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国を立たせる介護士 ~52歳で異世界召喚された外れ職《生活支援士》、寝たきりの老将から滅びかけた王国まで再建する~  作者: 狼賀亮一郎
第一部 グランフェル辺境領再建編

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第八話 食べる理由

翌朝になっても、修司のこめかみには鈍い痛みが残っていた。


眠れなかったわけではない。客室としてあてがわれた部屋の寝台は、夜勤の休憩室にあった簡素なベッドよりずっと広かった。それでも目を閉じるたび、淡い光の筋で結ばれた人々と、窓の向こうに見えた北壁が浮かんだ。


あれは、いったい何だったのか。


《生活支援士》の技能であることは間違いない。しかし、自分が意識して発動させたという感覚は薄かった。必要な人と必要な力をつなごうとした結果、勝手に力が動いたように思える。


ベルンハルトの部屋へ向かう廊下で、修司が無意識にこめかみを押さえると、背後から声が飛んできた。


「まだ痛むのですね」


振り返ると、エヴァが立っていた。今日も白い法衣の上に深緑の外套をまとい、片手に銀の杖を持っている。


「少しだけです。昨日よりは、だいぶましになりました」


「その言い方をする患者は、たいてい少しではありません」


有無を言わせぬ口調だった。修司は廊下脇の長椅子へ座らされ、エヴァは銀の杖の先を額へ近づけた。


淡い緑の光が視界の端で揺れる。痛みが消えるわけではなかったが、頭の内側を冷たい風が通り抜けるような感覚がした。


「魔力が枯れたわけではありません。ただ……妙ですね」


「何がですか」


「普通の治癒術は、術者から一人の患者へ魔力を流します。けれど、あなたの魔力の跡は外へ向かって細かく枝分かれしている。昨日あの部屋にいた全員へ、細い道を作ったように見えます」


修司は、ベルンハルトと自分だけでなく、アマーリエや侍女、クラウディア、そしてエヴァまで結んだ光を思い出した。


「俺が、皆さんへ力を与えたということでしょうか」


「いいえ。そこまで強い魔力は流れていません。むしろ、皆が持っていた力を行き来させ、同じ目的へ向けて整えた……そう考える方が近いでしょう」


それなら、修司にも覚えがあった。


一人ではベルンハルトを起こせなかった。エヴァが身体の状態を確かめ、アマーリエが夫の望みを知り、侍女が必要な物を用意し、クラウディアが窓の構造を教えた。誰か一人が特別な力を出したのではない。それぞれの力が、必要な場所へ無駄なく届いたのだ。


