第十五話 同じ三百八十円 朝カレーの成功と他の大型チェーンとの比較。2006年10月4週目
十月第四週、金曜日の昼過ぎ。
博之は空になりかけた鍋を見て、それから壁の時計を見た。まだ一時を少し回ったところだった。
朝は火曜日も金曜日も順調だった。昼も、三十食を用意したから安心とはいかない。
途中で追加を考えなければ、せっかく来た客を断ることになる。
一方で夜は、ぼちぼちだった。朝の勢いを見て多めに作ると、閉店前には鍋の中が気になってくる。
売れる時間と、売れない時間。
同じ場所で同じカレーを出していても、客の来方はずいぶん違った。
「昼、よう入ったなあ」
朝の仕事を終えて帰ったおばちゃんから、携帯にメールが来ていた。買い物の帰りに、
店の前を通ったらしい。
博之は親指で返事を打った。
『おかげさまで。夜もこうやったらええんですけど』
送信して、携帯を閉じる。
忙しいのはありがたい。ただ、忙しかったという感想だけでは、いくら残るのか分からない。
カウンターの端に大学ノートを開いた。
店内は三百八十円。持ち帰りは四百円。朝の欄と昼の欄を分け、正の字を数字に直す。
そこから米や肉、ルーの代金が出ていく。おばちゃんの給料も払う。容器も減るし、
火を使う時間も長くなった。
売上の数字は前より大きい。
けれど、その数字をそのまま自分の給料だと思ったら、翌日の肉を買う金まで使ってしまう。
「月末、一回ちゃんと締めなあかんな」
独り言を言って、仕入れのレシートを伸ばした。
財布に押し込んだままの紙は、端が丸まっていた。
その下から、吉野家の牛丼復活祭の記事を切り抜いた紙が出てきた。三百八十円という数字に、
以前の自分が丸をつけている。
「ああ。結局、行かれへんかったな」
久しぶりの牛丼を食べたかった。
食べに行く側としては、単純に楽しみだったのだ。それが店を始めた途端、
同じ値段というところが気になる。
向こうは吉野家。
自分は三坪の楽食屋。
「そこ相手にせなあかんのか。しんど」
思わず笑ってしまった。
看板を見れば何が出てくるか分かる店と、学生が一人で始めた、名前も知られていない店。
同じ三百八十円を払うなら、向こうを選ぶ人はいくらでもいるだろう。
すき家にはカレーもある。
あっちも牛丼だけではないのだから、カレーなら競争がないというわけでもなかった。
ただ、博之の頭に浮かぶすき家は、国道一号線の方まで出なければならない。
車で動く人や、そちらに用事がある人には便利だ。けれど、これから電車に乗る人が、
朝の数分を使ってわざわざ向かうだろうか。
楽食屋なら、駅へ歩いていく途中で入れる。
食べて出ても、進む方向は変わらない。
今朝も、入口で時計を見た客がいた。
味を吟味して入ってきた様子ではなかった。席が空いていて、
すぐ食べられそうだから入った。出されたカレーを食べ、鞄を持って駅へ歩いていった。
その数分に、自分の店が収まっている。
「ほんま、場所に助けられてるな」
安さだけなら、もっと安い食べ物もある。
うまさだけなら、もっと手をかけたカレーもある。それでも三百八十円で腹を満たして、
遠回りせず仕事に行けるなら、この店を使う理由にはなるのだろう。
博之はノートパソコンを開いた。
卒論のファイルには、まだ見出しと書きかけの文章が並んでいる。
『価格と立地による、小規模飲食店の利用動機について』
打ってから、少し大げさかと思った。
利用動機などと書いたところで、客全員に理由を聞いたわけではない。
『駅へ向かう通行者が、移動の途中で利用していると考えられる』
考えられる、と直す。
今のところ、自分に分かるのはそこまでだった。
朝と昼と夜の販売数を、時間帯ごとに残しておこう。天気も書く。
持ち帰りが何個出たかも分ける。売り切れた時間を書かなければ、売れなかったのか、
売る物がなかったのかも分からなくなる。
それなら、帳簿とは別に記録する意味がある。
画面を見ているうちに、ふと南草津の駅前が浮かんだ。
三月までに、ここをもう少し安定させる。朝を任せられる日が増えて、
仕込みも無理なく回るようになる。その先に、同じような小さな空き店舗が見つかったら。
二号店。
卒業式で、就職先の話をする同級生に、何気ない顔で言えたらどうだろう。
『俺、南草津にも店出してん』
博之は一人で口元を緩めた。
あの時、普通に就職した方が稼げると言った連中は、どんな顔をするだろう。
そこまで考え、画面の横に積んだ領収書を見た。
「まず一軒目やろ」
二軒になれば、家賃も二軒分だ。
今はおばちゃんが来てくれる朝ですら、気になって自分も顔を出している。
それで別の店まで回せると思うのは、さすがに早かった。
それでも、三月という期限があるのは悪くなかった。
卒業する時に、続けたいという気持ちだけでなく、これなら続けられるという数字を持っていたい。
入口の戸が開いた。
「まだ食べられる?」
「あ、はい。いけます」
博之はパソコンを閉じ、手を洗った。
残っていたカレーを温め直し、ご飯をよそう。卒論も二号店も、いったんカウンターの隅へ寄せる。
客が食べ始めたところで、ノートに一本、線を足した。
三百八十円。
月末に数える売上が、また一食分増えた。




