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第11話 消えた慰謝料

第11話 消えた慰謝料


離婚から三か月が過ぎた九月の朝、紗季は薄い水色のシャツワンピースの袖を折り、ベランダに干した白いシーツの端を洗濯ばさみで留め直していた。夜半に降った雨の名残で手すりは冷たく、住宅街の道路からは、濡れたアスファルトと金木犀の混じった匂いが上がってくる。新しいマンションで暮らし始めてから、紗季は毎朝六時半に起き、窓を開けてから湯を沸かすようになった。拓也の出勤時間に合わせる必要はなくなったのに、八年間で身についた習慣だけは、目覚まし時計より正確に体へ残っていた。


台所では小さなフライパンにバターを落とし、半分に切った食パンを両面焼いた。冷蔵庫に残っていたレタスとミニトマトを白い皿へ盛り、昨日作ったかぼちゃのスープを温め直す。鍋の縁に黄色い跡がついていたので、紗季は濡らした布巾で拭き取り、それからコーヒー豆を二杯分ではなく一杯分だけ量った。最初のころは無意識に二人分を挽いてしまい、余ったコーヒーを流しへ捨てながら、ずいぶん贅沢な癖をつけられたものだと思ったこともある。


テーブルに座った紗季は、焼いたパンへ蜂蜜を薄く塗り、スマートフォンの銀行アプリを開いた。毎月二十五日は、拓也から慰謝料の分割金十万円が振り込まれる約束になっている。離婚時に三上が作成した公正証書には、支払いを怠った場合、強制執行を受けても異議を申し立てないという文言も入っていた。だが、画面に並んでいるのは電気料金と携帯電話料金の引き落としだけで、相沢拓也の名前はどこにもなかった。


紗季はもう一度、日付を確認した。二十五日は昨日で、今日は二十六日だった。休日を挟んだわけでもなく、銀行の処理が遅れる理由もない。カップを持ち上げると、挽きたてのコーヒーの香りが鼻へ届いたが、口に含んだ液体はいつもより濃く、舌の奥へ苦みが残った。


「一日くらい待ってあげるべきかしら」紗季はテーブルの上に置いた小さなサボテンへ話しかけた。返事の代わりに、エアコンの風でレースのカーテンが揺れた。結婚していたころ、拓也は支払いを忘れるたびに「言ってくれればよかったのに」と笑い、紗季が家計簿を確認しなかったことまで原因の一つにした。今回も黙っていれば、忘れていた、忙しかった、連絡をくれなかったという言葉が順番に出てくるのだろう。


午前十時を過ぎたころ、拓也から短いメッセージが届いた。謝罪の言葉はなく、会社を辞めて収入がなくなったため、しばらく支払えないとだけ書かれていた。最後には「俺だって生活がある。少しくらい事情を考えてほしい」と付け加えられている。紗季は画面を伏せ、食べ終えた皿を流しへ運んだ。


「あなたの生活を考えて、私は八年間も自分の仕事をやめていたのだけれど」声に出してみると、言葉は換気扇の低い音に吸い込まれた。紗季は皿についたかぼちゃのスープを水で流し、スポンジへ一滴だけ洗剤を落とした。拓也は退職したというが、先週、共通の知人から「新しい会社でも営業をしているらしい」と聞いたばかりだった。本人から直接確認しなかったのは、言葉より記録のほうが役に立つと、三上から教わっていたからである。


紗季は食器を水切り籠へ伏せると、寝室のクローゼットから灰色の布張りの箱を取り出した。中には公正証書の正本、振込履歴、拓也とのメッセージを印刷した紙が日付順に収めてある。離婚準備を始めた二年前には、証拠を触るだけで指先が冷たくなり、何度も書類を落とした。今では透明なポケットをめくる手に迷いはなく、紗季は三回分の入金記録の次へ、未払いと赤字で書いた付箋を貼った。


その日の午後、紗季は駅前の喫茶店で興信所の担当者と会った。紺色のブラウスに生成りのパンツを合わせ、冷房対策の薄いカーディガンを腕へ掛けている。店内では深煎りコーヒーの香りと、隣の席の老婦人が注文したナポリタンの甘いケチャップの匂いが混じっていた。担当者はアイスコーヒーのストローを紙袋から出さないまま、茶封筒をテーブルへ置いた。


