第十話 楽をするための店 開業届「楽食屋」www 2006年10月3週目。
十月の三週目に入る頃、博之はカウンターに白い紙を広げていた。
『アルバイト募集 時給八百円』
そこまでは迷わず書けた。その下で、油性ペンが止まる。
『一日店長、やってみませんか』
「……いきなり責任重そうやな」
自分で書いて、自分で首をひねった。
木曜日は友達が交代で立ってくれる。それで授業には出られるようになった。
しかし、彼らも卒論が終われば大学へ来なくなる。春にはそれぞれ会社へ行く。
その後も店を開けるなら、自分以外に、鍵を開けてカレーを出せる人が要る。
「毎日俺がおらなあかんかったら、休むたびに閉店やもんな」
三百六十五日働くつもりはない。けれど、休むとその日の売上がなくなると思うと、
今朝も結局シャッターを上げていた。
一日店長の横に、小さく書き足す。
『慣れるまでは一緒に働きます』
『週一日から。曜日・時間は相談してください』
これなら少しは応募しやすいだろうか。空いた時間に働きたい人と、自分が抜けたい時間が
合えばありがたい。
紙を表のガラスに貼り、外へ回って眺めた。
カレー三百八十円。その隣に時給八百円。
「二杯売っても、時給にならへんな」
当たり前の計算が、並べると妙に生々しかった。
昼の客が途切れたところで、店をいったん閉めた。今日は税務署へ行く。
営業を始める前の手続きや設備の用意に追われ、開業届は後回しになっていた。
まだ始めたばかりのつもりだったが、指で数えれば一か月を越えている。
窓口で用紙をもらい、記入台に向かう。
住所、氏名、職業。開業した日。 そして、屋号。
博之は、そこに少しだけ丁寧な字で書いた。
『楽食屋』
頭の中では、もう決まっていた名前だった。
楽しく食べられる店。気楽に入れる店。そう読んでもらえるなら、それでいい。
本当のところは、作る自分が楽であるように、という意味だった。
毎回凝ったものを作り、腕前で客を呼ぶ店には憧れる。けれど、今の自分には、
それを支える金も技術もない。仕込みを済ませておけば、一人で六席を回せる。
決まった量を盛れば、誰がやっても大きくは変わらない。そのやり方なら、続けられそうだった。
今はカレーだが、頭の中ではオムライスもスパゲティも作っていた。卵を焼く手間や、
麺をゆでる時間を考えると、すぐ同じようにはいかない。それでも、いつか店を増やせたら、
試してみたいものはいくつもある。
まずは、今のカレー屋を自分が休んでも開けられるようにする。それが先だった。
「楽食屋……」
声に出しかけて、口を閉じる。
名前の由来を聞かれたら、「気楽に食べてもらいたくて」と答えよう。その方が、
だいぶ感じがよかった。
「開業は九月ですね」
書類を見た職員に確認され、博之はうなずいた。
「はい。出すのが遅なってしまって」
「開業届は一か月以内ですので、次から手続きの期限は確認してくださいね」
「すみません」
身構えていたが、書類の確認はそれで進んだ。控えが返ってくるまで、
思ったほど時間はかからなかった。
屋号を書いたからといって、何かを試されるわけでもない。売れる見込みを聞かれることもなかった。
「帳簿をつけて、確定申告の準備もしておいてください」
「あ、それは。今年、申告の時期に二か月ほど、会場のアルバイトしてたんです。
用紙はよう見てました」
「じゃあ、今度はご自分の分ですね」
「そうなんですよ」
他人の用紙を案内していた時には、自分が売ったカレーをそこに書くことになるとは思わなかった。
「レシートを残して、毎月まとめて帳簿つけたらええんですよね」
「売上と経費は、できれば日々記録してください。後からだと分からなくなるものもありますから」
昨日買った牛乳が、店の分だったか下宿の分だったか、既に怪しい。博之は素直にうなずいた。
青色申告の説明も受けた。開業届とは別に申請が要り、九月に開業したなら、
その日から二か月以内だという。
「簿記は勉強されたことありますか」
「一応あります。複式簿記も。ただ、実際の店の帳簿はまだで」
試験なら取引の日付も金額も、問題文に全部書いてある。現実の取引は財布の中で丸まり、
買物袋の底に落ちていた。
「会計ソフトを使う方法もありますよ」
「弥生会計とかですか」
「そういったものですね。記帳の相談についても、こちらに案内があります」
渡された紙を、控えと重ねた。今年は店を始めたばかりだから適当でいい、
というわけにはいかないらしい。
青色の申請書も、その場で記入した。分からない欄を一つずつ尋ねると、職員は順に説明してくれた。
「まず、九月の分を整理してみます」
「ためないうちに、始めてくださいね」
「はい。頑張ります」
店に戻ると、入口の募集の紙が少し傾いていた。テープを貼り直し、夜の営業の準備を始める。
玉ねぎを切りながら、会計ソフトの値段を考えた。便利そうだが、まずは今あるノートで、
どこまでできるか見てからだ。
仕込みに区切りをつけ、手を洗ってカウンターに座る。菓子の空き箱を開けると、
レシートの束がふくらんで飛び出した。
「ためないうちに、か」
もう、そこそこためていた。
米、牛肉、玉ねぎ。洗剤。友達に払った店番代。家賃。
同じ日に買ったものを集め、大学ノートに日付を書いていく。
五十食売れた日の計算は、何度もした。けれど九月に実際いくら残ったのかは、
まだきちんと出していない。
売上の小銭は毎日数えた。次の仕入れもできた。家賃も払えた。ひとまず、一か月は回った。
その先を考えるには、この箱を空にするところからだった。
入口で、自転車の止まる音がした。
博之はノートにレシートを挟み、立ち上がった。




