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三坪のカレー屋から始めます。~二〇〇六年、大学四回生の博之は一杯三百八十円で成り上がる~  作者: メンヘラオジサン【監視アカウント】


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第三十話 春からどこ行くん 2007年正月休みに地元の集まりに出る

 正月二日の朝、博之の携帯には、小学校と中学校と高校、それぞれ別の幹事の名前が並んでいた。

 大学を出たら東京へ行くやつもおるし、今のうちに一遍、というのが、どの案内にも

 だいたい同じように書いてあった。

 小学校の幹事にだけ、〈今回はやめとくわ。声かけてくれてありがとう〉と返した。

 その小学校に通ったのは六年生の一年きりだった。転校したばかりで、机を寄せて

 給食を食べるとき、自分の机だけ輪に入れてもらえなかった。あのとき笑った子が誰で、

 黙って牛乳を飲んでいた子が誰だったか、もう顔もよう分けられん。わざわざ会いに行って

 確かめたいことでもなかった。幹事からは〈そっか、またな〉と返ってきた。それで済んで、

 ほっとした。

 中学の集まりは成人式以来やった。店の座敷へ顔を出した途端、「博之、おまえ靴でかいの

 変わらんな」と言われた。顔を見るより先に、脱いだ靴で分かったらしい。そんなことで

 人を覚えとるやつがおるのか。来てよかったと、まずそこで思った。

 高卒で松阪の市役所に入った同級生が、焼き鳥の串を皿から外しながら言った。

「春からまた大卒の新人来るんさ。去年の人なんか、電話取って相手の名前聞くの忘れて、

 折り返します言うて切ったんやで。大学出ても使えへんで」

「おまえは高卒一年目から聞けたんか」

「俺は折り返します言わずに、電話持ったまま隣に助け求めた」

 そっちのほうが賢いやろ、と胸を張るので、みんなで笑った。博之も、

 初めて野菜の配達を頼んだ日に、肝心の店の住所を言い忘れて八百屋から折り返しが来たのを

 思い出した。


「俺は四月から百五銀行。どう、ちょっとすごいやろ」

 向かいのやつは、こっちが褒めるまで待つ気もなかった。「すごいすごい」「ほな今日おごって」

 「まだ一円ももろてへんわ」とひとしきりやって、ようやく乾杯になった。もう後輩がいるやつと、

 四月に初めて名刺をもらうやつとが、同じ年の顔でビールを飲んでいる。近況報告というより、

 人生の途中で一回集まって、今ここにおるでと番号を取ってるような晩やった。

 翌晩の高校の集まりでは、上着を脱ぐより先に「春からどこ行くん」と聞こえてきた。

 受験の頃は、模試が返ると「どうやった」のひと言で通じた仲やった。博之と

 似たところを受けたやつも、第一志望に落ちて滑り止めの大学へ行ったやつもいる。

 あれから四年たって、今日の質問には会社の名前で答えるらしい。


「私、地元の銀行。一般職やから、松阪から通えると思う」

「ええやん。私なんか配属まだ分からんのに、親がもう布団買うてきたで」

「みずほ行くんやって? あんた、東京行ったら泊めてな」

「せやから東京かどうかも知らんて!」


 きゃあきゃあ言われてる本人も、布団ぐらいは敷いたるわ、とまんざらでもなさそうだった。

 羨ましかった。勤め先をひと言告げただけで、まだ住むかも分からん東京の部屋に、

 泊まり客まで決まる。

「博之は? 立命やったよな」

「俺、カレー屋やってんねん。滋賀の草津で」

「ああ、飲食か。どこの会社?」

「いや、俺の店。三坪で、六人座ったらいっぱいやけど」


 手羽先を取ろうとしていた箸が、皿の上でちょっと止まった。

「立命館まで行って、カレー屋かあ」

 言うた本人は、手羽先を取って普通に食べた。隣の子が「辛いやつ?」と聞いてくれたので、

 「いや、家で食うぐらいのやつ」と答えた。そこで店の話は終わった。

 朝の四十五食も、年末に数えた七十三万円も、今なら言えた。けど自分からその二つを足した途端、

 頼まれもせんのに弁明を始めたみたいになる。博之はビールを飲んだ。だいぶぬるくなっていた。


 帰り際、廊下で昔の席が隣やった子に呼び止められた。何かと思ったら、「古文の先生、

 考え事するときチョークで尻かく人おったやん。あの先生の名前、思い出せやんのさ」と言う。

 二人で散々考えて、名前のほうはとうとう出てこんかった。右の尻だけ白かったことは

 二人とも覚えていた。腹を抱えて笑ったのは、その晩それが初めてやった。

 タクシーで家の近くの曲がり角を伝え、背もたれに体を預けた。行けば同級生みんなの

 その後が分かるような気がしていたけど、会えたのは来たやつだけや。内定先が決まって、

 人に話したいことがある正月は、こういう席にも顔を出しやすいんやろう。自分かて店を

 九月で畳んでたら、今日、行ったやろか。小学校の誘いを断ったときみたいに、

 短いメール一本で済ませていた気もする。


 来年も呼ばれたら行きたい。「カレー屋かあ」と言われて、ビールで口を塞がんでもええぐらいには

 なっていたい。二号店ができたと言えたら、そら気分はええ。けど、あいつらの顔を思い浮かべて

 南草津の物件を借りるのも、だいぶ間の抜けた話や。


 木曜に開けるか、朝は何食炊くか、誰に鍵を預けるか。草津に戻ったら、どれも自分で決められる。

 四月一日になっても辞令は来んし、待っていたところで鍋の一つも増えへん。せっかくやから、

 やれるところまでやってみたい。勤め人になる友達と自分とで、来年、話の合うところが

 どのくらい残るのかは、まだ分からなかった。

「お客さん、この角でしたね」

「はい。ここで大丈夫です」

 料金を払って降りたところで、古文の先生の名字がふっと出てきた。門を開ける前に、

 さっきの子にメールを打った。〈思い出したで。森下先生や〉。返事はすぐ来た。〈それや! 

 今日いちばんすっきりしたわ〉

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