「相沢拓也さんは、先月末に前の会社を退職しています。ですが、今月一日付で東都住宅販売へ入社しています」担当者は声を落とし、封筒から数枚の写真を取り出した。写真には、濃紺のスーツを着た拓也が、東都住宅販売と書かれたビルへ入っていく姿が写っている。別の日には社員証を首から下げ、同僚らしい男性と定食屋から出てきていた。


「収入がなくなった期間は、なかったということですね」紗季は写真を一枚ずつ確認した。退職から転職まで空白はなく、新しい会社の募集要項に記載された給与は、以前よりわずかに高い。拓也が着ているスーツも、結婚中には見たことのない新しいものだった。胸元の鮮やかな青いネクタイを見て、紗季は、美咲から派手な色のほうが似合うと言われたと喜んでいた拓也を思い出した。


「それから、車の名義も変更されています」担当者は車検証の登録情報を確認した資料を示した。拓也が離婚後も乗っていた外国製の白い車は、先月、大学時代の友人名義へ変更されていた。ただし保管場所も使用者も変わっておらず、拓也は毎朝、その車で新しい会社へ通勤している。名義だけを移した可能性が高いという説明を聞き、紗季は冷めかけた紅茶へ角砂糖を一つ落とした。


「手放したように見せて、今も自分で使っているのですね」紗季が尋ねると、担当者は静かにうなずいた。拓也は慰謝料を払えないのではなく、払わずに済む形を作ろうとしている。カップの底で角砂糖が崩れ、銀色のスプーンが小さく鳴った。紗季はその音を聞きながら、もう一度だけ拓也へ事情を尋ねるメッセージを送ることにした。


夜の八時過ぎ、拓也から電話がかかってきた。紗季は部屋着の白いTシャツと紺色の綿パンツに着替え、鍋でうどんをゆでていた。窓の外では秋の虫が鳴き、かつおだしの匂いが狭い台所へ広がっている。火を弱めてから通話ボタンを押すと、拓也の大きなため息が最初に聞こえた。


「メッセージを何度も送ってくるなよ。会社を辞めたって書いただろ」拓也の背後から、居酒屋らしい笑い声と食器のぶつかる音が聞こえた。収入のない人間が平日の夜から酒を飲めるのかと紗季は考えたが、問い詰めることはしなかった。代わりに、鍋の中で柔らかくなったうどんを菜箸でゆっくりほぐした。


「今月分は、いつ支払えそうですか」紗季が尋ねると、拓也は「だから、今は無理だって」と声を荒らげた。友人から金を借りるわけにもいかず、家賃も払わなければならないと続ける一方で、転職したことには触れなかった。紗季は冷蔵庫から長ねぎを取り出し、白い部分を三センチほど切った。


「新しい仕事が見つかったら、連絡をください。公正証書に定めた支払日は過ぎています」紗季はまな板の上で長ねぎを細く刻んだ。拓也は一瞬黙り、それから、法律を振りかざすような女だとは思わなかったと吐き捨てた。結婚記念日の夜に「すぐ戻る」と出ていった男が、今は約束を守れと求められただけで、被害者のような声を出している。


「紗季、お前、変わったな。昔はもっと優しかっただろ」拓也の言葉のあと、受話口の向こうで店員が追加注文を尋ねていた。拓也は電話を離し、「生ビールをもう一杯」と答えた。紗季は鍋の火を止め、湯気で曇った眼鏡を外した。


「そうですね。昔の私は、あなたが嘘をつくたびに、本当かもしれないと考えてあげていました」紗季は布巾で眼鏡を拭き、再び掛けた。拓也は何か言い返そうとしたが、紗季は支払期限を三日後に設定し、それまでに入金も具体的な連絡もなければ弁護士へ相談すると伝えた。通話を切ったあと、紗季は刻んだ長ねぎをうどんへ載せ、七味唐辛子を少し振った。


三日後になっても、入金はなかった。拓也から届いたのは「金のことばかり言うな」という一文だけで、支払予定については何も書かれていない。紗季は朝から公正証書と調査報告書を鞄へ入れ、三上の法律事務所へ向かった。空はよく晴れていたが風が強く、歩道へ落ちた銀杏の葉が、紗季のベージュ色のパンプスの前を乾いた音を立てて転がっていった。


事務所の応接室には、三上が自宅から持ってきたという小さなコーヒーミルが置かれていた。最近、豆を挽くことに凝っているらしく、書類の脇には銘柄と湯の温度を書いた大学ノートまである。三上は紗季へコーヒーを出したあと、自分のカップを一口飲み、少し濃すぎましたねと眉を寄せた。紗季は久しぶりに口元を緩め、砂糖を一つ入れればちょうどよさそうですと答えた。