「人数が増えるほど、道を保つあなたへ負担が集まるのでしょう。昨日の使い方を続ければ、次は頭痛だけでは済まないかもしれません」


「分かりました。気をつけます」


「分かるだけでは足りません。発動しそうになったら、私に知らせてください。終わったあともです」


エヴァの厳しい眼差しに、修司は苦笑した。


「支える側が倒れては困る、ということですね」


「それをあなたに説明しなければならないのが、不思議でなりません」


もっともだった。


修司がベルンハルトの部屋へ入ると、昨日より背を高くして寝台へもたれた老将が、苦虫を噛み潰したような顔をしていた。


その視線の先には、低い卓に置かれた木椀がある。中には薄い灰色の粥が入っていたが、表面はすでに冷え、膜が張り始めていた。


「おはようございます。具合はいかがですか」


「この粥を食わずに済む方法を考えている」


「具合より先に、そちらですか」


「二年も同じ物を食わされれば、豚でも逃げ出す」


そばにいたアマーリエが、困ったように眉を寄せた。


「あなた。昨日まで、食事について何を尋ねても『何でもよい』としかおっしゃらなかったでしょう」


「何でもよいと言ったのだ。同じ物でよいとは言っておらん」


言い返す声には、昨日までにはなかった張りがあった。アマーリエはたしなめる表情を保ちながらも、ほんの少しうれしそうに見えた。


修司は椀へ目を向けた。


「これは、いつから召し上がっているんですか」


「負傷して、この館へ戻られてからずっとです」


答えたのは、朝食を運んできた侍女だった。


そこへ部屋へ入ってきたエヴァが、粥を見て足を止める。


「待ってください。私がこれを指示したのは、閣下の腹部の傷が塞がるまでです。胃腸へ負担をかけないために」


「ですが、別のお食事に戻してよいとのご指示は……」


侍女の顔が青ざめる。エヴァも言葉を失い、二年前の記憶を探るように目を伏せた。


負傷は治った。治癒術師の役目は終わった。けれど、その後の暮らしを誰が見直すのかは決められていなかったのだろう。厨房は最初の指示を守り、侍女たちも老将の身体を案じて同じ食事を運び続けた。ベルンハルト自身が何も望まなくなったことで、変えるきっかけまで失われた。


「誰か一人の失敗ではないと思います」


修司は、侍女とエヴァの双方へ向けて言った。


「状態が変わったときに、支え方も見直す仕組みがなかった。それだけです。こちらでは、傷が治ったあとに生活を整える考え方が、まだ役割として分かれていませんから」


日本の介護現場でも、いったん決まった支援がいつの間にか目的を失い、ただ続けられてしまうことはあった。だからこそ定期的に状態を見直し、本人の希望を聞き、必要なら他職種へ相談する。


支援は、決めて終わりではない。


「エヴァ先生。今のベルンハルト様は、この粥以外を食べても問題ありませんか」


「調べます。私が判断すべきことです」


エヴァはすぐに寝台の脇へ進み、口の中や喉、腹部の状態を一つずつ確かめた。魔法の光だけで済ませず、どこか痛むか、飲み込みにくさはないかと本人にも尋ねている。


「硬い肉や脂の多い物は避けるべきですが、柔らかく煮た穀物や野菜なら問題ありません。むしろ今の閣下には、身体を戻すための食事が必要です」


「二年も気づかなかった治癒術師を、笑うか?」


ベルンハルトの問いに、エヴァは唇を引き結んだ。


「笑われるべきなら、受け入れます」


「ならば笑わん。お前は俺の傷を治した。それより先を、誰も知らなかっただけだ」


短い言葉だったが、エヴァの肩からわずかに力が抜けた。


修司はベルンハルトへ向き直った。


「では、何を食べたいですか」


「食える物を出せ」


「それでは、また誰かが決めた物になります。ベルンハルト様が食べたい物を教えてください」


老将は面倒そうに眉をひそめた。しかし、修司が黙って待っていると、やがて窓の外へ視線を向けた。


「北砦で冬に食っていた煮込みだ。大麦と蕪を、玉葱と一緒に柔らかくなるまで煮る。燻製肉は香りがつく程度でよい」


「まあ。覚えていらしたのですね」


アマーリエが懐かしそうに微笑んだ。


「兵たちと同じ鍋を囲んでいた頃、館へ戻っても作らせていました。豪華な料理より、あれを好む人でしたから」


厨房へ確認すると、材料はすべて領内で手に入る物だった。蓄えの乏しい今でも、一人分の煮込みなら用意できるという。


昼前、湯気を立てる木椀が運ばれてきた。


柔らかく煮崩れた蕪と大麦に、玉葱の甘い香りが溶け込んでいる。細かく刻まれた燻製肉はわずかだったが、その香りだけで、朝の粥とはまるで違った。


ベルンハルトの目が椀を追った。


修司はすぐに食べさせようとはせず、まず卓と寝台の位置を見た。椀が遠い。右腕を伸ばすには肩が上がりすぎ、重い金属の匙では手首にも負担がかかる。


意識を集中すると、視界に淡い線が浮かんだ。


《生活動作把握――食事》


ベルンハルトの肘から匙へ伸びた線は、途中で何度も揺れている。だが昨日のように、頭の中へ一度に情報が流れ込んでくることはなかった。修司は必要な部分だけを見るよう意識し、ゆっくり息を吐いた。


