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第22話 おかえりなさい、私

第22話 おかえりなさい、私


離婚から一年が過ぎた六月の朝、紗季は北辰食品本社の正面玄関に立っていた。薄い水色のブラウスに濃紺のパンツスーツを合わせ、胸元には新しい社員証を下げている。昨夜から降っていた雨は上がり、玄関脇の植え込みでは、濡れた紫陽花が朝日に照らされていた。自動扉が開くたび、冷房の風と一緒に、試食会場で温められているパンの匂いが外まで流れてきた。


一年前、受付のタッチパネルを二度押ししていた紗季は、今では警備員へ挨拶をしながら社員証を機械へかざしていた。それでも大事な会議の日に五分早く着く癖は変わらず、鞄には予備のボールペンが三本と、小さな染み抜き用シートが入っている。今朝は家で味噌汁を温めながら資料を読み、鍋底を少し焦がした。味噌汁には焦げた匂いが移らなかったため、刻んだねぎを加えて最後まで飲んできた。


一階の特設会場には、冷凍朝食シリーズ「朝のひとさら」が三種類ずつ並んでいた。一人分の小さなクロワッサン、彩りのよい温野菜サラダ、少量ずつ味わえるスープを一つの容器へ収めた商品である。南瓜と鶏肉の豆乳スープ、トマトと豆のミネストローネ、きのこと玉ねぎの和風スープが、それぞれ違う色の帯で区別されていた。棚の端には、日曜日向けのアレンジを紹介する小さな冊子も置かれている。


冊子には、卵味噌入り卵焼き、余った素麺で作るチャンプルー、胡瓜や茗荷を刻んだ山形のだしが掲載されていた。冷凍には向かなかった料理を、無理に商品へ詰め込むのではなく、購入者が休日に加えられる一品として紹介したのである。最後のページには、色のついた冷や麦と缶詰のみかんの写真があり、「たまには道草も楽しいものです」と小さく印刷されていた。真紀はその一文を見つけたとき、食品の説明より紗季の生活日記に近いと言いながらも、削除しなかった。


「相沢主任、南瓜豆乳の試食が予定より早くなくなりそうです」美月が保冷箱を抱えて駆け寄ってきた。白い半袖シャツの胸元には、赤いトマトスープの小さな染みがついている。紗季は鞄から染み抜き用シートを取り出し、美月へ渡した。


「水野課長だけでなく、佐藤さんまで染みをつけるようになったのね」紗季が言うと、美月は商品企画部の伝統を守っているのだと胸を張った。後ろから来た真紀は、そんな伝統を作った覚えはないと言いながら、自分のジャケットの袖へパンくずがついていないか確認した。三人は顔を見合わせ、試食用のクロワッサンを新しい籠へ補充した。


正式発売を記念した試食会には、取引先、報道関係者、近隣住民が招かれていた。東都住宅販売が管理する三棟で行った試験販売では、予定数の二倍近い売上があり、とくに午前六時から八時までの購入が多かった。アンケートには、夜勤明けでも温かい朝食が取れた、一人分だから残さず食べられた、容器を洗う必要がないので助かったという言葉が並んでいる。女性だけでなく、妻を亡くして一人で暮らす高齢男性や、食事の量が減った高齢女性からの購入も増えていた。


試食会が始まると、七十代くらいの女性が南瓜豆乳スープを持って紗季へ近づいてきた。薄紫色のカーディガンに灰色のスカートを合わせ、左手には花柄の布袋を提げている。女性はクロワッサンを半分だけスープへ浸し、柔らかくして食べていた。紗季が味の感想を尋ねると、女性は容器の隅に残った南瓜をスプーンですくった。


「これくらいの量がちょうどいいのよ。普通のお弁当は、食べ切れないと申し訳なくなるから」女性は、夫を亡くしてから朝食を作らなくなったと話した。食パンを一袋買っても、最後の二枚を硬くしてしまう。クロワッサンが一個だけ入っているのを見て、自分のための商品だと思ったという。


「一個だけでは少なくありませんでしたか」紗季が尋ねると、女性はスープの具が大きいから十分だと答えた。食べ終わった容器を見せ、何も残っていないでしょうと笑った。その言葉は、百二十人の調査票に並んだ数字より、紗季の胸へ深く入った。


別のテーブルでは、杖をついた男性が冊子の卵味噌入り卵焼きを見ていた。男性の生まれた地方にも似た料理があり、子供のころは麦飯へ載せて食べたという。ねぎを入れる家と入れない家があり、男性の母親は玉ねぎを細かく切って入れていた。紗季は、祖父の卵味噌にはねぎが入っていたことを話した。


