第二十話 冷蔵庫の中の席 11月3週目。バイトも入れたが昼の仕込み量や朝を考えたら冷蔵庫の空きが足らない
十一月第三週の水曜日、博之は六時半に店の鍵を開けた。
少し遅れて、自転車を押したはるさんが来た。
「おはよう。今日、私と店長やね」
「はい。金曜に教わった通り、やってみてもらえますか」
「忘れてたら言うてな。紙は持ってきた」
鞄から出したコピーは、透明な袋に入っていた。金曜日に濡れたと言っていたので、
家にあったものに挟んできたらしい。
端には、リーダーのおばちゃんに教わったことが細かく書き込まれている。
はるさんは、分からないことをそのまま聞いてくれた。
「このお玉、すり切りで数えるん?」
「そこ、分かりにくいですね。一回、皿によそって見てもらいます?」
「うん。その方が覚えやすいわ」
できるふりをしないし、聞き直す時も変に遠慮しない。
博之も、説明が悪かったと思えば言い直せた。話しやすいというだけで、
朝の狭い厨房が随分楽になる。
初めて開ける水曜日だったが、七時を過ぎると客が来た。
「今日もやってんねんな」
「水曜も始めたんです。よろしくお願いします」
前を通りかかった客が、そのまま椅子に座った。
持ち帰りも出た。はるさんは容器に蓋をしてから、袋に入れる前にもう一度、端を指で確かめた。
朝が終わる頃には、博之は昼に使う玉ねぎを切り始めていた。
売れるのはありがたい。けれど、朝の鍋が空になるたびに、次の鍋を急いで用意することになる。
「休む間、ないなあ」
「昼までに三十食作っとかんと、間に合わへんのです」
しかも最近は、その三十食だけでは心もとない。
昼の途中で残りを見て、追加の仕込みにかかる。客が来れば火を見ながら盛り付け、
戻って野菜を切る。その間に持ち帰りが二つ入ると、どこまでやったのか一瞬分からなくなった。
金曜には、たくみが昼の手伝いに来た。
友達が紹介してくれた三回生で、最初に会った時から、受け答えに妙な気負いがなかった。
「これ、持ち帰りの袋、先に開いといた方が楽っすね」
「そうやな。五枚ぐらい用意しといてもらえる?」
「はい。全部開いたら邪魔ですもんね」
言われた通りにするだけでもなく、かといって勝手に何もかも変えるわけでもない。
思いついたことを一度口に出してくれるので、博之も頼みやすかった。
客足が引いたところで、たくみが言った。
「僕、これから就活あるんで、説明会とかで抜けてもらう日、あるかもしれないです」
「それはええよ。分かった時に早めに言うてくれたら」
「すみません。あと、友達にも話してみます。割ええんやったら、やりたいってやつおると思うんで」
「割ええかどうかは、今日働いてから判断して」
「今んとこ、店長に怒鳴られへんだけでもええっすよ」
博之は笑った。
自分も昔のバイトで、時給以外のことで辞めたことがある。金が高ければ何でも
我慢できるわけではないし、気が楽でも忙しすぎれば続かない。
「困ったら、先に言うてな。僕もまだ、どれぐらい頼めるか分かってへんから」
たくみに会計を任せ、追加の鍋に向かう。
一人いるだけで、仕込みの手を止める回数が減った。けれど、昼に作り足さなければならないこと
自体は変わらない。
夜は、朝や昼ほど慌ただしくなかった。
ここで少し多めに作ればいい。翌朝に営業する日は、夜のうちに朝の分まで用意しておけば、
来た人が温めて出せる。
そう考えると簡単なのに、冷蔵庫を開けると話が変わった。
肉の置き場所がいる。
切った野菜も入れたい。
朝用のカレーを浅い容器に分けて冷やし、収めようとすると、棚が埋まる。
博之は一つの容器を持ち上げ、右へ動かし、結局もとの場所に戻した。
「客席より、こっちの席が足らんな」
店の六席は客が帰れば空く。
冷蔵庫の中は、翌朝まで誰もどいてくれない。
「大きいの買わへんの?」
帰り際のはるさんに聞かれ、博之は扉を閉めた。
「欲しいです。めっちゃ欲しいです」
「そら、これやと入らんわ」
「でも、高いんですよねえ」
中古ならどうだろうと、空いた時間に調べてみた。
本体の値段を見て、これぐらいならと思うものはあった。けれど、
寸法を見ると今の冷蔵庫よりずっと奥行きがある。ここへ置いたら、二人で立った時に
通れるだろうか。
運んでもらう費用も、古い方をどうするかも考えなければならない。
何より、これからも毎朝同じだけ売れるのか、まだ読めなかった。
大きな冷蔵庫があれば、たくさん作れる。
たくさん作れるからといって、その分売れるわけではない。
せっかく信用金庫に預けた三十万円を思い出す。通帳にあると安心するのに、
店の中を見ると使いたいところばかり見つかる。
「買うても、空気冷やしてたらしゃあないしな」
博之は大学ノートに、朝の仕込み量と残った数を書く欄を増やした。何曜日の夜に、
どれぐらい冷蔵庫が埋まるのかも残しておくことにした。
はるさんが朝に立ち、たくみが昼の会計をしてくれる。
できることは増えてきた。そのたびに、今度は別の足りないものが見える。
閉店前、博之は翌朝の分を収め、冷蔵庫の扉をそっと押した。
ちゃんと閉まったのを確かめてから、取っ手を離す。
「もうちょっとだけ、頼むわ」
買い替えの候補を書いた紙は、捨てずにノートへ挟んだ。




