奈緒子は箸を置き、自分の弁当から蓮根のきんぴらを小さな紙皿へ取り分けた。


「よかったら食べてください。母が作りすぎたんです」奈緒子は紙皿を差し出したあと、少し照れたように髪を耳へ掛けた。拓也は何度も礼を言い、蓮根をゆっくりかんだ。甘辛い味が口へ広がり、空になっていた胃がわずかに落ち着いた。紗季なら弁当のおかずを五品は入れ、味が重ならないよう毎朝工夫していたが、その手間を思い出して礼を言ったことは一度もなかった。


それから拓也は、昼休みになると奈緒子の近くへ座るようになった。奈緒子が持ってきたみかんを一つもらい、別の日には母親が焼いたという栗入りのパウンドケーキを分けてもらった。拓也はお返しに缶コーヒーを買うことさえせず、「今月を乗り越えれば楽になる」と笑った。だが給与の差し押さえは一か月で終わるものではなく、未払い分と残りの慰謝料を払い終えるまで続く予定だった。


十二月に入ると、拓也は古いアパートの給湯器が壊れたと奈緒子へ話した。実際には壊れておらず、滞納した携帯電話料金と車の維持費を払う金が必要だった。奈緒子は昼休みに銀行へ行き、十万円を下ろして拓也へ渡した。白い封筒には、母が通販で購入した健康食品の会社名が印刷されていた。


「貸すだけですよ。給料が入ったら、少しずつ返してください」奈緒子は封筒の口を指で押さえ、念を押した。拓也は両手で受け取り、必ず返すと何度もうなずいた。財布へ封筒をしまう手つきは丁寧だったが、その日の帰りには友人名義の車へガソリンを満タンに入れ、駅前の居酒屋で一人二千八百円の晩酌セットを注文した。


奈緒子は拓也を食事へ誘うようになり、会計のたびに自分のカードを出した。拓也は最初こそ財布を開くふりをしたが、三度目からは伝票へ目を向けなくなった。奈緒子が新しいネクタイを贈ると、「こんなことをしてくれる女性は初めてだ」と言い、誕生日には結婚を考えてもよいという言葉まで口にした。妻に突然捨てられた誠実な男という役を演じるたび、拓也の手元には食事と衣服と現金が増えていった。


一方、紗季は土曜日の午前中、駅前の市民文化センターで開かれている料理教室へ通い始めていた。白いシャツの上から黄緑色のエプロンを着け、髪を後ろで低く束ねている。その日の献立は鶏肉と冬野菜のクリーム煮、林檎と胡桃のサラダ、焼きたての丸パンだった。室内にはバターと炒めた玉ねぎの香りが漂い、窓ガラスは鍋から上がる蒸気で白く曇っていた。


紗季と同じ調理台には奈緒子がいた。二人は以前から顔を合わせていたものの、挨拶を交わす程度で、互いの仕事や家庭について話したことはなかった。奈緒子は海老茶色のセーターに花柄のエプロンを着け、鶏肉の皮を包丁で丁寧に取り除いている。紗季が人参を乱切りにすると、奈緒子はその大きさをまねるように包丁を動かした。


「人参は、これくらいでいいでしょうか。私、大きさをそろえるのが苦手なんです」奈緒子は、隣に並んだ不ぞろいな人参を見て笑った。紗季は大きいものだけ半分に切れば、煮上がる時間はそろうと説明した。奈緒子は感心したようにうなずき、家でも母に教えたいと言った。


「お母さまと暮らしていらっしゃるんですね」紗季が尋ねると、奈緒子は離婚後、実家へ戻ったのだと話した。母は味つけが濃く、煮物にも砂糖を多く入れるため、最近は健康を考えて自分が料理を習っているという。紗季も一人暮らしになり、料理を作りすぎる癖を直すために通い始めたと答えた。


「一人分って、案外難しいですよね。うちは母と二人なのに、母が四人分くらい作るんです」奈緒子は鍋へ牛乳を注ぎながら、昨日も肉じゃがを三日分作ったと話した。紗季は、大根の煮物を作ると翌朝の分まで鍋に残してしまうと答えた。本筋とは関係のない鍋の大きさや、余った料理を冷凍するとじゃがいもの食感が変わるという話で、二人はしばらく笑った。


クリーム煮を弱火で煮込んでいる間、奈緒子のスマートフォンがエプロンのポケットで震えた。画面を確認した奈緒子は、頬を少し緩めたあと、先生へ断って廊下へ出た。戻ってくると、鍋の蓋を持ち上げながら「付き合っている人からでした」と紗季へ打ち明けた。相手は同じ会社の営業職で、離婚したばかりの三十六歳だという。