「同じ料理でも、家によって少しずつ違うんですね」紗季が言うと、男性は、それでよいのだと答えた。母親と同じ味にしようとしても、味噌も卵も違うから完全には戻らない。それでも鍋から立つ匂いをかぐと、古い家の台所が浮かぶという。紗季はその言葉を手帳へ書き留め、卵味噌の次の商品案として、玉ねぎ入りも試してみようと思った。


午前十一時、社長と商品企画部の社員が壇上へ並んだ。紗季は試作品の容器を手に持ち、一人暮らしの女性へ向けて企画した商品が、高齢者や男性にも支持された経緯を説明した。対象を最初から広げず、一人で朝を迎える人の具体的な困り事へ向き合った結果、年代や性別を越えて必要とする人へ届いた。話し終えると、会場から拍手が起こった。


「この企画をまとめた相沢さんから、一言お願いします」社長に促され、紗季はマイクの前へ立った。客席の端には真紀と美月が並び、美月はまだトマトの染みが落ちきらないシャツをジャケットで隠している。紗季は商品棚に並ぶ一人分の容器を見た。


「一人分の食事は、二人分を半分にしたものではありません。一人で食べる人が、自分のために選び、残さず食べ終えられる量と味があります」紗季はゆっくり話した。毎朝家族へ食事を作る人も、一人で簡単に済ませる人も、忙しくて食べられない人もいる。どの暮らしが正しいと決めるのではなく、その人の朝へ置ける一皿を作りたいと考えた。


「食べ終えたとき、今日も始められそうだと思っていただければ、企画担当者としてこれほどうれしいことはありません」紗季は頭を下げた。拍手の中で顔を上げると、先ほどの女性が空になった容器を持ち、小さく手を振っていた。紗季もマイクを持っていない手を少しだけ上げた。


試食会終了後、商品企画部の会議室で人事通知が渡された。紗季は契約社員から正社員となり、新設される生活者向け商品企画チームの主任を任されることになった。通知書には次の月からの給与、役職、担当業務が細かな文字で記されている。紗季は一行ずつ読み、最後に自分の名前が正しく印刷されていることを確認した。


「相沢主任、これからは冷凍庫へ試作品を詰め込みすぎないよう、部下へ指導してください」真紀は課長らしい口調で言った。だが真紀の机の引き出しには、発売前の試作品が五個も入っていると美月が告げ口した。真紀は非常時の備蓄だと言い張り、三人で昼食にそのうち一個を食べることになった。


「主任になって最初の仕事が、課長の冷凍庫整理ですか」紗季は通知書を封筒へ戻した。美月は、在庫管理も立派な商品企画だと言って、以前紗季が面接で話した言葉をまねた。紗季は返事の代わりに、冷凍庫から賞味期限の近いきのこスープを選び、電子レンジへ入れた。


昼休みには三人で「朝のひとさら」を食べた。朝食商品を午後一時に食べても味は変わらず、真紀はクロワッサンを二個食べたいとこぼした。美月は自分のパンを半分渡す代わりに、南瓜を一個もらった。商品として決められた一人分も、食卓へ並べば、その日の空腹や好みに合わせて分けられていった。


仕事を終えた紗季は、濃紺のジャケットを腕へ掛け、三上法律事務所へ向かった。梅雨の晴れ間で空気は重く、駅前の花屋では黄色いひまわりが店先へ並べられている。紗季は小さな焼き菓子の箱を買い、事務所の受付へ渡した。応接室には冷房がよく効き、机の端には三上の昼食だったらしい蕎麦の容器が袋に入ったまま置かれていた。


「正式発売と正社員採用、おめでとうございます」三上は濃い灰色のスーツに青いネクタイを締め、紗季へ完了報告書を差し出した。拓也からの慰謝料、未払い婚姻費用、財産分与に関する清算はすべて終わっている。美咲からも損害賠償金と手続費用が支払われ、訂正文の掲載と個人情報の削除が確認された。給与差し押さえと財産開示に関する手続きも、すでに終了していた。


「こちらへ署名をいただければ、今回の委任契約はすべて終了です」三上は書類の署名欄を指した。紗季は黒いボールペンを持ち、相沢紗季と書いた。離婚協議書へ署名したときには、指先へ力が入りすぎて紙をへこませたが、今日は滑らかに書けた。


「長い間、ありがとうございました」紗季はペンを置き、頭を下げた。三上は、紗季が二年前から証拠を日付順に残していたため、手続きを進めやすかったと答えた。拓也が財布へためたレシートを整理する癖が、最後まで役に立ったのですねと紗季が言うと、三上は眼鏡の奥で目を細めた。


