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第三話:『白紙のサイン本と、復帰の一行』

1. ハルの視点

あの日以来、部屋の空気は少しだけ変わった。

アキは相変わらず激務のイベント会社に通っているけれど、僕の前で無理に完璧な「鉄の女」を演じることはなくなった。疲れたときは僕の肩に頭を預けてくるし、理不尽な愚痴もこぼすようになった。

それが、僕にとってはたまらなく嬉しかった。彼女が僕を「頼るに足る男」だと認めてくれたような気がしたからだ。

深夜、アキが眠りについた後、僕は机の引き出しの奥から一冊の本を取り出した。

僕の唯一の著書。その最終ページを開く。

そこには、アキの拙い字で落書きのような未来予想図が描かれていた。

『いつかハルの本が本屋さんの真ん中に並んで、二人でそれをこっそり見に行く!』

デビューが決まった夜、アキが冗談めかして書いた約束。

僕はそのページをじっと見つめ、それからゆっくりとノートパソコンを開いた。

「いつか僕に話してくれた あなたが描いた未来の中に 僕ら一緒にいられるように」

点滅するカーソルが僕を急かす。

怖くないと言えば嘘になる。また誰にも読まれないかもしれない。また「才能がない」と突きつけられるかもしれない。

だけど、僕の心を動かしたのは、他でもない彼女の涙だ。

画面に手を置き、キーボードを叩く。

一文字、また一文字。

紡ぎ出すのは、流行りのファンタジーでも、奇をてらったミステリーでもない。

世界でたった一人、僕を信じ続けてくれた「あなた」に届くための、泥臭くて、最高に優しい物語。

深夜の静寂の中、僕の指先は久しぶりに、確かな熱を帯びて動いていた。

2. アキの視点

朝、目が覚めると、部屋の中に微かなタイピング音が響いていた。

トントン、と規則正しく刻まれる心地よい音。

ベッドからそっと覗くと、朝日に照らされたハルの背中が見えた。

かつて夢に破れ、明日を見るのを怖がっていた彼の背中が、今はどこか逞しく見える。

ハルは今、私のために書いている。言葉にしなくても、その必死な横顔を見れば分かった。

あの夜、お風呂場で私の涙を見せまいと強がっていた私を、ハルは濡れるのも構わずに抱きしめてくれた。不器用な手で、私の背中を何度も、何度もさすってくれた。

『次は僕がその手を強く握るから』

あのときのハルの手の温もりが、今も私の心を支えている。

「ハル、おはよう」

声をかけると、ハルは少し照れくさそうに振り返り、「おう、おはよう」と短く返した。その目には、かつてあった自己嫌悪の影はもう消えていた。

仕事へ向かう駅までの道、私は久しぶりに、足取りが軽くなっている自分に気づいた。

相変わらずイベントの現場は過酷で、トラブル続きだ。今日もきっと怒鳴られるし、足は棒のようになるだろう。

だけど、今の私には帰る場所がある。

「あなたがいることでどんな明日も 歩いていける光になるから」

星が見えない都会の曇り空を見上げる。

でも、不思議と寂しくはなかった。

私たちがまたここで、心から笑い合える未来が、すぐそこまで来ていると信じられるから。

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