「元の奥さんに急に捨てられて、財産まで全部取られたそうなんです。今も給料を差し押さえられていて、食事にも困っているんですよ」奈緒子は木べらで鍋底を混ぜながら、相手の生活を立て直す手伝いがしたいと話した。紗季は塩を量っていた小さじを持ったまま、奈緒子の横顔を見た。偶然にしては条件が重なりすぎているが、同じ境遇の男性がほかにいないとは言い切れなかった。


「お名前を伺ってもいいですか」紗季はできるだけ普段と同じ声で尋ねた。奈緒子は少しためらったあと、いずれ紹介するつもりだからと笑った。鍋の中で白いソースが小さく泡立ち、ローリエの香りが立ち上った。


「相沢拓也さんです。東都住宅販売に転職してきた人なんです」奈緒子が口にした名前を聞き、紗季は小さじの塩を鍋へ入れた。手元は震えなかったが、白いソースへ落ちた塩が溶けて見えなくなるまで、いつもより長く鍋の中を見ていた。奈緒子はそれに気づかず、拓也は妻を支えるために一生懸命働いたのに、一方的に離婚されたのだと続けた。


「その方は、元の奥さまが専業主婦だったとおっしゃっていましたか」紗季が尋ねると、奈緒子は大きくうなずいた。働きもせずに夫の給料を使い、最後には預金と車を奪って出ていったと聞いているらしい。紗季は味見用の小皿へクリーム煮を取り、熱い鶏肉を少し冷ましてから口へ入れた。塩加減はちょうどよかった。


「川村さん、その相沢拓也は、私の元夫です」紗季は小皿を調理台へ置いた。奈緒子の手から木べらが滑り、鍋の縁へ当たって乾いた音を立てた。向かいの台では、年配の男性が丸パンの成形に失敗し、先生へ助けを求めている。教室はそれまでと変わらずにぎやかなのに、二人の周囲だけ、換気扇の回る音がよく聞こえた。


「でも、相沢さんは、奥さんの名前は紗季だと……」奈緒子は木べらを拾おうとして、持ち手についたソースを布巾で拭いた。紗季は自分が相沢紗季だったこと、結婚して八年目に離婚したことだけを伝えた。美咲との不倫について詳しく語ることも、拓也を嘘つきと呼ぶこともしなかった。


「私の言葉だけでは、どちらが本当か判断できないと思います。次回、公正証書をお持ちします」紗季はそう言うと、鍋の火を弱めた。奈緒子は唇を結び、何度もエプロンのポケットへ手を入れてスマートフォンを確かめた。やがて、拓也へ今すぐ電話をかけたいと口にしたが、紗季は料理教室が終わってから事実を確認したほうがよいと勧めた。


「温かいうちに食べましょう。せっかく作ったクリーム煮が冷めてしまいます」紗季は焼き上がった丸パンを籠へ移した。奈緒子は返事をしなかったが、盛りつけの皿を二枚並べ、林檎と胡桃のサラダを同じ量ずつ取り分けた。パンの表面はきつね色に焼け、割ると白い湯気と小麦の匂いが上がったものの、奈緒子は一口食べただけで手を止めた。


翌週、紗季は個人情報を伏せた公正証書の写しと、三上から使用の許可を得た離婚協議書を持参した。離婚理由の欄には拓也の継続的な不貞行為が記載され、拓也本人の署名と実印がある。財産分与は夫婦の共有財産を二分し、拓也が不倫に使った金額を清算しただけだった。給与の差し押さえも、公正証書で約束した慰謝料の支払いを拓也が止めたために実行されたと分かる。


奈緒子は文化センターの小さな休憩室で、書類を一枚ずつ読んだ。クリーム色のコートの袖口から出た指が、拓也の署名の上で止まる。テーブルには自動販売機で買った温かいミルクティーが置かれていたが、蓋は開けられないままだった。紗季は向かいの椅子へ座り、鞄の中で転がっていた飴玉を一つ取り出した。


「美咲さんという方とは、いつ別れたのですか」奈緒子が尋ねると、紗季は離婚成立後まもなくだと聞いていると答えた。美咲が妊娠したという話は嘘で、慰謝料の通知を受けた途端、二人は責任を押しつけ合った。拓也が奈緒子へ近づいたのは、その直後だった。


「私は、給湯器の修理代として十万円を貸しました。それから、食事代も私が払っていました」奈緒子は膝の上で両手を握り、爪の先を見つめた。紗季は拓也が以前住んでいた部屋の給湯器については分からないと答えたが、奈緒子は首を横へ振った。昨日、拓也のアパートへ弁当を届けた際、給湯器が問題なく動いていたことを思い出したのである。


「私も、お金を出してくれる人として選ばれたのでしょうね」奈緒子はようやくミルクティーの蓋を開けた。湯気が眼鏡を曇らせたため、外してハンカチで拭いた。紗季は慰める言葉を急いで探さず、持ってきた飴玉を奈緒子の前へ置いた。


