第六話 治す者、支える者
翌朝、修司は右腰の痛みで目を覚ました。
硬い寝台と十日間の馬車旅が、五十二歳の身体にきっちり請求書を回してきたらしい。ゆっくり横向きになり、手で寝台を押して起き上がる。
見知らぬ石造りの部屋も、窓の外に広がる灰色の城塞都市も、消えてはいなかった。
夜勤の途中で異世界へ召喚されたことは、やはり夢ではない。
顔を洗い、昨日と同じ服へ袖を通す。食欲はなかったが、食べることも生活を立て直す一部だと自分で言ったばかりだ。修司は硬いパンをスープで流し込み、約束の時間より少し早くベルンハルトの部屋へ向かった。
扉の前には、すでにクラウディアが立っていた。
「父は目を覚ましている。エヴァも来た」
「ありがとうございます」
「礼なら、話が終わってからにしろ。あの者は機嫌が悪い」
クラウディアが扉を開ける。
昨日より明るくなった部屋に、見慣れない若い女性がいた。
二十代後半ほどだろう。淡い金髪を首の後ろで一つに束ね、白い長衣の上から深緑の外套を羽織っている。腰には薬瓶の詰まった革鞄を下げ、右手には短い銀杖を持っていた。
整った顔立ちだが、目の下には疲労の影が濃い。袖口には薄茶色の薬染みが残り、爪の間にも薬草の色が入り込んでいる。
飾りだけの治癒術師ではないことは、その手を見れば分かった。
「あなたが、異世界から来た介護士?」
淡緑色の瞳が、修司を鋭く見た。
「高瀬修司です」
「エヴァ・リンドベル。辺境伯家付きの治癒術師よ。今は救護院の責任者も兼ねているわ」
名乗り終えると同時に、エヴァは言葉を続けた。
「先に言っておきます。ベルンハルト様の傷は治っている。骨の接合も、裂けた筋肉も、損傷した内臓も、二年前に私が確認したわ。呪いも病変も残っていない」
「聞いています」
「それでも立てないから、私の治療が間違っていたと言いたいの?」
「いいえ。治した方の話を聞かなければ、私には何も判断できないと思っただけです」
エヴァの眉がわずかに動いた。
「王都から来た神官たちは、あなたの治療記録を読みましたか」
「記録には目を通した。でも、その後は自分たちで同じ検査を繰り返しただけよ」
「では、最初に立たせようとしたときのことを教えてください」
エヴァはすぐには答えなかった。
ベッドの上では、ベルンハルトが目を閉じている。眠っているように見えたが、昨日より枕元へ近づけられた小卓には、あの杯が置かれていた。右手はそのすぐそばにある。
「傷を治してから十二日後だった」
エヴァが低い声で話し始めた。
「傷口は塞がり、骨もつながっていた。だからベッドの横へ立っていただこうとした。でも、身体を起こしただけで顔色が変わり、息が乱れた。足を床につけたところで意識を失ったわ」
「その後は?」
「危険だと思って中止した。食事と休養で体力が戻るのを待ったけれど、食べる量は減り、次に身体を起こしたときも同じだった。何度か繰り返すうちに、ベルンハルト様が拒むようになった」
「傷が治ったあと、寝返りや上体を起こす練習はしましたか」
「練習?」
エヴァは、質問の意味が分からないように眉を寄せた。
「傷が残っている間は、動かさずに治癒術をかける。傷が消えたら、食事と休養で魔力と体力が戻るのを待つ。それが普通でしょう」
「体力が戻ったあとは?」
「動ける者は、自分で鍛錬へ戻るわ。兵士なら、身体の動かし方くらい知っているもの」
「戻れない人は、どうするのですか」
エヴァは答えなかった。
修司には、この世界の治療が、傷があるか、治っているかの二つに分けられているように思えた。
傷があれば、治癒魔法で元の形へ戻す。傷が消えれば、治療は終わる。そのあと身体を動かせる者は、自力で元の生活へ帰っていく。
だが、長く横になったことで失った筋力や、身体を起こしたときの目まい、動くことへの恐怖は、傷でも病気でもない。だから治癒魔法の対象にならず、治療を終えた人間がなぜ動けないのかという問題そのものが、医学から抜け落ちている。
