第七話 北壁を見る
翌朝、ベルンハルトの部屋へ集まった者たちは、修司が小卓に広げた一枚の紙を見下ろしていた。
紙にはベッドに横たわる人の姿と、その上体が少しずつ起きていく様子が描かれている。それぞれの姿の横には、水差し、杯、食事、太陽を表す簡単な絵が添えられていた。
「これは、何の術式だ?」
クラウディアが尋ねた。
「支援の順番を描いたものです」
「文字で書けば済むだろう」
「この方が、全員が同じ形を思い浮かべられます」
修司にとっては、特別なことではなかった。
デザイナーとして働いていた頃、曖昧な依頼を紙面へ落とし込み、客と営業と撮影現場と印刷所の間で完成形を共有してきた。介護士になってからも、口頭だけの申し送りが人によって違って伝わる怖さを何度も経験している。
誰が見ても同じ意味に取れる形へ整える。それは二つの職場に共通する仕事だった。
「まず、食事と水分を取っていただきます。そのあと、昨日より一つ多く枕を入れる。そこでエヴァさんが脈と呼吸を確認します」
修司は、紙の上に引いた横線を指でなぞった。
「顔色が悪くなる、冷たい汗が出る、息が乱れる、強い目まいが起きる。このどれかがあれば、すぐ一段戻します」
「目まいが少しあるだけなら?」
エヴァが尋ねる。
「その場で止めて、悪化しないか見ます。進めていいかどうかは、エヴァさんに判断してもらいます」
「私が救護院にいて、ここへ来られないときは?」
「その日は先へ進みません。安全だと確認できた姿勢までにします」
エヴァは紙を手に取り、しばらく眺めた。
「私が診るところと、侍女たちが手伝うところが分けてあるのね」
「誰が、いつ、何を見るのか分からなければ、同じ支援を続けられませんから」
「まるで作戦図だな」
ベッドから声がした。
ベルンハルトが、半ば呆れたように紙を見ている。
「水を飲んで身体を起こすだけのことに、大層な図を描いたものだ」
「その水を飲むために、昨日は五人がかりでした」
「四人だ。俺を数に入れるな」
「ベルンハルト様が動かなければ、始まりません。ですから五人です」
老人が眉をひそめる。
クラウディアは咳払いをして顔を背けたが、その口元にはわずかな笑みが浮かんでいた。
「昨日決めた目標は、北壁を見ることです」
修司は紙の最後に描いた窓を示した。
「今日は、ベッドの上で外が見える高さまで身体を起こせるか試します。ただし、北壁が見えても、身体が危険だとエヴァさんが判断したら終わりです」
「俺の身体だ」
「はい。やめるかどうかを決めるのはベルンハルト様です。ただ、私たちにも危険なことへ手を貸さない責任があります」
ベルンハルトの目が鋭くなる。
「俺が続けろと命じてもか」
「そのときは、お断りします」
室内の空気が張りつめた。
かつて何千もの兵を動かした男の命令を、無名の異世界人が正面から拒むと言ったのだ。
だが、ベルンハルトは怒鳴らなかった。
「面白い。やってみろ」
まず、身体を起こした状態でもむせずに飲めるよう、少量の水を取ってもらった。朝食の薄い麦粥も、ベルンハルト自身が匙を持ち、三口だけ食べた。
四口目を勧めようとした侍女を、修司は目で制した。
食べられた量は少ない。しかし本人が匙を置いたのなら、そこで終える。食べさせることだけが目的になれば、次の食事そのものを嫌がるようになる。
少し休んだあと、エヴァが銀杖を老人の胸へ当てた。
「脈は安定しているわ。始めてもいい」
修司はベッドの左右に立つ者を確認した。
右側に修司、左側にアマーリエ、脚元には侍女。エヴァは胸元の変化を診ながら、いつでも中止を告げられる位置につく。クラウディアには窓辺へ立ってもらい、カーテンを完全に開いてもらった。
窓の向こうから、朝の冷たい光が差し込む。
「ベルンハルト様。まず、左の踵で寝具を少し押してください。身体を動かすのは、私たちではなくご自分です。私たちは足りない分だけ支えます」
「分かっている」
老人の左脚へ力が入った。
ほとんど動いていないように見えても、修司の視界には淡い光が現れる。踵から膝へ、膝から骨盤へ伸びた線は細いが、昨日より長くつながっていた。
「今です」
三人が息を合わせ、ベルンハルトの身体をわずかに横へ向ける。背中へ薄い枕を差し入れ、仰向けへ戻す。呼吸を整える時間を置いてから、同じ動作をもう一度繰り返した。
枕が一つ増えるたび、老人の顔が天井から窓の方へ向いていく。
《連携支援――仮接続》
《支援負荷を分散します》
修司の視界に文字が浮かび、アマーリエと侍女の手から伸びた光が一本につながった。
それまで肩へ偏っていた重さが、腰と脚を支える手へ均等に分かれていく。修司が細かく指示しなくても、三人が力を入れる瞬間と抜く瞬間が自然にそろった。
誰か一人の腕力が強くなったわけではない。それでも、ばらばらだった力が同じ方向へ重なれば、大柄なベルンハルトの身体を無理なく動かせる。
それは、何枚もの版を見当合わせの印で正確に重ね、一つの絵を完成させる感覚に似ていた。
だが、三つ目の枕を入れたところで、その光が大きく揺れた。
金色だった線が、ベルンハルトの胸元から赤く濁る。
《支援限界に接近》
《現在の経路では目標へ到達できません》
文字が滲むのと同時に、修司のこめかみに鋭い痛みが走った。
