第十八話 三十万円を預けに 11月1週目。学生のままごとからお仕事になった実感を得るwww
十一月の昼下がり、博之は店の札を準備中に裏返し、鞄を肩にかけた。
中には通帳と印鑑、大学ノート、それから三十万円の入った封筒がある。
九月と十月に店で残った金を数え、次の仕入れや支払いに使う分を分けた。
急に何かあった時のための五万円も、手元に置いておく。
今日は、その残りから三十万円を預け替えるつもりだった。
開業する時に使った金も、三十万円だった。
あの時は封筒から出したら、それでなくなった。敷金や礼金、足りない道具に姿を変えて、
手元にはほとんど残らなかった。
今度の三十万円は、一杯三百八十円のカレーから残った金だった。
滋賀中央信用金庫の自動ドアをくぐる。
両替で何度か来ているので、窓口の人の顔には見覚えがあった。
「今日は両替ですか」
「あ、今日は入金と、ちょっと相談もできたらと思って」
楽食屋の博之です、と名乗った。
自分の名前の前に店の名前をつけるのは、まだ少し照れくさい。
「いつも両替させてもらってるんで、店のお金も、こちらをメインにしようかなと思いまして」
差し出した封筒を、職員が受け取った。
手続きの後、少しお待ちいただけますかと言われ、博之は鞄を膝に置いて待った。
やがて別の職員が来て、相談用の席へ案内してくれた。
名刺を差し出され、博之は慌てて両手で受け取った。自分には返せる名刺がない。
「お店は、いつからされているんですか」
「九月からです。まだ大学四回生なんですけど」
「学生さんで。どんなお店です?」
「カレーだけです。三坪で、カウンター六席しかないんです」
しかない、と言ってから、別に謝ることでもないかと思った。
家賃は六万円。一杯三百八十円。
最初は一人でやっていたこと。今は友達に時々手伝ってもらい、火曜と金曜には朝も開けていること。
博之は大学ノートを開き、十月の数字が並んだページを見せた。
「売上が四十二万二千八百円で、いろいろ引いて、予備の金も残したら十六万ちょっとです」
「これ、ご自分でまとめられたんですね」
「はい。領収書は取ってあるんで。一応、経営学部なんですけど」
最後の言葉は、少し小さくなった。
経営学部を出て、十六万円。それをどう見られるのか、気になった。
職員はすぐには答えず、食材費と家賃の欄を指で追った。
「開けて間もないお店で、赤字になっていないだけでも、大したものですよ」
「そうですかね。自分がずっと立ってるんで、給料と思ったら、あんまり残ってないなと」
「もちろん、ご自身の働く時間もありますからね。ただ、最初から大きな固定費を抱えていないのは、
いいですね。借り入れは?」
「ないです。持ってた三十万円で始めたんで」
「その範囲で収まったんですか」
「前の店の設備が残ってて。ぼろいんですけど、掃除したら使えたんです」
職員は少し笑った。
「こじんまり、ご自分で分かる範囲で、無借金で回しておられる。お話を聞いていて、
無理をされていないところがいいなと思います」
博之は、うなずきながらノートの角を押さえた。
ぼろい店だと言っても、そこで話が終わらなかった。家賃が安いことも、
設備を使い回したことも、商売の話として聞いてもらえている。
「それで、もう一軒できへんかなと思ってまして」
少し前のめりになった。
「南草津で考えてるんです。駅の近くで、六席ぐらい。家賃は六万円以下がええんですけど」
「今のお店と同じくらいですね」
「はい。きれいでなくてもええんです。僕が掃除するんで。ただ、駅へ行く人が
前を通るところがよくて」
駅に近くても、一本道が違えば人が通らない。
今の店の朝が売れるのも、味が特別だからというより、通勤する途中で寄れるからだと思う。
そんな話をすると、職員は手元の紙に何かを書き込んだ。
「すぐに借りたい、ということですか」
「いや、まだです。今の店をバイトの人に任せられるようにして、お金ももうちょっと貯めてからです」
作り方を大学ノートに書き、コピーを渡して試していることも話した。
説明が足りず、水の量から書き直していると言うと、職員はうなずいた。
「では、その間に場所を探していく形ですね」
「はい。何かあったら教えてもらえたら、ありがたいです。お金のことも、いずれ相談できたらと」
職員は名刺を指し、穏やかに言った。
「大きなお金をすぐにお貸しできます、とは申し上げられません。ただ、時々こうして、
お店の様子を教えていただけますか。こちらからも、何かいいお話を持っていけるかもしれません」
約束ではなかった。
物件が出るとも、融資が決まるとも言われていない。
それでも博之には、その『時々』がうれしかった。
今日だけ聞いて終わりではなく、次に話す時のことがある。
「じゃあ、また月の数字まとまったら持ってきます」
「ええ。朝の営業がどうなったかも、ぜひ聞かせてください」
外に出ると、博之は鞄の中の通帳をもう一度見た。
三十万円は、自分の金の置き場所を変えただけだ。増えたわけではない。
けれど、受け取った名刺をしまう時、いつも両替に来た帰りとは少し違う気がした。
学生が店の真似事をしている、という話ではなかった。売上を聞かれ、費用を見られ、
次に何をするのか尋ねられた。
商売をしている人として、話してもらった。
店へ戻る道で、博之は歩く速度を少し上げた。
夕方の仕込みが待っている。次にあの席に座る時も、ちゃんと数字の書いてある
ノートを開きたかった。




