第二話:『午前三時の雨音と、初めての綻び』
1. アキの視点
その日は、朝から最悪だった。
大規模な野外イベントの当日。予報にないゲリラ豪雨が襲い、会場のテントは半壊。泥にまみれながらクライアントの怒声を受け止め、上司からは「お前の管理不足だ」と詰め寄られた。
走り回り、頭を下げ続け、終電で帰る頃にはストッキングもパンプスも泥水で汚れていた。
(大丈夫。まだ笑える。ハルの前では、笑わなきゃ……)
いつものようにアパートの前で、冷え切った両頬を叩く。
けれど、強張った顔の筋肉は、もう思ったように動いてくれなかった。
「ただいま……」
ドアを開けると、ハルはまだパソコンの前にいた。
私の姿を見て、ハルがハッとしたように立ち上がる。
「アキ、その格好……どうしたんだよ」
「あはは、ちょっと雨に降られちゃって。大丈夫、お風呂入ってくるね」
笑顔を作ろうとしたけれど、声が震えた。ハルの心配そうな視線から逃げるように、私は浴室へ駆け込み、服のままシャワーの栓をひねった。
温かいお湯が、体についた泥を流していく。
それと同時に、今まで張り詰めていた心の糸が、ぷつりと音を立てて切れた。
激しいシャワーの音に紛れさせて、私は両膝を抱え、声を上げて泣いた。
もう頑張れない。明日が来るのが怖い。
ハルを支える光でありたかったのに。彼の夢の足枷になりたくなかったのに。
もう、一歩も動けないよ――。
2. ハルの視点
浴室から聞こえる激しいシャワーの音。
けれど、その奥から微かに漏れ聞こえる声を、僕の耳は拾ってしまった。
それは、アキが押し殺しきれなかった、嗚咽の音だった。
いつも笑顔で、どんなに理不尽な目に遭っても「大丈夫!」と笑っていたアキ。
周囲からどれほど鉄の女と言われようと、僕の前ではひまわりのように咲いていた彼女が、今、壊れたように泣いている。
「……何が大丈夫なもんか」
自分の両手が、怒りと情けなさで小さく震えていた。
アキが泣いている理由の半分は、間違いなく僕だ。自分が売れない小説家だから。彼女の優しさに甘え、傷つくことから逃げて、部屋に閉じこもっていたから。彼女にすべての重荷を背負わせていたんだ。
『この心動かすのは 弱さを見せないあなたが 初めて見せた涙』
僕の心の中で、錆びついていた何かが激しく駆動を始めた。
いつまでも守られる側の幽霊でいるのは、もう終わりだ。
脱衣所のドアを小さくノックする。シャワーの音がピタッと止まった。
「アキ」
「……なに? ハル、今お風呂だから――」
「開けるぞ」
鍵のかかっていないドアを開ける。湯気の中に立ち尽くすアキは、赤く腫らした目で、慌てて顔を背けようとした。その顔には、いつもの眩しい笑顔の破片すら残っていなかった。
僕は一歩踏み込み、濡れるのも構わずにアキの細い手首を掴んだ。
驚いて目を見開く彼女を、そのまま胸の中に強く抱きしめる。
「ハル……?」
「ごめん。ごめんな、アキ」
不器用な僕の口からは、そんなありきたりな言葉しか出てこない。
「あなたが僕を信じてくれたように、次は僕がその手を強く握るから」
アキの涙が、僕のシャツの胸元を温かく濡らしていく。
逃げるのはもうやめだ。彼女がいつか話してくれた、二人で笑い合える未来のために、僕はもう一度、社会と、そして物語と向き合う覚悟を決めた。




