第十三話 八時半の売り切れ カレーが30食完売www 2006年10月3週目金曜日
七時半を過ぎると、博之は座っていられなくなった。
一人が立った椅子に、次の客が座る。おばちゃんが皿を出している間に、
博之は空いたコップを下げ、カウンターを拭いた。
「兄ちゃん、それ洗っといて」
「はい」
様子を見るだけのつもりが、すっかり洗い場に入っていた。
客は時計を見ながら食べていた。背広の男も、作業着の男も、食べ終わると長居せず、
駅の方へ歩いていく。
「京都までですか」
「今日は大阪。向こう着いてから食べる時間ないねん」
五百円玉を出した男に、おばちゃんが百二十円を返した。
「ほな、お気をつけて」
「ごちそうさん」
戸が閉まると、また開く。
昼間とは、人の流れる向きも速さも違った。草津から電車に乗って出勤する人たちが、
駅へ向かう途中で腹を満たしていく。
「これ、持って帰れる?」
入口に立った男が聞いた。
試しに買っておいた容器の出番だった。博之は棚から一つ取り出した。
「四百円です」
「ほな一つ。昼の弁当代わりにするわ」
「職場で冷蔵できます?」
「冷蔵庫もレンジもあるで」
ご飯とカレーを詰め、スプーンを添える。五百円を受け取り、百円を返した。
十円玉を数えなくていいだけで、会計が少し早く感じた。
続いて来た客も、持ち帰りを頼んだ。
「いつも同じ弁当買うてるからな。たまにはカレーもええわ」
博之はうなずきながら袋を渡した。
朝に食べる人だけを考えていたが、昼ご飯を買っていく人もいる。二つの炊飯器を
用意してよかったと、ようやく思えた。
八時。伝票代わりの紙に書いた線を数えると、店内で十五食、持ち帰りで五食だった。
「二十、出てます」
「もう?」
「はい。一時間で」
おばちゃんが鍋をのぞき込んだ。
「そら減るわな」
博之は冷蔵庫から出して十分に温めた二鍋目の残りを確かめた。三十食分も作ってしまったと、昨夜は心配していた。そのうち二十食が、もうなくなっている。
八時を過ぎると、客の顔ぶれが少し変わった。
「この先の店、九時からやねん」
「今日は現場近いし、食うてから行くわ」
電車の時刻を気にしていた客より、少しだけ話す余裕があった。それでも食べ終われば、
上着を着て仕事へ向かう。
皿を洗い終えたところで、また二枚戻ってきた。
八時半。最後の一皿をおばちゃんがカウンターへ置いた。
「これで終わりやね」
博之は鍋の底を見た。お玉ですくえる分は、もう残っていなかった。
八時からの三十分で、さらに十食。
三十食、完売だった。
「すみません、朝の分、売り切れてしまいまして」
次に戸を開けた客へ、博之は頭を下げた。
「もう? まだ八時半やで」
「初めて朝開けたんで、数が読めなくて」
「そうなん。ほな、また今度やな」
客を見送り、入口の紙に『朝の分は売り切れました』と書き足した。
店へ戻ると、おばちゃんが腕時計を見ていた。
「店長、当たったな」
「そうですね。朝、やってよかったですわ」
「九時半に来てたら、終わってたで」
「ほんまですね」
笑ってから、博之は空の炊飯器を見た。昼に回すつもりだったご飯も、ほとんどない。
嬉しい誤算だった。ただ、昼までにもう一度作らなければ、いつもの客に出すものがなかった。
「ほな、昼の分やりますか」
「何人分?」
「まず三十です。鍋二つ」
「はいはい」
おばちゃんが皿を洗う間に、博之は米を量った。炊飯器を動かし、玉ねぎの袋を開ける。
「朝の時間、働けそうな知り合いおったら、紹介してもらえません?」
「もう増やすん?」
「いや、来られる人がおるんやったら、開ける日も増やせるかなと。ただ、毎日こんだけ
売れるか分からへんので」
おばちゃんは水を止め、少し考えた。
「平日の方がええんちゃう。今日も仕事行く人ばっかりやったし」
「そうですね。土日は、とりあえず朝はやめときますか」
「私、火曜と金曜やったら来られるで」
「じゃあ、まずそこからお願いします」
次の火曜も同じように売れるだろうか。
博之は包丁を入れながら、今朝の客の顔を思い返した。一回売れたことと、
続けて売れることは、まだ別だった。
「でも、これは仕事した感じあるわ」
洗い物を終えたおばちゃんが、玉ねぎの皮をむき始めた。
「スーパーやったら、私の代わりなんぼでもおるやん。レジ何台もあって、交代して。
それはそれで助かるけどな」
「ここは、一人抜けたら誰もおらへんですからね」
「今日はおったやん。七時から」
博之は笑うしかなかった。
「自分で開けて、ご飯出して、売り切れたやろ。こういう方が、性に合ってるんかもしれん」
「それやったら、ありがたいです」
「まだ、この店が続くか分からへんけどな」
「そこは、続くように頑張ります」
口にしてから、少し前より言いやすくなっていることに気づいた。
おばちゃんが、博之の手元を見た。
「玉ねぎ、それ毎回包丁で切ってるん?」
「はい」
「通販でスライサーとか買うたら? もうちょっと楽になりそうやけど」
「値段、見てみます。洗うの簡単なやつがええですね」
「そうそう。洗う方が面倒やったら、使わんようになるで」
二人で切った玉ねぎを鍋へ入れる。炒める音と匂いが、もう一度店に広がった。
十時。博之は千円札三枚と百円玉三枚を封筒に入れ、勤務の記録を確かめて渡した。
「今日はありがとうございました」
「こちらこそ。ほな、火曜日な」
おばちゃんを見送ると、博之は壁のカレンダーの火曜日に丸をつけた。
それから、昼のカレーが焦げないように、鍋を混ぜに戻った。




