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三坪のカレー屋から始めます。~二〇〇六年、大学四回生の博之は一杯三百八十円で成り上がる~  作者: メンヘラオジサン【監視アカウント】


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第七話 五万円、おめでとう 2006年9月4週目。

 九月の第四週。木曜の昼、博之は初めて客のいる店をあとにした。

「福神漬け少ななったら、冷蔵庫の上の段な」

「それ三回目。お前、もう行かな遅れるで」

 友達はエプロンの紐を腹の前で結び、博之が言い忘れていた水を先に客へ出した。

 任せたと言うたんは俺のほうやのに、見送られるのにずいぶん手間がかかった。

 久しぶりの大学では、教室の後ろ二列に見知った顔が固まっていた。四回生の後期ともなると、

 内定が出て、残るは卒論と取りやすい講義がいくつか、というやつが多い。久々に顔を合わせても、

 最初に聞くのは夏休みにどこへ行ったかで、その次が「で、四月からどこやったっけ」だった。

 博之が順番に答えを聞いていると、ゼミの先生が廊下から手招きした。去年、

 三回生のゼミでまとめて応募した論文が賞に選ばれたという。後期に入ったら

 本人に知らせてくれと連絡が来ていたらしい。

「賞金も出るで。五万円。あとで振込先書きに来てな」

「五万円もですか」

 我ながらえらいところで声が大きくなった。教室へ戻ると、もう「五万て何や」と

 席がひとつ空いていた。

「去年のゼミで出したやつ、賞くれるんやて」

「うわ、よかったやん。おめでとう」

「あの締切の日、昼飯食わんと表の数字直しとったやつか。あれ報われたなあ」

 覚えてくれていたのがうれしかった。賞金で何食わせてくれるんやと言われて、

 「カレーやったら店にあるで」と返すと、みんなが笑った。こういう輪の真ん中は

 わりと好きやった。自分が一言返せば、隣で黙っていたやつまで口を開く。

「けど博之、就職はうまいこといかんかったんやろ。せやからカレー屋出したんちゃうの」

 保険会社に決まったという同級生が、机に頬杖をついたまま言った。

「まあ、順番だけ見たらそうなるかな。店は前からやりたかってん。就職も横目で

 見ながらやったから、どっちも半端になったとこはあるけど。今はそこそこ人来てくれてるし、

 これはこれでありやと思てるよ」

「でもあれやろ。めっちゃ稼いでも月三十万がええとこやろ。俺らは四月に初任給もろて、

 そこから上がってくんやで」

 博之の頭に、大学ノートの十九万千二百円が浮かんだ。二十二日、毎日五十杯売って、

 家賃と木曜のバイト代を引いた数字だ。こいつの言う三十万より、今のところは少ない。

 なんで俺、わざわざ相手の言い分を補強する計算してるんやろ。

「博之、営業やりたかった言うてたやん。でもその腹やと、アメリカやったら昇進できへんらしいで。

 お前どないすんの」

 そいつの目が腹に下りたので、何人かがつられて同じところを見た。博之は机の下で、

 洗ったばかりのポロシャツの裾を引いた。いつもなら「ほな草津でよかったわ」くらいはすぐ出た。

 そのときは、口を開けたまま息だけが出た。

 ぽっちゃりしているのを自分から話の種にしたこともある。いじられて笑いが取れたら、

 それで得したように思う日もあった。ただ、たまに、こいつ俺になら何を言うてもええと思てるな、

 と感じることがある。今日は賞をもろた話をしていたはずなのに、みんなが最後に見たのは俺の腹か。

 そう思うと、さっきまであんなにうれしかった五万円の続きを、自分から話す気にもなれなかった。

 講義が始まった。隣の友達が途中でルーズリーフを一枚ちぎってくれた。博之が鞄から出したのは

 売上の大学ノートで、開いたページには「人参一キロ 二百円」とあった。いつもなら二人で笑う

 ところを、今日はその紙を受け取って、黙って日付を書いた。

 講義が終わり、廊下の突き当たりまで来たところで、友達が言った。

「お前、ようあそこでキレんかったな。あいつ、ちょっと言い過ぎやで」

「キレんかったいうか、何言おうかなと思てるうちに先生来た」

「あいつな、保険会社の最終面接で、ほか断ってくれるかって聞かれて、その場で電話したんやて。

 さっきからそれ、えらい得意そうにしゃべっとったわ。あんなん、一回くらい

 うまいこといかんかったらええのにな」

「いや、そこまでは思てへんよ」

 それはほんまやった。あいつの内定が取り消されたところで、俺のところに客が一人増えるわけでも

 ないし、さっきの言葉が聞く前に戻るわけでもない。ただ、次に会ったとき「保険会社決まって

 よかったな」と気持ちよう言えるかというと、今日のところは無理やった。

「ま、五万円はよかったやん。俺、あの表よう覚えてるで」

「うん。あれな、直したあと、もう一回間違い見つけてん」

「知らんかったわ、それ」

 ようやく少し笑えた。駐輪場で別れ、博之は草津駅のほうへ自転車をこいだ。下りに入って

 風がポロシャツの裾をふくらませると、また腹の話を思い出した。今になって「お前の会社、

 草津から通うのにアメリカ経由なんか」と、しょうもない返しが浮かんだ。あそこで

 それを言うてみんなが笑ったら、自分まで気が済んだやろか。

 信号で足をつくと、ポケットの携帯にメールが来ていた。

〈福神漬け足した。帰り急がんでええで〉

 三回も言うたからな。短く〈ありがとう〉と返し、携帯をしまった。賞の話は、

 店に着いたらこいつにも言おうと思った。五万円もらえるのがどれくらいうれしかったか、

 今日はまだ最後まで誰にもしゃべっていなかった。

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