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三坪のカレー屋から始めます。~二〇〇六年、大学四回生の博之は一杯三百八十円で成り上がる~  作者: メンヘラオジサン【監視アカウント】


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第三十三話 七人雇ってんねんで 2007年1月3週目。

 一月の三週目、博之は卒論を締め切りの数日前に出した。受け取ってもらったあとも、

しばらく鞄の中を探っていた。ここ何日か、家を出るたびに原稿があるか確かめていたせいで、

手が勝手に動く。

「出したん、お前。俺、あと八百字やねん」

 廊下の窓際で、同じゼミの友達がノートパソコンを膝に載せていた。電源の残りを気にして、

 画面をえらい暗くしている。

「八百やったら、自分で面白いと思ったとこ、もうちょい詳し書いたらええやん」

「お前、何でそんな余裕あんねん」

「余裕なかったから先に出してん。最終日の朝に店の子から電話あったら、俺どっち行ったらええの」

 一万五千字は超えた。朝七時に六席で何杯出せたか、持ち帰りを始めてからどう変わったか、

 自分の大学ノートをめくれば書く材料はあった。むしろ最後まで困ったのは、卒論に「おばちゃん」と

 何度も書くわけにいかず、「朝の時間帯を担当する従業員」と直すたび、誰のことを書いているのか

 自分で分からなくなることだった。


 あとは先生が読んでどう思うかや。まあ、いきなり落とされるほどひどくはないやろう。

 講義も出席はつけたし、可ぐらいはもらえると思う。ひとつ落としても卒業に足りるようには

 履修した。そこまで指を折って確かめて、博之はようやく、今日の昼は学食でゆっくり食えるなと

 思った。

 きつねうどんを持って座ると、向かいの友達が聞いた。


「そっちは春からも草津か?」

「うん。南草津でもう一軒借りよかなと思て。まだ大家さんと条件詰めなあかんけど」

「ほな卒業の時、一回ぐらい飯食いに行けるな。草津やと、わざわざ電車降りなあかんかったもん」

「おう。それまで潰れんようにやるわ」

 隣で唐揚げを食っていた同級生が、箸を持ったまま口を挟んだ。

「二軒目か。これでようやく、お前も俺らに並ぶな」

 秋やったら笑って済ませて、帰りの自転車で腹を立てていたと思う。

 今日はうどんが伸びる方が気になった。

「並ぶて、別に同じ土俵で勝負してへんやん。こっち、もうバイト七人雇ってんねんで」

 同級生の箸が止まった。向かいの友達まで顔を上げた。

「七人? あの店、六人しか座れへんのやろ」

「いっぺんに来たら、俺が外で鍋持って立たなあかんわ。朝だけの人も、週に一回の子も入れて七人や」

「ほんで、なんぼ売れんの?」

「先月で六十万弱。けど一杯三百八十円やで。肉屋にも八百屋にも払うし、バイト代に家賃やろ。

 俺に残ったんは十五万ぐらい」

「へえ。お前、ほんまに店やってたんやな」

「九月からずっとそう言うてるやん」


 向かいの友達が笑った。隣では「まあ、うちはボーナスもあるしな」と小さい声がした。

 博之は七味の瓶を振った。穴が詰まっていたらしく、底を叩いたら思いのほかどっさり出た。

 七人、と口に出した時は、ちょっと気持ちがよかった。ところが自転車で草津へ戻りながら

 数え直すと、朝に入れる人の顔は次々浮かぶのに、今夜の玉ねぎを頼める人となると、

 すぐには浮かばん。南草津の鍵をもらえた晩も、俺は草津で玉ねぎ切ってるんやろか。

 店に着くと、リーダーが月末までのシフトを書き写していた。博之の顔を見るなり、

 自分の右手をひょいと挙げた。

「店長、つねじさんな。包丁、ほんまに持ったことないんやて」

「ほんまに、って」

「人参一本渡したら、皮むくとこから見といてえな言わはんの。見てたげたいけど、

 朝の残り五杯いう時に、うちも横にはついてられへんやろ」

 持ち帰りはどうです、と聞くと、リーダーは台の下から紙袋を出してきた。

「最初、容器持ったまま袋に入れようとして、手ぇ抜けんようになってな。

 今は袋を先にこう開いて置いてはる。ゆっくりやけど、お客さんに渡すとこまでやってくれるで。

 あの人、毎朝買いに来てた側やから、スプーンが要る人の顔よう覚えてるわ」

 困るのは八時半を回って、売りながら昼の仕込みに移る時だった。この狭さで、

 まな板の前に二人並ぶ。後ろを通るのに一人が腹をへこませる。その間にも入口で

 四百円握った人が待っている。


「分かりました。次、僕がつねじさんと朝入ります。持ち帰りを最後までお願いして、

 その間に僕がどこまで切れるか、一回見ますわ。本人にも何やったらやりやすいか聞きたいし」

「頼むわ。あの人も、帰りしなに『今日は何分ぐらい遅かった?』て、うちに聞かはるねん」

「そんなん気にしてはったんですか」

「せやで。そうは見えへんやろ」


 博之は、壁の募集の紙を外した。「時間応相談」の下に少し余白がある。

 そこに「夕方、翌朝の野菜を切ってくれる方」と書き足して、表から読めるように貼り直した。

 学食で七人と聞いた時の、あいつの顔を思い出した。今度また何人やと聞かれたら、

 八人やと言える方がええのか、つねじさんと二人で朝を回せたでと言える方がええのか。

 考えていたら、リーダーが鉛筆のお尻でシフト表を叩いた。


「ほんで店長、どの朝に来てくれんの。そこ書いてくれんと、うち帰られへんで」

 博之は鞄を下ろした。卒論を出したおかげで、今週は木曜の朝が空いていた。

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