第九話 寝台を離れる日
翌朝、ベルンハルトの部屋には、一脚の大きな椅子が運び込まれていた。
濃い色の木で作られた、背もたれの高い読書用の椅子である。頑丈ではあったが、座面は低く、肘掛けも細い。このまま使えば、座ったあとに身体が沈み込み、姿勢を保つのが難しい。まして、二年間寝台を離れていない人間を移すために作られた物ではなかった。
「この椅子では駄目なのか」
寝台の上から、ベルンハルトが不満そうに尋ねた。
「駄目ではありません。少し手を加えれば使えます」
修司は紐を使って座面の幅と高さを測り、寝台との間へ何度か当てた。昨夜のうちに紙へ描いておいた簡単な図と見比べながら、椅子を置く位置を決めていく。
窓辺までの距離は、成人なら十歩にも満たない。しかし、寝台から椅子へ移り、その椅子で姿勢を保ち、さらに窓まで運ばれるとなれば、今のベルンハルトにとっては一日がかりの仕事だった。
「座面に硬めの敷物を重ねて、高さを寝台に近づけます。背中と脇には薄いものを入れましょう。厚すぎると、かえって身体が前へ押し出されます」
「ずいぶん細かいのだな」
「細かいところを整えれば、ご本人が使わなくてよい力を減らせますから」
修司が椅子の位置をずらすと、侍女たちは床に敷かれていた毛織りの敷物を巻き取り、寝台と窓の間を空けた。小卓も窓際へ移し、脚がぐらつかないことを確かめる。昨日使った軽い木の匙と、椀の滑り止めにする布もすでに用意されていた。
その様子を見ていたクラウディアが、感心したように言った。
「父を動かす前に、部屋の方を変えてしまうのですね」
「人の身体には、すぐ変えられない部分があります。でも、周りの物なら先に変えられます」
使う人間に合わせて、見やすく、分かりやすく、扱いやすくする。修司がかつて紙面を作るとき、何度も考えていたことだった。相手が老人の身体になっても、その根は変わらない。
エヴァが寝台へ近づき、ベルンハルトの胸と額へ順に銀の杖をかざした。
「昨夜の発熱はありません。呼吸も安定しています。ただし、寝台の端へ座っただけでも目眩が起きる可能性があります」
「座るだけでか」
「二年間、ほとんど横になっていたのです。身体を起こせば、血の巡り方も変わります。タカセから聞き、私も魔力の流れを確かめました」
この世界の治癒術師に、長期臥床から身体を戻すための知識はほとんどない。それでもエヴァは、修司の言葉をそのまま信じるのではなく、魔法と自分の観察によって一つずつ確かめていた。
「気分が悪くなったら、すぐに言ってください」
「言わなければ続けるのか」
「顔色を見て私が止めます」
「ならば聞く必要がないだろう」
「ご自分の身体の変化を伝えることも、今日の役目です」
エヴァに言い切られ、ベルンハルトは口を閉じた。昨日まで罪悪感を抱えていた治癒術師が、今では北方の獅子と正面から言葉を交わしている。その変化もまた、修司には小さな回復に思えた。
「では、まず寝台の端へ座りましょう」
修司はベルンハルトの左側へ立ち、これから行う動きを説明した。身体を横へ向け、両脚を寝台の外へ下ろしながら、腕で寝台を押して上体を起こす。修司は腰と肩を支えるが、すべてを持ち上げるわけではない。
「途中でつらくなれば、そこで止まります」
「窓まで行くと言ったはずだ」
「今日の目標は窓辺で食事をすることです。途中で倒れることではありません」
ベルンハルトは低く唸ったが、反論はしなかった。
アマーリエが枕を外し、侍女が掛布をめくる。修司の合図でベルンハルトは身体を横へ向けた。以前より動きは滑らかになっているものの、それだけで呼吸が深くなる。
「脚を下ろします。右手で寝台を押してください。急がなくて大丈夫です」
修司は腰を落とし、老将の身体を自分へ引き寄せるのではなく、回転する方向へ導いた。腕だけで持ち上げれば、相手にも自分にも負担がかかる。身体の重さがどちらへ流れようとしているかを感じ、その流れを妨げない。
