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三坪のカレー屋から始めます。~二〇〇六年、大学四回生の博之は一杯三百八十円で成り上がる~  作者: メンヘラオジサン【監視アカウント】


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第三十二話 朝の五分を買う 2007年1月2週目。南草津の空き店舗を探す。

「兄ちゃん、ここに丸してくれた西友の裏な。あれ、空いてへんで」


 年明け最初の金曜日。昼の山を越えて南草津まで出てきた博之は、不動産屋のカウンターで、

 さっそく一番大きな丸を消すことになった。

「あそこ、だいぶ前からシャッター下りてますよ。貸店舗の紙、剝がした跡もあるし」

「せやから、みんな聞きに来はるんよ。貸すのか身内が使うのか、家主さんもよう決めんでな。

 鍵も預かってへん。あてにして待ってたら、兄ちゃん先に卒業してまうで」

 大学ノートには、西友の角を曲がって駅に向かう矢印まで引いてあった。

 朝ならこっち側を歩く、信号を渡ったあとやから時間も読みやすい。正月に電車を

 一本見送って考えた立地である。消しゴムをかけたら、矢印だけが残った。


「パチンコ屋の横は空いてる。あれやったら四万ぐらいで話できるわ。

 もう一つ、兄ちゃんの知らんのが駅から五分ほどのとこにある。夕方の仕込み、何時からや」

「五時には草津に戻りたいです」

「ほな両方見よか。うちもそこ、正月明けてから戸ぉ開けてへんし」


 四万円の店は、三軒並んだ古い建物の端にあった。引き戸を開けると、カウンターの中に、

 前の店が置いていった丸椅子が三つ重ねてあった。草津の楽食屋より奥行きがある。

 ここなら冷蔵庫を開けた拍子に、後ろで皿を洗っている人の尻に扉を当てずに済む。

「ええなあ、四万」

 口に出すと、いっそう安く思えた。今の店より月二万も安い。立命館に通う学生に

 三百八十円は喜ばれるやろうし、パチンコ屋から昼飯に出てくる人もいる。ところが、

 表に出て駅の方を見たら、自分が思っていたより歩いてきたことが分かった。途中に、

 どっと人が出てきそうなマンションも見当たらない。

「朝七時にここで米炊いて、誰が匂い嗅いでくれますかね」

「俺に聞くんかい。カレー売ったことあるん、兄ちゃんだけやで」


 二人で笑って駅へ戻った。もう一軒の鍵を開けてもらうと、こちらは笑うほど狭かった。

 流しの前に立って手を伸ばせばコンロのつまみに届く。六席取れるかどうか。けれど、

 カウンターを拭いた白い指先には埃が少し付いただけで、天板にべたつきもなかった。

 草津の店で開業前、油をこそげ落とすのに使い潰したスポンジを思い出した。

「こっちは七万。直さんでええ分、ちょっと高い」

「六万まで、言うてましたやん」

「せやから四万の方もちゃんと見せたやろ」

 博之は入口に立った。駅へ向かう人が一人、目の前を横切る。戸を半分開けるだけで

 「持ち帰り一つ」と声をかけられる距離だった。草津で朝の弁当を買うおっちゃんの中には、

 財布から四百円を出して握ったまま来る人がいる。あのおっちゃんに、カレーのために

 五分余計に歩いてくれと言えるやろか。たぶん自分でも歩かん。


「おっちゃん。僕、こっちで今決める言うたら、ちょっと安なりません?」

「お、そこは聞くんやな。六万五千で借りてくれるんやったら、大家さんに話してもええよ」

「その五千円、大きいですよ。うち何杯盛らなあかんか」

「せやけど、さっきのとこ、四万やで。そっちはもうええの?」

「はい。朝やるんやったら、こっちですわ」

 自分で答えてから、腹の中が少し冷えた。四万の店との差は毎月二万五千円。

 駅へ歩く人が本当に足を止めるか、まだ一杯も売ってへんのに、それだけ払うと言うたのだ。

「冷蔵庫は要るな。あと鍋やら炊飯器やら、兄ちゃん、自分で要るもん分かるやろ。

 中古で揃えたらどないや。敷金礼金をどうするかは先方次第やけど、店開けるとこまで丸々三十万、

 そのつもりで条件聞いたろか。今から借りてくれるんやったら、大家さんにもええ話や」

「それやったら助かります。あと一つ。あかんかったら三か月ぐらいで出るかもしれません。

 そこの条件も聞いてもらえます?」

「あかんて、兄ちゃん。今決める言うてから、出ていく話までが早いなあ」

 博之は笑ったものの、そこは引っ込めなかった。手元にある七十三万から三十万出したら、

 残るのは四十三万。四月にはその金から自分の飯代も家賃も出ていく。

 正月に親父に言われたことを、こんなところで律儀に勘定しているのが、ちょっとしゃくやった。

「草津では、僕がおらん朝でも四十五食出る日があるんです。せやから、ここでもやってみたい。

 一月から三月までに、お客さんついてくれたら、その先も借りたいです」

「なるほどな。ほな、家賃六万五千、最初に出せるんが三十万。途中で出る時になんぼかかるか。

 そこまで聞いて、返事するわ」

「お願いします」

「で、電話、何時やったら出られるの」

「昼ど真ん中にかかってきたら、たぶん玉ねぎ切ってます」

「ほな二時半や。来週な」

 手帳に「カレー、二時半」と書くのが逆さに見えた。名前も書いといてや、と思ったけど、

 今さら言うのもおかしくて黙った。

 帰りに一人で、もう一度だけ店の前から駅の改札まで歩いた。携帯を開くと四分と少し。

 途中で信号に引っかからへんのはありがたい。来週は朝七時に、反対から歩いてみよう。

 改札へ急ぐ人の顔が、店の戸に向いているかどうかも見たい。

 草津に戻ると、五時までまだ十分あった。博之は大学ノートの七万円に細い線を引き、

 横に「六万五千円?」と書いた。はてなは大きめにしといた。人に頼んだ値引きを、

 もう儲かった金に入れるほど気は早くない。

 冷蔵庫を開ける。後ろで皿を並べていた匠が、扉の当たる寸前に、慣れた具合に尻を引いた。


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