第五話 傷は治っている
「帰れ」
ベルンハルトの掠れた声が、薄暗い部屋に落ちた。
修司は頭を下げた。しかし、すぐにはその場を離れなかった。
「分かりました。治療も、無理に身体を起こすこともしません。ただ、一つだけ教えていただけますか」
「何だ」
「今、一番つらいのはどこですか」
老人の眉が動いた。
これまで訪れた神官や治癒術師は、古傷の場所を尋ねたのだろう。だが、修司が聞いたのは傷のことではなかった。
「……どこもかしこもだ」
「痛みですか。息苦しさですか。それとも、身体の置き場がないようなつらさでしょうか」
「質問が多い男だな」
「申し訳ありません。見ただけでは分からないことが多いので」
ベルンハルトは鼻を鳴らした。
「五分だ。それを過ぎたら出ていけ」
「ありがとうございます」
修司は扉を越えた。
部屋へ入ると、淀んだ臭いはいっそう強くなった。窓だけではない。暖炉の火も消えかけ、空気が冷えて湿っている。
ベッドの脇まで進んだが、老人の身体には触れなかった。
「窓を少し開けてもよろしいですか」
「勝手にしろ」
修司はカーテンを半分だけ開き、窓を指二本分ほど開けた。冷たい風を直接ベッドへ当てないよう、片側だけにする。
夕方の淡い光が差し込んだ。
明るくなった室内で見ると、ベルンハルトの衰えはさらに明らかだった。
頬はこけ、唇は乾いている。呼吸は浅く、ときおり痰の絡んだ咳が出る。毛布の下の両脚は、かつて大柄な身体を支えていたとは思えないほど細い。
修司は水差しへ目を向けた。ベッドから腕を伸ばしても届かない小卓の奥に置かれている。
「水は、いつ飲まれましたか」
「知らん」
アマーリエが答えた。
「昼食のときに、侍女が」
「ほとんど口をつけておられませんでした」
戸口に控えていた侍女が、おそるおそる付け加えた。
昼から何時間も経っている。
「水差しは、いつもあの場所に?」
「以前は枕元に置いていました。ですが旦那様が何度か倒されて、寝具を濡らしてしまったので……」
「余計なことを言うな」
ベルンハルトの声に、侍女が身をすくませた。
修司には事情が見えた。
手元が弱り、水差しを倒す。片づける側は、倒されない場所へ移す。すると飲むたびに人を呼ばなければならない。かつて何千もの兵を率いた男にとって、それは水を我慢する方がましだと思うほどの屈辱だったのかもしれない。
誰かが怠けたわけではない。
だが、小さな不都合が積み重なり、本人のできることを一つずつ奪っている。
「この杯なら、持てますか」
修司は水を半分だけ注いだ。軽くした杯を、老人の右手が届く位置へ置く。
「子ども扱いするな」
「ご自分で飲めると思ったので、ここへ置いただけです」
ベルンハルトが修司を睨む。
やがて毛布の上にあった右手が動いた。
節くれだった指が杯へ伸びる。だが腕は途中で震え、指先が縁に触れたところで止まった。
修司は手を出さずに待った。
「支えが必要なら、おっしゃってください」
「要らん」
老人は歯を食いしばり、もう一度腕を伸ばした。今度は杯をつかんだが、持ち上げた途端に水面が大きく揺れる。
「杯の底だけ支えてもいいですか」
返事はなかった。
代わりにベルンハルトは、杯を持った手を修司の方へほんの少し傾けた。
修司は両手で奪うのではなく、杯の底へ指を添えた。ベルンハルト自身の手で口元まで運べるよう、重さだけを受ける。
一口。
老人の喉が動いた。
二口目を飲み終えると、ベルンハルトは疲れたように枕へ頭を沈めた。
その瞬間、修司の視界に淡い光が走った。
街道の砦で見たものと同じ光だった。
老人の手から肩へ。肩から背へ。さらに毛布の下を通って、骨盤と両脚へ細い線が伸びていく。
だが、若い兵士のときとは違う。
右手から肩へ伸びた光は、ベルンハルトが杯を持ち上げようとする動きに合わせて強くなった。修司が指を添えた場所だけ、途切れていた線が短くつながっている。
一方、胸から下へ伸びた光は薄く、毛布の奥で消えていた。脚がどのような状態なのかまでは分からない。
この光が示しているのは、病気や傷の正体ではない。
本人が何をしようとしているのか。そのために、どこへ、どの程度の支えが必要なのか。
修司には、そう思えた。
そして、視界の端に薄い文字が現れた。
《生活動作把握》
《支援経路――不完全》
《情報不足》
《本人の意思と専門的判断が必要です》
読んだ途端、こめかみの奥が鋭く痛んだ。
修司は思わずベッドの縁へ手をつきそうになり、踏みとどまった。光と文字はすぐに消えた。
何でも見抜ける力ではない。
見て、聞いて、本人の意思を確かめる。そして、自分に分からないことは、分かる者に尋ねる。そうしなければ、先へは進めないらしい。