魔法による治療があまりに優れていたからこそ、その先を支える技術が育たなかったのかもしれない。
「老人扱いされ、女どもに抱え上げられて喜ぶ男がいるものか」
目を閉じたまま、ベルンハルトが言った。
「父上、エヴァはあなたを助けようと――」
「分かっている。だから余計に腹が立った。傷を治した娘の前で、立つことすらできぬ自分にな」
エヴァが唇を噛む。
二年前、彼女はまだ二十代半ばだっただろう。若い治癒術師が辺境随一の名将を救い、傷を完全に治した。それでも患者は元の生活へ戻らなかった。
治療が成功したと胸を張ることも、失敗だったと認めることもできないまま、二年間抱えてきたのだろう。
「中止した判断は正しかったと思います」
修司が言うと、エヴァが顔を上げた。
「意識を失った人を、そのまま立たせ続けるわけにはいきません。ただ、立つか寝たままか、その二つだけになってしまった」
「他に何があるというの」
「私の世界には、傷を治したあと、その身体でもう一度生活できるようにする考え方がありました」
「傷が治っているのに、まだ治療をするの?」
「治療そのものとは少し違います。寝返りをする。上体を起こす。座る。足を床につける。いきなり立たせるのではなく、できる動きを一段ずつ確かめていくんです」
「そのような魔法があるの?」
「魔法ではありません。私の世界では、リハビリテーションと呼ばれていました」
エヴァは聞き慣れない言葉を、確かめるように繰り返した。
「リハビリテーション……」
「傷を治すためではなく、治った身体でもう一度暮らすためのものです」
「あなたは、その専門家なの?」
「違います。その方法を考える専門家は別にいました。私は、専門家が決めたことを、食事や着替え、移動といった毎日の生活の中で続ける側です」
エヴァはしばらく黙ったあと、ベッドの老人へ目を向けた。
「治癒術で治せないものを、治療ではない方法で戻すというのね」
「戻せるとは断言できません。ただ、立つか寝たままか、その間を細かく分けることはできます」
修司はベッドへ近づいた。
「いきなり立たない。まず、昨日より少しだけ上体を起こす。そこで顔色や呼吸が変わらないか、エヴァさんに診てもらう。問題があれば、すぐに元へ戻します」
「そんなことで身体が戻るの?」
「分かりません。ただ、二年間起こしていない身体を、最初から立たせるよりは安全です」
エヴァは考え込んだあと、ベルンハルトの左胸へ銀杖の先を当てた。
淡い緑色の光が、老人の胸から首筋へ広がる。
「今の脈と呼吸は安定している。身体を少し起こすだけなら、私が見ている間は試せるわ」
「私の同意は要らぬのか」
ベルンハルトが片目を開けた。
修司とエヴァが同時に口を閉じた。
「申し訳ありません」
修司はベッドの脇で頭を下げた。
「ベルンハルト様。昨日より少しだけ、身体を起こしてみませんか。途中でやめたくなったら、すぐにやめます」
「倒れたらどうする」
「今日は立ちません。倒れる場所まで行かないために、エヴァさんにもいてもらいます」
「随分と臆病なやり方だな」
「介護では、臆病なくらいでちょうどいいことがあります」
ベルンハルトは天井を見上げ、長く息を吐いた。
「やれ」
許可を得てから、修司は侍女に大きさの違う枕を二つ用意してもらった。
身体を引きずり上げるのではなく、まずベルンハルトに膝をわずかに曲げられるか尋ねる。右脚はほとんど動かなかったが、左の踵が寝具の上を指一本分だけ滑った。
「今、左脚はご自分で動かしました。そのまま力を抜いてください」
「この程度で褒めるな」
「分かりました。事実だけお伝えします」
修司はアマーリエと侍女に役割を説明した。肩、腰、脚をそれぞれ支え、合図を合わせて身体をわずかに横へ向ける。その隙間へ薄い枕を差し込み、今度はゆっくり仰向けへ戻した。
修司の視界に、淡い光の線が現れる。
