第二十六話 三枚の封筒 2006年12月4週目。今年の営業は終了。
十二月第四週の月曜、朝六時を少し回った頃、下宿の机で携帯が鳴った。
博之は卒論の表を直していて、たまたま起きていた。
「店長、悪い。起きて立ってみたんやけど、今日ちょっとあかんわ」
いつもなら「寝てたやろ」とひと言つく人の声が、そこで切れた。
「分かりました。鍵、僕も持ってますし。今日はこっちで開けます」
「ももちゃん、外で待つと寒いさかい」
「はいはい。僕のほうが先に着きますって」
そう言った手前、必死で自転車をこいだ。顔は冷たいのに、
店に着いて鍵を回す頃には背中が汗ばんでいた。ライトを消しているところへ、
ももこさんの自転車が角を曲がってきた。
「あれ、今日は店長ですか」
「リーダーお休みです。僕、いまから朝番なんですけど、最近のやり方と
違うことしたら教えてもらえます?」
冗談半分で言ったら、さっそく教えられた。持ち帰りのスプーンは、今は袋を開けて
容器の横に並べておくのだそうだ。博之が前の場所へ取りに行くより、
ももこさんの手のほうが早かった。
七時に戸を開けた。店で一皿、持ち帰りが二つ。最初の三人を送り出した頃には息も整っていた。
いつも窓際に座るお客さんに「兄ちゃん、今日はえらい早いな」と言われた。
九月からずっと自分の店なのに、朝に来ると珍しがられる。福神漬けを足しながら、ちょっと笑った。
リーダーが休んだのはその一日だけで、あとは年内、店を開け損なうこともなかった。
はるさんとサキさんが組む水曜も、十時に引き継ぎに行けば、朝の売上と残ったご飯の量を
二人のどちらに聞いても分かる。朝の欄に四人の名前を書けるようになったのは、
やっぱり大きかった。
ただ、月曜の電話が昼に鳴っていたらどうやったやろう。あるいは自分が夕方に熱を出したら、
誰に鍵を渡して、どの鍋を頼めばええのか。火曜の晩に匠の友達が仕込んだ十五食は、
いつもの味にできていた。けれど、あの子が入れる曜日は時間割にちゃんと書いてある。
こっちの熱まで火曜に合わせて出るわけやない。
博之は昼と晩の間に時間を作って、予約してあったインフルエンザの予防接種を受けに行った。
下宿に戻るほどの間もなく店へ帰り、シャツの袖を下ろしながら晩の米を量った。
先週のシフト表を眺めたときは、ずいぶん人が増えたと思ったものだ。その表を書いた
本人が朝っぱらから自転車を飛ばして、ようやく定刻に開いた日がある。うまいこと
渡り切ったけど、足元はまだ綱一本やな、と思った。
第四週で今年の営業は切り上げることにした。残りの数日で十二月を締め、
九月からの売上と手残りを月ごとに並べて、年末のうちに信用金庫へ持っていく。
南草津の物件の話もしたいし、人を増やした十二月に、十月、十一月と比べていくら残ったか、
自分でも先に見ておきたい。それが済んだら松阪に帰る。母親には〈年末帰る。晩ご飯いる〉
とだけメールを打った。店の話まで携帯で打ち始めたら、晩の営業が始まってしまう。
年内最後の勤務は、人によって曜日が違った。博之は釣り銭用の千円札を両替するとき、
自分の財布からも六千円を崩して、白い封筒を三枚用意しておいた。
「匠くん、これ。夜の子、紹介してくれたお礼」
「あ、ほんまにくれるんですか。あいつ、まだひと鍋ですけど」
「そのひと鍋の間に、僕、帳簿つけられたで」
「ほな、遠慮なく。来年、就活の日ぃ分かったら早めに言います」
はるさんは封筒をエプロンのポケットに入れたところで「あ、これ店に置いて帰るやつや」と
気づいて、もう一度出した。サキさんが横から鞄を取って渡してくれた。
「来年もよろしくお願いします。朝、寒なりますし」
「店長もな。うちら十時に帰るけど、あんた、そのあと長いんやから」
金曜の朝、リーダーにも最後の一枚を渡した。表には鉛筆で「紹介のお礼 二千円」と書いてある。
「値切らんかったんや」
「千円て言うたんは僕で、倍にしたんはそっちでしょ」
「そうやった。ほな、ももちゃんとお茶でも飲むわ。月曜、助かったしな」
あの日、自転車を飛ばしたのは僕ですけど、と口まで出かけて引っ込めた。
スプーンの場所を教わったほうが言うことでもない。
土曜の最後のお客さんを見送って、博之は入口に年始まで休む旨の紙を貼った。
床を拭き、流しの水気を取る。いつもの癖で翌朝の分の米を量りかけて、計量カップを
空のまま伏せた。明日の仕込みは要らんのや。そう気づいたら、ようやく今年の営業が
終わった気がした。
大学ノートの十二月のページには、紹介のお礼、三人分六千円。人数も金額も合っている。
その下に書く月の合計は、明日の自分に任せた。レシートの封筒を鞄に入れ、店の電気を消した。
年内にもう一度開けるのは、この店の戸より先に、信金さんに持っていくあの帳面や。