「では、順番に確認しましょう」三上は眼鏡を掛け、公正証書、振込履歴、拓也からのメッセージ、興信所の報告書を机へ並べた。転職先、給与額、車の名義変更、現在の使用状況まで確認すると、三上の指が車の写真の上で止まった。拓也が生活に困っているという説明と、実際の行動は一致していなかった。


「退職したという言葉だけなら嘘ではありません。しかし、すでに転職している事実を隠し、収入がないように説明した。車についても、差し押さえを避ける目的で名義を移した疑いがあります」三上は給与債権への強制執行が最も確実だと説明した。勤務先が判明しているため、裁判所へ申し立てれば、会社から支払われる給与の一部を差し押さえられる可能性が高い。紗季は説明を聞きながら、鞄の中で少し曲がっていたハンカチを四角く畳み直した。


「勤務先へ通知が行けば、相沢さんも困るでしょう。最後に任意の支払いを求める通知を送る方法もあります」三上は紗季の意思を確かめるように顔を上げた。以前の紗季なら、拓也の会社での立場や周囲の目を考え、もう一度だけ待っていたかもしれない。だが、その猶予を拓也は反省ではなく、逃げ道を作るために使った。


「三上先生、払えない人と、払いたくない人は違いますよね」紗季は机に並んだ資料へ目を向けた。払えない人なら、事情を説明し、支払額や時期について相談するはずだった。新しい勤務先を隠し、車の名義を移し、居酒屋で二杯目のビールを注文する人まで、紗季が守る理由はもうなかった。


「違います。払えない人には話し合いが必要ですが、払いたくない人には手続きが必要です」三上は公正証書の正本を手元へ寄せ、強制執行申立書の準備を始めた。パソコンのキーボードを打つ音が、静かな応接室へ一定の間隔で響いた。紗季は冷めたコーヒーを飲み、底に残っていた砂糖の甘さを舌先で確かめた。


事務所を出ると、夕方の商店街には焼き鳥の煙が漂っていた。紗季は八百屋で大根を一本と、少し形の曲がった人参を三本買った。店主が「曲がっていても煮れば同じだよ」と笑ったので、紗季も「それなら安いほうが助かります」と答えた。今夜は大根と鶏肉を煮て、明日の朝には味の染みたものを食べようと思った。


そのころ拓也は、新しい会社の机で営業日報を書きながら、紗季なら最後には折れると考えていた。八年間、シャツの染みを黙って落とし、帰宅が遅くても温かい夕食を用意し、美咲からの電話で席を立った夜でさえ笑顔で送り出した女である。強い言葉を投げれば黙り、困っていると言えば自分より拓也を優先する。それが相沢紗季という妻だったと、今も思い込んでいた。


一週間後、東都住宅販売の総務課へ、地方裁判所から一通の書類が届いた。拓也の給与に対する債権差押命令だった。総務課長に会議室へ呼ばれた拓也は、白い封筒の上に記された自分の名前を見たまま、椅子へ座ろうとしなかった。窓の外では営業車が次々と駐車場を出ていき、給湯室からは誰かが温めたカレーの匂いが流れてきた。


「相沢君、これは会社としても対応しなければならない。事情を説明してもらえるか」総務課長は封筒を机へ置き、低い声で尋ねた。拓也は元妻が金に執着しているだけだと答えようとしたが、公正証書に基づく正当な手続きだと書類に明記されている。胸ポケットのスマートフォンを取り出し、紗季へ電話をかけたものの、呼び出し音は一度も鳴らなかった。


紗季はその番号を、強制執行を申し立てた日の夜に着信拒否していた。大根と鶏肉の煮物を小鉢へ盛り、炊きたてのご飯へ黒ごまを振りかけているところだった。窓辺のサボテンには夕方の光が当たり、買ったときには気づかなかった小さな芽が、丸い茎の脇から顔を出している。紗季は湯気の立つ味噌汁を一口飲み、少し薄いと思って味噌を足した。


「約束は、守るためにあるのよ」誰に聞かせるでもなく言ってから、紗季は煮物の大根へ箸を入れた。中まで染みた大根は力を入れなくても二つに割れ、かつおだしと鶏肉の味が口の中へ広がった。食卓の向かい側に誰もいなくても、もう二人分の料理を作る必要はない。拓也のために空けていた場所には、図書館で借りた料理本と、明日の朝に食べるための小さな林檎が一つ置かれていた。



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