「家事の習慣も、使う場所が変われば立派な実務能力です」三上は完了報告書の控えを封筒へ入れた。紗季はその言葉を聞き、北辰食品の面接で真紀から言われたことを思い出した。家計簿は予算管理、献立は在庫管理、贈答品選びは顧客分析だった。八年間、何もしていなかったのではなく、名前も給与もつかない仕事を続けていた。


「もう、離婚準備というフォルダを毎日開かなくていいのですね」紗季が尋ねると、三上は、記録として保管し、日常的には見えない場所へ移してよいと答えた。捨てる必要はないが、朝食の隣へ置いておく必要もない。紗季は帰宅したら、外付けの保存装置へ移し、机の引き出しの一番奥へしまうことにした。


「最後に一つだけ伺ってもいいですか」三上は前かがみになり、発売された商品はどこで買えるのか尋ねた。妻から、法律の話ばかりせず新商品のことも聞いてくるよう頼まれたという。紗季は販売店の一覧を渡し、南瓜豆乳から試すよう勧めた。


「先生は砂糖を入れすぎたコーヒーを飲むので、朝食くらいは薄味がよいと思います」紗季が言うと、三上は、最近は角砂糖を一個に減らしたと反論した。机の脇には角砂糖の包み紙が二枚置かれていた。紗季が指で示すと、三上は今日は契約終了のお祝いだから二個にしたのだと説明した。


事務所を出た紗季は、駅前の花屋へ戻った。店先のひまわりは切り花だけでなく、小さな鉢植えも売られている。太い茎に葉が四枚つき、まだ開ききっていない蕾が一つ、日当たりのよい方向へ傾いていた。紗季は白い陶器鉢に植えられたものを選び、持ち帰り方を店員へ尋ねた。


「ひまわりは日当たりと風通しのよい場所へ置いてください。水は土の表面が乾いてから、鉢の底から流れるまでたっぷりです」若い店員は、世話の方法を書いた紙を袋へ入れた。紗季は水をやりすぎる癖があるため、毎日ではなく土を触って確かめると心の中で繰り返した。窓辺のサボテンへも、心配になると余計に水を与えそうになるため、曜日を決めていた。


帰宅すると、紗季はジャケットをハンガーへ掛け、白いブラウスの袖を肘までまくった。ベランダの床には前夜の雨が少し残り、物干し竿には朝干した白いタオルが二枚揺れている。ひまわりの鉢をサボテンの近くへ置こうとしたが、室内よりベランダのほうが日当たりはよかった。紗季は古い木箱を台にして、鉢が風で倒れない位置を探した。


「ここなら、朝から日が当たるわね」紗季はひまわりへ話しかけた。黄色い花びらはまだ半分しか開いていない。窓辺のサボテンでは、二つの新芽が親株と変わらないほど太くなり、それぞれ外側へ伸びていた。


夕方、玲子から電話があった。スーパーの冷凍食品売り場で「朝のひとさら」を三種類とも見つけ、店員へ、自分の娘が作った商品だと話してしまったという。紗季は娘ではなく元嫁でしょうと笑ったが、玲子は、戸籍の欄を見ながら買い物をするわけではないと答えた。レジの女性にも勧めたため、後ろに並んでいた人を少し待たせてしまったらしい。


「まず一種類だけ買えばよかったのに、選べなかったのよ」玲子は電話の向こうで冷凍庫の扉を何度も開け閉めしていた。冷凍した鯵の開きと、特売で買ったうどんが入っており、三個を並べる場所がないという。紗季は、今日中に鯵を焼けば一段空くと助言した。


「では、明日の朝は南瓜豆乳、昼は鯵の開き、夜はうどんにします」玲子は一日の献立を決めた。紗季は、朝からクロワッサンとスープを食べたあと、昼に鯵なら味も重ならないと答えた。かつて拓也のために毎日行っていた献立の調整を、今は玲子と楽しんでいる。


「来月の食事は、うちで新商品の試食会をしましょう。卵味噌入り卵焼きも作ります」紗季が言うと、玲子は赤い輪ゴムを掛けた失敗作はもう出さないでほしいと笑った。紗季は、焦げ目がないのに焦げ臭かった一号も、刻んでご飯へ載せればおいしかったと弁護した。二人は冷や麦のみかんの話まで戻り、月に一度の食事の日を、翌月の第二日曜日に決めた。