「軽い木の匙はありますか。それから、畳んだ布を二枚お願いします」


侍女が持ってきた布の一枚を肘の下へ置き、もう一枚を椀の下に敷く。卓を身体へ近づけると、揺れていた線が短くなった。


《環境適合を確認》


《必要支援量――軽減》


文字はすぐに薄れた。こめかみに痛みは走らない。


「俺に食わせるつもりか」


「必要ならお手伝いします。ただ、まずはご自分でお願いします」


ベルンハルトは木の匙を握った。肘を布へ預け、ゆっくりと椀へ運ぶ。最初の一度は大麦をすくい損ね、二度目は途中で手が震え、汁を少しこぼした。


侍女が手を出しかけたが、修司は小さく首を横へ振った。危険はない。今は、できる動きを奪わない方がよい。


三度目。匙が口元へ届いた。


ベルンハルトは煮込みを含み、時間をかけて飲み込んだ。誰も言葉を発しなかった。


「……肉が少ない」


「昔と同じです。あなたが兵より多く取るなと、料理人へ言っていたのでしょう」


アマーリエの返答に、老将は鼻を鳴らした。だが、もう一度匙を椀へ入れた。


四口目を運ぶ頃には、淡い線の揺れがわずかに減っていた。修司が力を与えたわけではない。椀を近づけ、肘を支え、本人が持っている動きを使いやすくしただけだ。


それでも、ベルンハルトが自分の手で食べているという事実は、部屋にいた全員の表情を変えていた。


六口目で、匙が止まった。


「今日はここまでにしましょう」


「まだ食える」


「食べたい気持ちと、今の身体が食べられる量は別です。疲れて飲み込みを誤れば、次の食事が遠のきます」


ベルンハルトは不満そうだったが、やがて匙を置いた。朝の粥なら一口も手をつけなかった男が、自分から続きを惜しんでいる。それで十分だった。


そのとき扉が開き、巻いた羊皮紙を抱えたクラウディアが入ってきた。


「お父様。北壁の第三塔と第四塔を調べさせました。報告がまとまりましたので――」


言いながら、彼女はわずかに減った煮込みと、父の手元にある匙へ目を留めた。


「父上が、ご自分で?」


「六口だけですが」


修司が答えると、ベルンハルトが睨んだ。


「余計な数を教えるな。クラウディア、その図を見せろ」


羊皮紙が寝台の上へ広げられる。北壁の略図には、調査した箇所と石材の傷みが細かな文字で書き込まれていた。ベルンハルトは目を細めたが、薄暗い寝台の上では読みづらそうだった。


「第三塔の外壁だけではない。ここに雨水が入っているなら、内側の階段も調べろ。凍れば石が割れる」


「すぐに確認させます」


「補修の順も逆だ。先に排水溝を直せ。上から石を積んでも、また崩れるぞ」


声はまだ細い。それでも、そこには北方を守ってきた将の判断が戻り始めていた。


修司は、食べることと、生きる理由は切り離せないのだと思った。


身体のために食べる。それだけでは、人はなかなか匙を持てない。明日も見たいものがあり、やるべきことがあり、誰かに伝えたい言葉があるから、もう一口を口へ運ぼうとする。


ベルンハルトは図から目を上げ、窓の方を見た。


「タカセ。明日は、窓辺へ机を置け」


「机を、ですか」


「北壁を見ながら食う。あの場所なら、図も読める」


寝台から窓辺までは、ほんの数歩だった。


だが今のベルンハルトにとっては、北壁よりも遠いかもしれない。


修司がエヴァを見ると、彼女は難しい顔をしながらも、否定はしなかった。アマーリエも、静かに夫の言葉を待っている。


「分かりました。ただし、明日できるところまでです」


「相変わらず、将の命令に条件をつける男だな」


「無事に食べ終えるところまでが、俺の仕事ですから」


その瞬間、修司の視界に新しい文字が浮かんだ。


《次期支援目標――窓辺で食事をする》


文字の向こうで、ベルンハルトは冷めかけた煮込みを見つめている。


「それから、明日もこれを出せ。あの粥は二度と持ってくるな」


アマーリエがとうとう声を立てて笑った。


北方の獅子はまだ立てない。


けれど、生きるための空腹を、少しずつ取り戻し始めていた。

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