第二話 お金を崩すのに、お金が要る
二〇〇六年九月、滋賀県草津市。
午後二時を少し回った。博之は十円玉を数えた。十一枚。五百円玉でカレーを食べる客が
あと六人続くと、六人目にはもう釣りが出せない。一杯三百八十円というのは、
決めるときには気がつかんかったけど、ずいぶん十円玉を食う値段やな。
鍋の火を落とし、ガラス戸に「両替に出ています。二時半に戻ります」と貼った。
鍵をかけて自転車にまたがったところで、向こうから来た男の人が貼り紙を読んだ。
あ、と思ったときには、もうアル・プラザのほうへ歩いていった。
惜しいことした。せめてあの人が百円玉を四枚持ってるか聞いてから閉めたらよかった。
博之が向かったのは、滋賀中央信用金庫の草津支店だった。草津で銀行といえば滋賀銀行も
びわこ銀行もある。どちらも場所は知っている。夏にはネクタイまで締めて訪ねた。
おかげで、エプロンのまま両替だけしに入るのは、少々具合が悪かった。
あのとき持っていった計画書は、立命館大学の起業講習会で作ったものだった。
びわこ・くさつキャンパスには、大学にいながら会社を起こそうという人が出入りする
インキュベータという施設があった。博之が講習会に顔を出したのも、学生のうちに
商売をしてみたいと思ったからだ。自己紹介で「カレー屋を考えてます」と言うと、
隣の学生に「どんなカレーが好きなん?」と聞かれた。
「学食のカレー。安いし、誰に聞かんでも値段わかるし」
「ほな、学食休みの日に開けてくれたら俺行くわ」
自分の店の営業時間を人に頼まれたのは、それが初めてだった。
講師にもらった用紙には、自己資金、必要な設備、希望借入額、月々の返済予定を書く欄があった。
博之は下宿のパソコンで表を作った。客数を一人増やすと、月の売上も利益もいっぺんに動く。
面白くて、一日三十人、四十人、五十人と順番に入れた。四十人のところで、
家賃を払って、借金を返して、自分にもいくらか残った。印刷したのはその四十人の表だった。
滋賀銀行で最初に聞かれたのが、まさにそこだった。
「この四十人というのは、どうやって見積もられました?」
候補の物件の前に座って、何人通るかは数えた。昼の一時間で百人以上。けれど、
そのうち何人がカレーを食うかと聞かれると困った。正直に言えば、四十人ならお金が足りるという
順番である。通る人を数えた紙は鞄にあるのに、出すきっかけを逃した。
びわこ銀行では、卒業したあとのことを聞かれた。
「お店に専念されるご予定ですか」
「そこは、就職も一応、考えてまして」
「就職が決まったら、お昼はどなたがお店に?」
返済予定は三年先まで入れておいた。そのくせ、来年四月にご飯を炊く人間が決まってへん。
担当の人を前にして、博之は初めてそれに気がついた。
結局、どちらも相談だけで終わった。帰りのバスでは、学生の飯屋なんか、
まともに相手してくれへんのや、と思った。下宿へ帰ってネクタイを外し、
四十人の欄に二十人と入れてみた。毎月きちんと返せていたはずの金が、
画面の上で足りなくなった。腹が立ったのは、銀行の人が帰ったあとも、
二十人は二十人やったことだ。
それで、手元の三十万円で鍵をもらえる店を探した。見つけたのがアル・プラザ草津の向かい、
月六万円、三坪の居抜きだった。丸椅子の赤いビニールは裂けているし、
カウンターには前の店主が包丁を落としたらしい傷がある。敷金と礼金を払い、
中古の冷蔵庫と炊飯器を買った。椅子の裂け目には、下宿から持ってきたテープを貼った。
自分の尻で座ってみて、ズボンに糊がつかんことだけは確かめた。
開けてみると、現金は忙しかった。昨日の客が払った金で今日の肉を買い、
今日の客が払った金で明日の米を買う。さて、その金を細かくしようとすると、
両替機の横には手数料の案内まである。
自分の金を、自分の店で使える形にするだけやのに。なんや、商売してるだけで
かかる税金みたいやな。
ぼやきながら、博之は十円玉を多めに選んだ。受け皿に落ちた棒金をつかむと、
ずしっと重い。自転車の前籠で跳ねたら嫌なので、エプロンの両方のポケットに分けた。
「カレー屋さん、もう開けはったんですか」
帰り際、口座を作ったときに応対してくれた信金の人に声をかけられた。
「ええ。開けたら毎日、十円玉ばっかり要りますわ」
「おいくらでしたっけ」
「三百八十円です」
「ああ、そら二枚ずついきますねえ」
それだけの話だった。けれど、店を開けたと言える相手が一人できたのは、
ちょっとうれしかった。今の自分が金融機関と付き合ういうたら、まずここやろな。
今度来たら売上もいくらか通帳に入れて帰ろう。米を買って、残っていたらやけど。
二時半ちょうどに貼り紙を外した。ノートの今日の欄には、昼に売った二十四杯がついている。
あの夏、二つの銀行を回ったとき、この数字を持っていけたら話すこともあったのに、と思った。
ガラス戸が開いた。さっき貼り紙を読んでいた男の人が、平和堂の袋を提げて戻ってきた。
「もうええか。細かいのあらへんけど」
カウンターに五百円玉が置かれた。博之は十円の棒金の端を破った。
「はい。今やったら、なんぼでもお釣りあります」