ベルンハルトの両脚が、寝台の縁からゆっくり下りた。
次の瞬間、老将の上体が大きく揺れた。
「あなた!」
アマーリエの声が上がる。修司は肩を抱き込まず、脇腹と骨盤を支えて揺れが収まるのを待った。エヴァが反対側から胸元へ手を添え、呼吸と顔色を確かめる。
「目が回る」
ベルンハルトが、苦しげに認めた。
「分かりました。このまま休みましょう」
「戻さないのか」
「今すぐ横になるほどではないと、エヴァ先生が判断すれば」
エヴァはベルンハルトの瞳と呼吸を見たあと、うなずいた。
「少し待ちましょう。悪くなるようなら戻します」
老将は寝台の縁へ腰かけたまま、荒くなった呼吸を整えた。床へ届いた素足が、頼りなく石床を探っている。
「足の裏が、冷たいな」
誰に言うでもない呟きだった。
二年ぶりに、自分の足で床へ触れたのだ。
アマーリエが顔を背け、目元を押さえた。クラウディアも何かを言おうとしたが、声にはしなかった。大げさに励ませば、ベルンハルトはかえって反発するだろう。修司はただ、足の下へ厚手の布を敷いた。
やがて呼吸が落ち着き、顔色も戻ってきた。
「次はどうする」
「今日は立ちません。椅子を寝台のすぐ横へ寄せて、座ったまま移ります」
「歩かずに窓まで行くつもりか」
「立つことと、窓辺で食べることは別の目標です。一度に両方やろうとすれば、どちらもできなくなるかもしれません」
侍女たちが椅子を寝台へぴたりと寄せた。座面の高さは敷物で調整され、ほとんど段差がない。修司は昨夜、大工に頼んで用意してもらった幅広の板を、寝台と椅子の間へ渡した。
この世界に、移乗を助けるための道具はない。だが、荷車へ樽を移すための板ならある。用途が違っても、必要な形が同じなら使える。
「この板の上を、少しずつ横へ移ります。ベルンハルト様は腕で寝台を押してください。俺とエヴァ先生が身体を支え、椅子を二人に押さえてもらいます」
「俺を荷物のように滑らせるのか」
「荷物は自分の腕で動いてくれません。ベルンハルト様の力が必要です」
老将は板を睨んだあと、右の掌を寝台へ置いた。
修司が意識を集中すると、視界の中に淡い光が現れた。
《生活動作把握――移乗》
ベルンハルトの肩、肘、腰、足元から細い線が伸びる。寝台と板、椅子の位置にも光の輪郭が重なった。昨日より情報は多い。それでも修司は、すべてを一度に見ようとはしなかった。
今、必要なのは力の向きと、動き始める瞬間だけだ。
「エヴァ先生。技能を使います。短い時間だけです」
「分かりました。終わったら、すぐに知らせてください」
修司は一度深く息を吸い、部屋にいる者たちへ声をかけた。
「ベルンハルト様が腕で押すのに合わせます。俺が『今』と言うまでは動かさないでください」
侍女たちが椅子を固定し、エヴァが老将の上体を支える。アマーリエは窓辺から見守り、クラウディアは移したあとに使う足台を手にして待った。
淡い線が、それぞれの手元からベルンハルトへ伸びていく。
《連携支援――仮接続》
《支援経路を同期します》
「押してください――今です」
ベルンハルトが寝台を押した。
修司は腰を支え、エヴァは上体の傾きを抑える。侍女たちは椅子が逃げないよう肘掛けを固定した。誰かが早すぎることも、遅すぎることもない。まるで最初から何度も練習していたように、それぞれの動きが一つへ重なった。
老将の身体が、板の上をわずかに横へ移った。
一度休み、もう一度。三度目にベルンハルトが腕へ力を入れたとき、疲労で肘が折れかけた。
光の線が赤く明滅する。
《支持力低下》
《経路を補正します》
修司は反射的に腰を沈め、倒れかけた身体を正面から受け止めず、その重さを椅子の背もたれへ流した。エヴァの手も同時に肩へ回り、侍女たちは椅子を動かさない。大きな衝撃は起こらず、ベルンハルトの身体は深い座面へ収まった。
淡い光が消える。
「接続を切りました」
