第二十一話 近所のカレー屋 商工会議所への加入と近所の八百屋との付き合い。2006年11月4週目。
十一月第四週、博之は自転車の前籠に入れた玉ねぎの袋を見下ろしていた。
横には人参。ハンドルに掛けるつもりだった袋は、重そうなのでやめた。
これを店まで運び、また米や肉を買いに出る。
「買い物だけで、結構時間食うな」
作る量が増えれば、買う量も増える。当たり前なのに、カレーが何食売れるかを
計算している時には、ここまで頭が回っていなかった。
近くには商店街があり、八百屋もある。
いつも使う野菜をまとめて頼み、店まで持ってきてもらえたら随分助かるはずだった。
それと、もう一つ。
博之は商工会議所に入ることを考えていた。
この辺りで店を続けるつもりなら、近所で商売をしている人のことも、
少しは知っておいた方がいい。空き店舗の話が聞けるかもしれないし、自分の知らないことを
相談できる相手も増えるだろう。
いつまでも、大学の友達と客だけが知っている店、というのも心細かった。
木曜日、授業の合間を使って、博之は商工会議所を訪ねた。
入会について聞きたいと伝えると、職員が席へ案内してくれた。
「どういったご商売ですか」
「カレー屋です。アル・プラザの向かいで、楽食屋いう名前でやってます」
職員が顔を上げた。
「ああ、三百八十円の?」
「え、ご存じなんですか」
「前を通りますから。最近、朝も開けておられますよね」
博之は思わず背筋を伸ばした。
店の前を通った人が、全部カレーを食べていくわけではない。それでも、
看板を見て覚えている人はいるのだ。
「まだ学生で、九月から始めたばっかりなんですけど」
「そうでしたか。では、今は大学と両方で」
「はい。卒論もあるんで、木曜は休みにしてます」
入会の説明を受け、渡された用紙に住所と屋号を書く。
事業内容の欄には、カレー店、と書いた。書いてしまえばそれだけなのに、
ほかの店と同じように名前を載せるのだと思うと、少し落ち着かなかった。
「イベントの時なんかも、出店していただけたらいいですね。カレーなら食べやすいですし」
博之は顔を上げ、苦笑いした。
「いや、それは一年続いたらですね。今はまだ、あっぷあっぷですよ」
「そうですか」
「店の朝昼の分作るだけでも、途中で足らんようになって。外で売る分まで作ったら、
どこ置こうってなります」
冷蔵庫のことを思い出した。
イベントで売れるのは面白そうだが、今の店を閉めてまで行くのか、
人をどうするのか、何も決められない。
「でも、機会があればお願いします。落ち着いたら、やってみたいです」
「では、またご案内しますね」
断ったというより、先の予定を一つ預けてきたような気分だった。
八百屋には、別の日の昼過ぎに顔を出した。
客が途切れたところを見計らい、博之は店主に声をかけた。
「ちょっと、仕入れの相談してもいいですか」
カレー屋をやっていることを伝え、大学ノートを開く。
玉ねぎ、人参。いつもどれぐらい使うかを書いたページだった。
「毎日これだけ?」
「営業する日は、大体です。朝やる日は、もうちょっと増えます」
「ほう。よう使うなあ」
「それで、まとめてお願いしたら、配達ってしてもらえるんでしょうか」
店主は店の場所を聞き、すぐにうなずいた。
「そこやったら近いやないか。これだけ買うてくれるんやったら、配達くらいしたるわ」
あまりにあっさり言われて、博之の方が聞き返した。
「いいんですか」
「ええよ。毎回ちょっとずつより、何日か分まとめて言うてくれたら助かるけどな」
「冷蔵庫が小さいんで、その辺、相談させてもらえたら」
「玉ねぎと人参で置き方も違うしな。無理に買わんでも、使う分からでええ」
値段と量、注文するタイミングを相談した。
何でもスーパーより安くなるという話ではなかったが、買いに出て、運んで、
店へ戻る時間を考えれば、頼む意味はあった。
「ほな、最初はこの分で」
「はい。ありがとうございます。続くように頑張ります」
博之はノートを閉じ、頭を下げた。
帰り際にも、よろしくお願いします、ともう一度言った。
店へ戻ると、リーダーのおばちゃんが入口のところにいた。
「あんた、さっき八百屋で、よう頭下げとったな」
「見てたんですか」
「買い物帰りに。そんな気ぃ使わんでもええのに」
「いや、持ってきてもらえることになったんで」
「向こうかて売れるんやから、うれしいやろ」
博之は少し笑った。
そう言われれば、そうだった。
「なんか、お願いする側やと思うと、つい」
「ちゃんと注文して、ちゃんと払ったらええねん。お客さんやで、あんたも」
仕入れ先にとっては、自分も客なのだ。
分かっていたつもりなのに、今まで買い物をする時とは少し違って聞こえた。
翌日、店先に野菜の箱が届いた。
店主は中を見せ、伝票を差し出した。
「こんな感じでええか」
「はい、助かります」
「また減る前に言うてな」
博之は礼を言い、今度は一度だけ頭を下げた。
箱を持ち上げると、見慣れた玉ねぎの重みが腕にかかった。
いつもなら、これを買いに行くところから一日が始まる。その時間で今日は、
昼の下準備を一つ先に進められる。
伝票を領収書の封筒へ入れようとして、いったん手を止めた。
宛名には、楽食屋様、と書いてあった。
博之は折らずにノートへ挟んだ。
向かいの店も、通りの八百屋も、もう知らない店ばかりではなかった。




