第十二話 九時半に来ると言ったのに おばちゃんに朝カレー任せてみた。2006年10月3週目週末
「ほな、金曜日、一回やってみましょか」
十月の三週目。博之が声をかけると、おばちゃんは手帳を開いた。
「その日やったら、スーパーは午後からやわ」
「六時半から十時まで、三千三百円。とりあえず試しなんで、日払いにします」
「ありやで。それやったら」
話が決まると、博之の方が少し緊張した。
「私も、すぐレジの仕事辞めるとかはできへんからな。ここも、まだ始まったとこやし」
「もちろんです。まず一回、やってみてからで」
朝から何人来るか、博之にも分からない。三十食という仕込みの数は、鍋二つで作れる量であって、
売れると分かっている数ではなかった。
「味はまあまあやと思うよ、ここのカレー」
「まあまあでええんです」
「そこは、うまいって言うてほしいんちゃうの」
「そら嬉しいですけど。立派な専門店みたいなカレーやないんで」
博之は、拭いていたカウンターへ目を落とした。
「でも、三百八十円払って、また来てくれる人がおるんですよ。それで次の材料買えて、
家賃も払えてる。僕、結構気に入ってるんです、この店」
「ほな、私が朝つぶしたらあかんな」
「そんな重たい話にせんといてください」
木曜日は定休日だった。
授業が終わると、博之は店へ向かった。閉じたシャッターの内側で明かりをつけ、
二つの深鍋を並べる。一つ十五人前、合わせて三十人前。玉ねぎを切り、人参を切り、肉を量った。
「休みやけど、結局来てるな」
朝に自分が立たずに済むように、休みの夜に仕込んでいる。それがおかしくて、少し笑った。
カレーが出来上がると浅い容器に分け、流しに張った水を替えながら手早く冷やし、
冷蔵庫へ収めた。鍋二つ分が、容器にすると棚いっぱいになる。福神漬けを横へ動かし、
ようやく全部入った。
米は二台の炊飯器に分け、朝の開店に間に合うよう予約した。無洗米は、
量って水を合わせれば済む。値段は上がったが、この手軽さにはもう慣れてしまった。
「余ったら、昼に回したらええしな」
その分、昼に炊く量を減らせばいい。そう考えて用意したのに、二台の予約ランプを見ていると、
急に多く思えてきた。
朝から何人来るのだろう。五人か、十人か。駅へ向かう人は多くても、カレーを
食べていく人が何人いるかは分からない。
誰も来なければ、このご飯もカレーも、そのまま昼を待つ。
かといって、少なく炊いて、来てくれた客に「ご飯がありません」と言うのも嫌だった。
博之は予約時刻をもう一度確かめ、量は変えなかった。
カレーの温め方、ご飯とルーの量、釣り銭の場所。追加で炊くときの水加減も紙に書いた。
友達の店番用に作った料金表は、もう一枚写して透明な袋へ入れる。
一人三百八十円。二人七百六十円。
自分なら考えずにやっていることも、書き出すと意外に多かった。
合鍵は、既に渡してある。博之は携帯を開いた。
『準備できました。明日お願いします。何かあったら電話してください』
『了解。寝坊せんようにするわ』
すぐに返事が来た。
『僕もです』と打ちかけて消した。自分が来るのは九時半か十時だった。
金曜日、午前六時半。
おばちゃんは鍵を開け、エプロンを着けた。出勤時刻を記録し、まず一鍋分のカレーを
温め始める。二台の炊飯器を確認して、釣り銭を数えた。
七時にシャッターが上がった。
その音を、博之は少し離れたところで聞いていた。
六時過ぎに目が覚めてから、眠れなかったのだ。
鍵は開いたか。米は炊けたか。カレーは焦げていないか。
電話がないのだから大丈夫なのだろう。そう思って携帯を伏せても、また裏返してしまう。
結局、服を着て自転車に乗った。
「見るだけや」
自転車を押しながら、誰にともなく言った。
店には明かりがついていた。入口には、前夜に書いた『朝七時から カレー三百八十円』の
紙が出ている。
おばちゃんが表へ出てきたので、博之は慌てて顔をそらした。少し通り過ぎ、戻ってきて、
また店を見る。
十分ほどして、作業着の男が足を止めた。
「もう食べられる?」
「はい、どうぞ」
男が入った。
水が出る。皿にご飯が盛られる。おばちゃんが鍋を混ぜ、カレーをかける。
いつも自分が立っている場所に、別の人が立っていた。客は何事もなくスプーンを取り、食べ始めた。
博之は、そこでようやく息をついた。
もう少し見てから帰ろうと思ったところで、おばちゃんと目が合った。
ガラス越しに、はっきり指をさされた。
「九時半に来るんちゃうかった?」
「いや、ちょっと通っただけで」
「こんな朝早う、どこ行くん」
答えに詰まると、作業着の男が笑った。
「大将、心配なんやな」
「まあ、最初なんで」
博之はカウンターの端に立ち、つい炊飯器へ目をやった。
「ちゃんと炊けてたよ。カレーも大丈夫。まだ一人目やけど」
「ありがとうございます」
「座ったら? そこおったら、皿取られへん」
「あ、すんません」
慌てて客側へ回ると、おばちゃんは空いた場所から皿を取った。
任せられるだろうかと心配して来た厨房で、自分が通り道をふさいでいた。
入口が開き、二人目の客が顔を出す。
「いらっしゃいませ」
博之も口を開きかけたが、おばちゃんの声の方が早かった。