ベルンハルトの肩と骨盤を結ぶ線。それに、アマーリエと侍女の手から伸びる二本の線が重なった。
一人で持ち上げようとしたときには見えなかった形だった。
《連携支援――仮接続》
《支援負荷を分散します》
文字が浮かんだ瞬間、三人の手へかかる重さがわずかに均等になった。
「今、何か……」
アマーリエが驚いたように手元を見る。
「そのままでお願いします」
修司は自分の驚きを押し込み、二つ目の枕を背中へ入れた。
上体が、寝台からほんの少し高くなる。
「エヴァさん」
「脈は少し速くなった。でも危険な変化ではないわ。ベルンハルト様、息苦しさは?」
「ない」
「目まいは?」
「少しだ」
「では、ここで止めましょう」
修司はそれ以上起こさなかった。
侍女が水を半分入れた杯を、右手の届く位置へ置く。
ベルンハルトが腕を伸ばした。
昨日と同じように手は震えていたが、上体がわずかに起きたことで、杯を口元へ運ぶ距離は短くなっている。
修司は手を出さず、すぐ支えられる位置で待った。
杯の縁が、老人の唇へ届いた。
一口飲んだところで水がこぼれ、寝衣の胸元を濡らした。それでもベルンハルトは、自分の手だけで杯を小卓へ戻した。
「できましたね」
「水を飲んだだけだ」
「はい。ご自分で水を飲まれました」
修司は、それ以上の意味を言葉にしなかった。
エヴァは銀杖を胸へ当てたまま、老人と杯を見比べている。
「私はずっと、立てるかどうかだけを見ていた」
独り言のような声だった。
「私も一人なら、見落とすことがあります」
「慰めているつもり?」
「次に見落とさないための話です」
エヴァが修司を見る。
刺すようだった淡緑色の瞳から、わずかに敵意が消えていた。
「次は、何をするの」
「その前に、決めることがあります」
修司はベルンハルトへ尋ねた。
「もう一度身体を動かせるようになったら、最初に何をしたいですか」
「立つに決まっている」
「立って、何をしたいのでしょう」
ベルンハルトの眉間に皺が寄る。
「目標が立つことだけなら、苦しい練習に耐える理由がなくなります。椅子に座りたい。家族と食事をしたい。誰かに会いたい。どんな小さなことでも構いません」
「小さなことなど、何もない」
老人は吐き捨てるように言った。
だが、その視線が窓へ動いたことを、修司は見逃さなかった。
カーテンは半分開いている。しかし、寝たままの位置から見えるのは、白い天井と窓枠の上端だけだった。
「外が見たいのですか」
ベルンハルトは答えない。
「昨日、窓を開けたとき、風の音を聞いておられました」
「……北壁だ」
しばらくして、老人が呟いた。
「この部屋の窓からは、ベルグランの北壁が見える。二年前まで、毎朝その壁を見てから一日を始めていた」
青灰色の空の下、魔物の脅威から街を守る城壁。
かつて《北境の獅子》と呼ばれた男は、二年間、自分が守ってきた壁を見ることさえできなかった。
「では、まず窓の外を見ましょう」
「俺を窓辺まで運ぶ気か」
「いいえ。ご自分で窓の外を見られる姿勢を、一緒に探します」
修司の視界に、再び文字が浮かんだ。
《本人の意思を確認》
《支援目標――北壁を見る》
《生活支援計画を作成できます》
淡い光はベルンハルトだけでなく、銀杖を持つエヴァと、枕を支えるアマーリエの手にも伸びていた。
一人の身体を、一人の力で起こすのではない。
治す者。支える者。見守る家族。そして、もう一度自分の生活を取り戻そうとする本人。
その全員が同じ目標を持ったとき、初めてつながる道がある。
「タカセ」
エヴァが、今度は職名ではなく修司の名を呼んだ。
「明日も私を呼びなさい。その計画が安全かどうか、私が確かめる」
修司は頷いた。
「お願いします」
ベッドの上で、ベルンハルトが小さく鼻を鳴らした。
「話はまとまったようだが、いつまで俺をこの中途半端な姿勢で放っておくつもりだ」
その声に、昨日より少しだけ張りが戻っていた。