修司はエヴァへ告げ、自分の状態を確かめた。こめかみに軽い圧迫感はあるが、昨日のような鋭い痛みも、ふらつきもない。
「頭は?」
「少し重い程度です。大丈夫です」
「大丈夫という言葉だけでは信用しません。あとで調べます」
修司が苦笑していると、椅子へ移ったベルンハルトが息を整えながら言った。
「いつまで、ここに置いておくつもりだ」
「気分は悪くありませんか」
「腹が減った」
それなら、窓へ向かえる。
椅子の脚には、二本の丈夫な担ぎ棒が通されていた。大工が朝までに取りつけてくれたものだ。兵士四人がゆっくりと椅子を持ち上げ、修司の合図に合わせて窓辺まで運ぶ。距離は短かったが、曲がるときも下ろすときも、修司は椅子の傾きを見ながら声をかけた。
やがて椅子が小卓の前へ置かれ、クラウディアが足台を差し入れた。背と両脇へ薄い敷物を整えると、ベルンハルトの身体は大きく傾くことなく座位を保った。
目の前には北壁があった。
昨日は寝台から見上げるしかなかった壁が、今は同じ高さに近いところへ広がっている。第三塔と第四塔の間には足場が組まれ、人夫たちが排水溝の泥を掻き出していた。ベルンハルトが指示した補修が、すでに始まっているのだ。
「クラウディア」
「はい、父上」
「人夫の数が少ない。西側の石工を回せ。ただし、賃金は遅らせるな。冬前の仕事で恨みを買えば、春に誰も来なくなる」
「承知しました」
声は弱くても、判断は明確だった。窓の外を見つめる横顔は、病人ではなく、領地を預かる将のものへ戻りつつある。
そこへ、昨日と同じ大麦と蕪の煮込みが運ばれてきた。
ベルンハルトは木の匙を取り、一口目を自分の口へ運んだ。腕の震えは残っている。それでも昨日より椀との距離が近く、肘掛けが腕を支えているため、動きは少しだけ安定していた。
「北壁を見ながら食うと、味が違うな」
「昨日と同じ煮込みですよ」
アマーリエが言うと、ベルンハルトは窓を向いたまま答えた。
「だからこそ分かる」
その一言に、アマーリエは柔らかく微笑んだ。
修司は少し離れた場所から、老将が二口目を運ぶのを見守った。今日は寝台の端へ座り、椅子へ移り、窓辺まで来た。すでに身体には大きな負担がかかっている。食事量は昨日より少なくても構わない。
大切なのは、食べた量だけではなかった。
どこで、誰と、何を見ながら食べるのか。それも人が暮らすということの一部なのだ。
ベルンハルトが三口目を飲み込んだあと、ふと小卓の向こうを見た。そこには、アマーリエとクラウディアが立っている。
「なぜ、お前たちは立っている」
「あなたのお食事を見守っているのです」
「見張られていては、粥を食わされていた頃と変わらん」
「では、どうすればよろしいのですか」
ベルンハルトは少し考え、壁際へ寄せられた大きな卓へ目を向けた。白い布を掛けられたその卓は、かつて家族で食事をするために使われていたものらしい。
「明日は、あの卓を使え。お前たちの食事も持ってこい」
クラウディアが目を見開く。
「私たちも、こちらで?」
「俺一人が食うところを眺めて、何が面白い。どうせなら北壁の報告を聞きながらにしろ」
素直に家族と食べたいとは、決して言わない男なのだろう。
アマーリエは夫の意地を暴くことなく、静かに頭を下げた。
「では明日は、久しぶりに三人でいただきましょう」
その言葉とともに、修司の視界へ淡い光が差した。
ベルンハルト、アマーリエ、クラウディア。そして彼らを支えるエヴァや侍女たちへ向かって、細い光の筋が伸びかける。
だが、修司はそれを追わなかった。
まだ今は、つなぐときではない。
ゆっくり息を吐くと、光は修司の意思に応じて静かに消えた。
《連携支援――待機》
技能を発動することだけが、成長ではない。必要のないときに止めることもまた、支援には欠かせないのだ。
窓辺では、北方の獅子が四口目の煮込みを口へ運んでいた。
二年間閉ざされていた家族の食卓も、明日にはもう一度動き始めようとしていた。