電話を切ったあと、紗季は完了報告書を「離婚準備」の箱へ収めた。ホテルの写真、送金履歴、公正証書、内容証明の控えが、日付順に並んでいる。紗季は箱の蓋を閉じ、クローゼットの一番奥へ入れた。空いた棚には、仕事で使う食品業界誌と、祖父の卵味噌を記録した試作帳を置いた。


それから一年が過ぎた休日の朝、紗季は目覚まし時計を使わず、七時を少し過ぎてから目を覚ました。白い半袖の部屋着に薄い緑色のカーディガンを羽織り、ベランダの戸を開ける。ひまわりの鉢は二年目の苗へ植え替えられ、今年も黄色い花が一つ開いていた。土へ指を入れて確かめると、まだ湿っていたため、水は夕方まで待つことにした。


台所ではコーヒー豆を一杯分だけ挽いた。最初のころは無意識に二人分を量っていたが、今では計量スプーンが迷わず一杯で止まる。豆を挽く小さな音のあと、湯を注ぐと苦みを含んだ香りが立った。紗季は冷凍庫から「朝のひとさら」を一個取り出し、電子レンジへ入れた。


選んだのは、きのこと玉ねぎの和風スープだった。容器の中には、小さなクロワッサン、赤いパプリカといんげんの温野菜サラダ、少量のスープが仕切られている。加熱が終わると、きのこと醤油の香りに、焼いたバターの匂いが重なった。紗季は商品容器のまま食べず、クロワッサンを白い皿へ移し、温野菜は祖父からもらった古い小鉢へ盛った。


食卓には、昨夜読みかけた雑誌、眼鏡拭き、輪ゴムで留めた家計簿が置かれていた。紗季は雑誌を椅子へ移し、家計簿の上へコースターを置いた。洗濯機の中には、昨日脱いだ靴下が一足残ったままだったが、朝食を食べてから回せばよい。休日には、家事の順番を誰かの出勤時刻へ合わせる必要がなかった。


スマートフォンが鳴り、玲子から写真が届いた。写真には、南瓜豆乳の「朝のひとさら」と、玲子が自分で作った胡瓜の浅漬けが並んでいる。クロワッサンの横には、半分に切った缶詰のみかんまで添えてあった。メッセージには「新商品を買いました。日曜日なので、みかんで道草をしています」と書かれていた。


紗季は写真を見ながら、コーヒーを一口飲んだ。玲子の食卓には、拓也の姿はない。それでも二人の関係は、離婚届と一緒に終わらなかった。月に一度、ちらし寿司を作り、冷や麦へみかんを載せ、焦げ臭い卵焼きを食べ比べる関係として残っていた。


スマートフォンの連絡先には、拓也の番号も美咲の名前もなかった。慰謝料の入金日を確認する必要はなく、匿名の投稿を保存するために夜中まで画面を見ることもない。仕事用のメールには、翌週の新商品会議の予定が届いていたが、紗季は休日の朝に開かないと決めていた。クロワッサンの端をスープへ少し浸し、柔らかくなったところを口へ運んだ。


台所の壁には、小さな鏡が掛けてあった。結婚していたころは、拓也のネクタイが曲がっていないか確認するために買ったものである。紗季は空になったコーヒーカップを持って立ち上がり、鏡の前へ立った。寝起きの髪が一房だけ外へはね、カーディガンの一番下のボタンを掛け違えていた。


紗季はボタンを直さず、鏡の中の自分を見た。正社員になり、主任になっても、休日には洗濯物をため、味噌汁の鍋を焦がし、冷蔵庫へ胡瓜を入れたまま忘れる。離婚によって、何も失敗しない女性へ生まれ変わったわけではない。それでも、誰かの好みに合わせなければ価値がないと思っていた自分は、もうそこにはいなかった。


「おかえりなさい、紗季」紗季は鏡の中へ向かって言った。声は台所の壁へ当たり、電子レンジの低い作動音も、拓也の返事も戻ってこなかった。代わりにベランダから朝の風が入り、ひまわりの葉を揺らした。


紗季は食卓へ戻り、残っていたクロワッサンを二つに割った。外側は軽く音を立て、中から温かいバターの匂いが広がる。片方を食べ、もう片方はスープへ浸した。誰かを送り出すためでも、誰かの帰りを待つためでもない、自分のために整えた朝食だった。


窓の外では、雲の間から日が差し始めていた。向かいの家のベランダでは、白いシーツが風を受け、道路では自転車に乗った親子がゆっくり通り過ぎていく。紗季は冷める前にスープを飲み、玲子へ「来月は素麺チャンプルーを作りましょう」と返信した。もう誰かの帰りを待たなくていい朝は、思っていたよりも生活の音に満ちていた。



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