第九話 今日は先に食べてください 2006年。10月2週目。
十月の二週目。夕方の学食で、博之は長机を二本くっつけ、紙コップを並べていた。
いつもなら昼飯を食べたあと、トレーを返して出ていく場所である。閉めた配膳口の前に
唐揚げや焼きそばの大皿が並ぶと、知ってる場所を一晩だけ借りた感じがして、ちょっとうれしかった。
去年のゼミ論文でもらった賞金は五万円。店の冷蔵庫が壊れたらと思えば置いておきたい金やけど、
あの論文には、昼飯を後回しにして表を見てくれたやつもいる。ちょうど下の回生が新しく
ゼミに加わる。どうせ一回くらい祝うなら、その子らも一緒に飯を食えるほうがええ。
「新しく入った子は今日は財布しまっといて。去年の論文が、みんなに飯おごれるくらいの
賞をもらいました」
「去年の論文に乾杯!」
「そこは後輩に乾杯やろ」
誰かが言い直して、二度コップが上がった。入口に近い席の後輩が、唐揚げの皿を取って
四回生のほうへ回そうとする。
「今日は先に食べてください。その皿、向こうまで行ったら、たぶんキャベツしか帰ってけえへん」
言われて二つ取った子につられて、ほかの子もようやく箸を伸ばした。
博之はそこでやっと自分の椅子に座った。
四回生の自己紹介は、名前のあとに四月からの勤め先がついた。電機メーカーの経理に決まった
友達は、後輩に簿記の勉強の仕方を聞かれていた。保険会社に決まったやつは、
研修で同期が何人集まるか、もう何人と連絡先を交換したかまでよう知っていた。
「全国転勤やから、来年の今ごろ北海道かもしれん」と言う。まだ配属も決まってへんのに、
テーブルの端では早くも誰かが泊まりに行く約束をしていた。
「で、博之さんはどちらですか?」
後輩にまっすぐ聞かれて、一瞬、会社の名前を探してしまった。
「俺は今、草津のアル・プラザの向かいでカレー屋やってる。楽食屋いうて、椅子六つのちっこい店」
「あ、僕、前通ります。あの三百八十円の?」
「そうそう。今度はもう一歩、戸ぉ開けるとこまで頼むわ」
笑ってもらえて助かった。あいつは経理、こいつは営業、俺はカレー屋。
並べてみたら自分だけずいぶん具体的で、卒業してからどうなるのかは自分がいちばんよう分からん。
「博之は就職、結局どうすんの。秋の募集もそろそろやろ」
紙皿に焼きそばをよそいながら、向かいのやつが聞いた。
「まだ決めてへん。店で試したいこと残ってるしな。昼、六席とも埋まってると、戸ぉ開けて
そのまま帰る人おるやん。持って帰れるようにしたら、あの人も食べてくれるんかなとか。
朝七時に開けたら、いつもと違う顔が来るんかなとか。そういうの考えてんの、
今けっこう楽しいねん」
「まあ、そう言うしかないわな。今さら楽しくないですって言われても困るし」
そこで一人が「強がりや」と笑った。博之は取りかけた紅しょうがを、トングで
少し多めにつかんでしまった。人の強がりをようそない簡単に見分けるな、
と思った。言うた本人にも、どこまでがほんまか分からんというのに。
「そういや、うちのサークル、学祭でカレー出すで」
斜め向かいから別の友達が顔を出した。試作を何度かして、ホールのスパイスを油で
熱するところからやるという。玉ねぎを炒めるのにえらい時間がかかって、
このあいだは下宿じゅうが翌朝までカレーの匂いやったと聞いて、博之は普通に
その皿を食べてみたいと思った。
「いくらで出すん?」
「五百円。お前んとこより高いけど、味はうちのほうがうまいはずやで。本格カレーやから」
「へえ。うちの食べに来てくれたん?」
「まだ。お前、ルウは箱の裏の通りって言うてたやん」
向こうはそのまま、看板に貼る試作品の写真を後輩に見せた。折り畳みの携帯が隣へ回っていく。
色の濃いカレーの上に白いクリームで輪が描いてあって、うまそうに撮れていた。
俺もその写真、もうちょい見たかったな。そう思いながら、回してくれとは言えなかった。
三百八十円には三百八十円の勘定がある。毎日五十食煮る人間と、学祭の一日に
五百円の皿を出す人間で、玉ねぎにかけられる時間も違う。頭の中にはいくらでも
言うことが出てきた。けど、まだひと口も食べてへんカレーの値打ちをこっちまで決めたら、
同じやんな。
宴会がお開きになり、余った焼きそばをみんなで少しずつさらった。最後の唐揚げは、
ほんまにキャベツの下から一個出てきた。最初に皿を回そうとした後輩がそれを見つけて、
「先輩、今度は先にどうぞ」と博之の紙皿に載せた。
「今日、ごちそうさまでした。うちのゼミ、しゃべれんかったらどうしよ思てたんですけど、
来てよかったです」
ああ、そもそも今日はそのために金を出したんやった。博之は冷めた唐揚げをひと口で食べた。
五万円を冷蔵庫代に取っておいたら、この子の顔も名前も、来週また一から覚えるところやった。
机を元の位置に戻しながら、学祭には五百円玉を一枚持っていこうと思った。どんな味が
するのかは、やっぱり気になる。
向こうにも三百八十円持って来てほしいとは、帰りの自転車をこいでいる間じゅう思っていた。