「止めて」
エヴァの声が飛ぶ。
ベルンハルトの顔から血の気が引き、額に汗が浮かんでいる。
「脈が急に速くなった。少し戻すわ」
「まだだ」
老人が掠れた声を絞り出した。
窓の下端から、灰色の石壁がほんのわずかに見え始めている。あと少し身体が起きれば、北壁を見渡せるはずだった。
「もう一段だ。続けろ」
戦場なら、誰も逆らえない声だった。
アマーリエと侍女の手が迷う。
「戻します」
修司が答えた。
「命令だ」
「ここは戦場ではありません」
「あの壁を見るために、ここまでやったのだぞ」
「今日無理をして倒れれば、明日はもっと遠くなります」
ベルンハルトが修司を睨みつける。
修司も目を逸らさなかった。
「北壁を一度だけ見ることが目的ではありません。明日も、その次の日も、ご自分で見られるようになることが目的です」
「タカセの判断に賛成します」
エヴァが言った。
「今までの私なら、立てるところまで一度に進めようとしたでしょう。でも今は、身体が次の段階に耐えられる状態ではない。ここで続けるなら、私は治癒術師として手を貸せません」
二人から拒まれ、ベルンハルトは唇を強く結んだ。
やがて、悔しそうに目を閉じる。
「……戻せ」
枕を一つ抜き、上体を少し低くする。エヴァの杖から淡い光が広がり、速くなっていた呼吸が次第に落ち着いていった。
失敗ではない。
身体が耐えられる境界を、一つ見つけたのだ。
修司はそう考えたが、言葉にはしなかった。今のベルンハルトにとって、北壁を見られなかった事実は慰めで消せるものではない。
「今日はここまでにしましょう」
「待て」
ベルンハルトが目を開いた。
「先ほどの高さなら、どのくらい保てる」
エヴァが銀杖へ視線を落とす。
「脈が落ち着けば、短い間なら。でも、もう高くはできません」
「それでいい。カーテンをもっと上げろ」
クラウディアが窓へ向き直った。
厚いカーテンを束ね、留め金へかける。そのとき、窓の下を塞いでいた木製の飾り板が目に入った。
「これは外せないのですか」
修司が尋ねる。
「冬の隙間風を防ぐための板だ。今は必要ない」
クラウディアが留め具を外すと、窓の見える範囲が手のひら一つ分だけ下へ広がった。
修司は自分の紙を見た。
身体をさらに起こすことばかり考えていた。だが本人を窓に合わせるのではなく、窓の方を本人に合わせればいい。
介護でも、できない動作を無理に繰り返す前に、家具の位置や道具を変えることで生活できる場合がある。
そのとき、上へ伸びて途切れていた光が、ゆっくり向きを変えた。
ベルンハルトの胸元から窓へ。窓から、その向こうにある北壁へ。
《環境適合を確認》
《支援経路――再構成》
《本人負荷を軽減します》
技能が飾り板の存在を教えたわけではない。修司が自分の経験で別の方法を見つけ、それをエヴァと仲間が安全に実行できる形へ整えたとき、初めて光は道を示した。
「もう一度、先ほどの高さまでお願いします」
エヴァの許可を得て、三人でベルンハルトの上体をゆっくり起こした。
二つ目の枕が背中へ入る。
老人の顔が窓へ向いた。
今度は、灰色の北壁が見えた。
《支援目標――達成》
《連携支援――仮接続が安定しました》
淡い光が、ベルンハルトの身体を支える三人の手と、銀杖を構えるエヴァ、窓辺に立つクラウディアを順につないだ。
最後にその光は窓を越え、銀狼の旗が翻る北壁へ伸びていく。魔力に敏感なエヴァも感じ取ったのか、自分の手を見て目を見開いていた。
同じ人間が、同じ道具を使っている。誰か一人が突然強くなったわけでも、ベルンハルトの身体が魔法で治ったわけでもない。
ただ、それぞれの力が無駄なくつながり、一人では届かなかった場所へ届いた。
文字が消えた途端、修司の視界がわずかに傾いた。こめかみの痛みをこらえながらベッドの柱へ手を添えると、エヴァがすぐに空いた手で修司の肘を支えた。
「無理な命令は断るのでしょう。自分の身体にも同じようにしなさい」
「……その通りですね」
修司は短く息を整え、エヴァの支えを受け入れた。
城塞都市ベルグランを囲む巨大な壁。その向こうには、白く霞む灰冠山脈が連なっている。壁上を巡回する兵士たちは豆粒ほどに小さく、銀狼の旗が冷たい風を受けて揺れていた。
ベルンハルトは何も言わなかった。
二年ぶりに目にした北壁を、瞬きもせず見つめている。
アマーリエが口元を押さえた。その瞳に涙がにじんでいたが、老人の前では声を上げなかった。
やがて、ベルンハルトの眉が険しくなる。
「クラウディア」
「はい、父上」
「第三塔と第四塔の間だ。外側の石積みが落ちている」
クラウディアが窓へ顔を寄せる。
「ここから見えるのですか」
見える。あの補修では雪に耐えん。内側へ支柱を増やし、凍る前に上段を積み直せ」
「……承知しました」
弱々しく枕へ預けられた身体から発せられたのは、二年間部屋に閉じこもっていた病人の言葉ではなかった。
北境を守り続けた将の命令だった。
ベルンハルトは壁から目を離さないまま言った。
「タカセ。明日も、同じ刻に来い」
修司は頭を下げた。
「はい。ただし、明日も無理な命令はお断りします」
「生意気な世話係だ」
吐き捨てる声には、不思議なほど力があった。