「それは、川村さんが決めることです。ただ、私が八年間で学んだのは、言葉ではなく行動を見るということでした」紗季は書類を封筒へ戻した。拓也が何を言ったかではなく、誰の金を使い、誰との約束を破ったのかを見れば、判断は難しくない。奈緒子はしばらく黙っていたが、やがてスマートフォンを取り出し、拓也へ電話をかけた。


拓也は三度目の呼び出し音で出た。奈緒子はスピーカーにはせず、窓際へ移動して受話口へ耳を当てた。紗季には拓也の声は聞こえなかったが、奈緒子の背筋が少しずつ伸びていくのが見えた。外では冬の風に飛ばされたレジ袋が植え込みへ引っかかり、清掃員が長い火ばさみで拾い上げていた。


「相沢さん、あなたの元の奥さまから公正証書を見せていただきました」奈緒子が告げると、電話の向こうで拓也が大きな声を出したらしく、奈緒子はスマートフォンを耳から離した。紗季が自分を陥れようとしている、書類は都合よく作られたものだ、昔の話を蒸し返されているだけだと拓也は訴えた。奈緒子はテーブルに置かれた公正証書へもう一度目を向けた。


「あなた自身の署名と実印があります。それに、給湯器は壊れていませんでしたよね」奈緒子の声は低く、休憩室の壁掛け時計が秒を刻む音に重なった。拓也は修理したから今は動くのだと答えたが、業者の領収書を見せてほしいと言われると黙った。十万円はもう使ったため、すぐには返せないとも言い始めた。


「では、借用書を作って返済日を決めましょう。それから、私たちの交際は今日で終わりです」奈緒子は一つずつ区切って伝えた。拓也は、紗季に何を吹き込まれたのか、自分を信じられないのかと繰り返した。奈緒子は相手の言葉が途切れるのを待ち、最後に、信じてほしい人は最初から嘘をつかないと答えて電話を切った。


その直後、紗季のスマートフォンが鞄の中で震え始めた。画面には着信を拒否したはずの拓也とは別の番号が表示されている。おそらく会社か同僚の電話を借りたのだろう。紗季は画面を伏せ、鳴り終わるまで触れなかった。


「出なくていいんですか」奈緒子が尋ねると、紗季は小さく首を横へ振った。離婚した夫の新しい交際について説明する義務も、嘘が通用しなかった理由を教える義務もない。代わりに紗季は、来週の料理教室では鯖の味噌煮を作るらしいと話した。


「母は魚の臭みを取るのが苦手なんです。しょうがをたくさん入れればいいでしょうか」奈緒子は目元をハンカチで押さえたあと、料理教室の案内用紙を見た。紗季は熱湯を回しかけてから煮ると臭みが減ると説明した。二人は鯖の切り身をどこで買うか、駅前の魚屋は夕方になると二割引きになることまで話し、冷めたミルクティーを飲み終えた。


その夜、拓也は奈緒子のマンション前で一時間近く待っていた。よれた黒いコートのポケットには、給料日前に買った安い花束が入っている。だが奈緒子は母へ連絡し、妹夫婦の家へ泊まっていたため、部屋の明かりはつかなかった。エントランスの脇には灯油販売の案内が貼られ、風が吹くたびに紙の角がめくれていた。


拓也は何度電話をかけてもつながらず、やがて近くのコンビニへ入った。弁当売り場には豚の生姜焼き、焼き鮭、オムライスが並んでいたが、財布に残っているのは千円札一枚と小銭だけだった。車のガソリン代も必要なため、拓也は一番安いカップ麺を一つ買った。レジの横に並んだ栗入りのパウンドケーキを見て、奈緒子の母が焼いた甘いケーキを思い出した。


古いアパートへ戻ると、流しには三日前の皿が二枚重なり、脱いだ靴下がテーブルの下へ丸まっていた。洗濯籠からは湿ったタオルの匂いがして、冷蔵庫には賞味期限の切れた牛乳と調味料しか入っていない。拓也は湯を沸かし、カップ麺の蓋を箸で押さえた。紗季と暮らしていたころ、夜遅く帰れば、鍋の中には必ず味噌汁が残されていた。


スマートフォンには、奈緒子から一通のメッセージが届いていた。添付された借用書には、貸付金十万円、返済期限、遅れた場合の取り扱いまで記載されている。拓也は画面を閉じ、まだ硬い麺を無理にすすった。熱い汁が舌へ触れたが、冷蔵庫に水はなく、流しの蛇口から直接飲むしかなかった。


紗季から金を奪われたと奈緒子へ語り、奈緒子の金で生活を立て直すつもりだった。だが紗季は一言も拓也の悪口を言わず、拓也自身が署名した書類を見せただけで、二人目の財布は閉じてしまった。カップ麺の蓋の上には、調味油の袋が使われないまま残っている。拓也はそれに気づかず、味の薄い麺を最後まで食べ続けた。



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