第六話 今、どんな感じ? 2006年9月3週目。
九月、店を開けて十四日目。七枚目の百円玉を数えていたところで携帯が鳴って、
博之は八枚目も七枚目の上に重ねてしまった。もうええ。あとで最初から数えよ。
「もしもし、今ええ? カレー屋どんな感じ?」
昨夜も別のやつから同じことを聞かれた。大学はまだ夏休みで、晩飯を食い終わった九時、
十時になると、何人かが博之のことを思い出すらしかった。こっちは朝から玉ねぎを切っているので
曜日の感覚が怪しいが、電話してくる連中も大差はない。「今日、土曜やっけ」と聞いたら
「知らん」と返ってきたことがある。
「二週間やって、まあ一日四十五杯くらいやな」
「それ、ええん?」
「俺もそれを誰かに聞きたいねん」
大学ノートには十四日ぶん、日付と杯数が並んでいた。毎朝五十食を仕込んで、売り切ったら
おしまい。初めて鍋が空になった日は、看板をしまってからもやけに元気で、流しの下まで拭いた。
次の日は雨で、ガラス戸から見えるのは傘の縁ばかり。こっちが中から顔を見られへんのやから、
向こうも三百八十円の札なんか見てへんのやろ。夕方、まだ重たい鍋を両手で持ち上げて、
昨日のうちにこんなにきれいに掃除せんでもよかったな、と思った。
平日には作業着のおっちゃんが後輩を連れてくる。土日にはその二人がぱったり来なくなる代わりに、
平和堂の袋を提げた親子が丸椅子に並ぶ。
この前は子供の足が床に届かず、揺らすたびに靴のかかとがカウンターの板をこつこつ鳴らした。
いつものおっちゃんがいつもの席で飯を食べる音とは、ずいぶん違う昼だった。
「知ってるやつも来るで。この前、語学で一緒やったやつが、ほんまに店やっとるか
見に来た言うてな」
「ちゃんと食うてった?」
「食うた。しかも俺がお釣り渡すとこまで連れに写真撮らせとった。何が珍しいねん」
「そら珍しいやろ。俺も見たいわ、お前が『いらっしゃいませ』言うとこ」
そこは見に来んでええ、と言いながら、博之は少し笑った。昼をだいぶ回ってから知った顔が
のぞくと、実のところうれしい。誰もいない店で六つの丸椅子を眺めている午後は長いのだ。
「で、卒業したらそのままやるん?」
「それはまだや。二軒、三軒って増やせたらおもろいとは思うけど。とりあえず、
これより下の待遇には戻りたないな」
「待遇って。お前、自分で自分になんぼ払てんの?」
そこを突かれると弱い。十四日、平均四十五杯でざっと六百三十杯。売上は二十四万円近い。
仕込みと光熱費と予備の金を一日七千円ずつよけると、十四日で残るのは十四万円ほど。
そこから店の家賃も出ていく。何より、この二週間は一日も休んでいない。
「金額だけやったら、まだよう分からん。ただ俺、バイトいくつかやったやん。
個別指導の塾、覚えてる?」
「お前んち遊びに行ったら、中学の数学やっとったな」
「あれや。あの子、前の週に一次関数でつまずいとったから、別の問題ひとつ作って持ってったろ
思てな。教えるんは好きやったで。けど給料は一コマいくらやろ。俺が下宿でグラフ描いてる時間、
あのコマに入ってへんのよ」
草津のヤマダ電機で倉庫に入ったときは、その点、家まで持ち帰る仕事はなかった。
ただ荷物は重かった。二人で持つ箱は、相手がせーので上げる瞬間にこっちも腰を入れなあかん。
荷が途切れれば一息つけるし、そのへんの力の抜き方は少し覚えたが、帰って靴下を脱ぐのが
おっくうな晩があった。
「いちばん早よ辞めたん、ブックオフやったっけ」
「ひと月。俺が入ったとき、時給六百八十円やった。初日にな、お客さんに買取の受付どこですかって
聞かれて、店の前で指さして『あちらです』言うたんよ。そしたら、そのお客さんが
まだ横におるのに、そこまでご案内してって怒られてな」
案内したらよかったんやけど、と博之は付け足した。今でも妙にはっきり覚えているのは、
注意した人の顔より、客のほうが小声で「あ、もう分かりますから」と自分に気を遣ったことである。
「この店が立ち行かんようになって、また六百円台で、あんなふうに人の顔色見ながら働くんは
嫌やなあ、ていう話や」
「でも今日かて、朝から今までずっと店やろ。そっちのほうが長いやん」
「長いで。ただ、三時に誰もおらんかったら、俺、ぼーっとしててもええねん」
昨日など、水のポットも皿も片づいて、十分ばかり向かいの駐輪場を見ていた。買ったばかりの
座布団を自転車の前籠にどう収めるか、おばちゃんが三通りも試していた。
勤め先で十分立っていたら、何か仕事を探さな、と落ち着かんかったと思う。ここでは、
次に戸が開いたときにすぐ飯が出せる。それで十分な時間もある。
「明日、下宿のパソコン持ってこよかな。卒論の材料、一段落くらい書けるやろ」
「座布団の話を?」
「誰が経営学部の卒論に座布団の畳み方出すねん」
二人で笑った。春からも店をやるのかとは、もう聞かれなかった。
電話を切って、博之は百円玉を一枚目から数え直した。次の二週間は、休みを入れてみよう。
木曜には人にも立ってもらう。それでも家賃を払えて、下宿に帰って飯が食えて、
卒論も進むのか。二軒目の話をする前に、自分がここで暮らしていける線を一本、
見つけておきたかった。
釣り銭をしまい、明日持ってくるものを携帯の自分宛てメールに打った。
〈パソコン。電源のコード。〉下宿まで自転車をこいだら、たぶんコードのほうは忘れる。