「顔色が悪いぞ」
ベルンハルトが言った。
「……慣れない旅の疲れです」
「人の心配をしている場合か」
「それは、お互い様ですね」
老人の目に、わずかな光が戻った。怒りか、呆れか。それでも先ほどまでの濁った無関心とは違っていた。
「父に、何をした」
クラウディアが修司の背後から尋ねた。
「水を飲むのを少し手伝っただけです」
「そんなことは、侍女も毎日している」
「侍女の方が飲ませるのと、ご本人が杯を持って飲むのは同じではありません」
修司はベルンハルトへ向き直った。
「足の状態を見たいのですが、毛布をめくってもよろしいですか。触れる前にも、必ず声をかけます」
「もう五分は過ぎた」
「では、今日はここまでにします」
修司が素直に一歩下がると、ベルンハルトが怪訝そうに眉を寄せた。
「見なくていいのか」
「約束しましたから」
「この脚を見ずに、何が分かった」
試すような声だった。
修司は言葉を選んだ。
「水分も食事も足りていないように見えます。長く横になっていたことで、腕や脚の力も落ちているでしょう。咳と呼吸も気になります」
「随分と分かったように言うではないか」
「いいえ。見ただけで分かるのは、そこまでです」
修司は首を横に振った。
「脚の関節がどこまで動くのか。身体を起こしても危険はないのか。痛みの原因が何なのか。そうしたことは、私には判断できません」
「傷の話はしないのだな」
「傷は、もう治っているのでしょう」
クラウディアの表情が硬くなった。
「だから言ったはずだ。父の身体に傷は残っていない。立てないのは――」
「意思がないから、ですか」
「そうだ」
「違うと言い切ることは、まだできません」
修司は静かに答えた。
「ただ、二年間ほとんど身体を起こさず、食べる量も飲む量も減った人へ、立とうと思えば立てると言うこともできません。今のベルンハルト様に、いきなり立てと言えば、転倒するか、身体を壊します」
アマーリエが胸元で両手を握った。
「では、もう立てないのでしょうか」
「分かりません」
修司は断言した。
希望を与えるための嘘は、絶望を少し先へ延ばすだけだ。
「私は治癒術師ではありません。失われた力を一晩で戻すことも、固くなった関節を魔法で治すこともできません」
「では、何ができる」
ベルンハルトの問いだった。
修司は、かつて働いていた施設を思い出した。
介護士だけで、高齢者の暮らしを支えていたわけではない。
医師が病気を診る。看護師が体調を管理する。理学療法士が、立つ、座る、歩くといった動きを評価する。食べる力や言葉の問題には、また別の専門職が関わる。
そして介護士は、それぞれの判断を毎日の生活へつなげていた。
「私のいた世界には、身体を診る者とは別に、立つことや歩くことを専門に考える職業がありました」
「お前は、その専門家なのか」
「違います」
修司ははっきり答えた。
「私は介護士です。専門家が考えた方法を、食事や着替え、椅子への移動といった毎日の暮らしの中で続ける側でした。水を飲む。食べる。身体を清潔にする。人の手を借りながらでも、自分でできることは自分でする。そうした生活を整えるのが、私の仕事です」
「では、お前一人では父を立たせられないということか」
クラウディアの問いに、修司は頷いた。
「はい。私一人で何でもしようとすれば、かえって危険です」
「王都から送られてきた者が、できないことを堂々と並べるとはな」
クラウディアの声には、呆れと苛立ちが混じっていた。
「できないことを隠して人の身体に触れる方が、私は怖いと思います」
修司は視線を逸らさなかった。
「一人で何でもしないことも、介護の仕事です。この世界で身体を診られる方に、ベルンハルト様を一緒に見ていただきたいのです」
クラウディアの表情が険しくなる。
「エヴァは、父の傷は治っていると診断した治癒術師だ。今さら呼んで、あの者の判断が間違っていたと言うつもりか」
「いいえ。傷を治した方だからこそ、話を聞きたいのです。どこを負傷し、どんな治療をして、その後どのように身体が変わったのか。私には分からないことを、その方は知っているはずです」
クラウディアは言葉を失った。
「治癒術師の代わりになるつもりはありません。治癒術師にも、介護士の代わりはできません。互いに分かることを持ち寄らなければ、ベルンハルト様の暮らしは戻せないと思います」
「一人で父を救うと言わないのですね」
アマーリエが静かに尋ねた。
「言えません。救うかどうかを決めるのも、私ではありません」
修司はベッドの老人を見た。
「最後に決めるのは、ベルンハルト様です」
「それで、父が立つと?」
「立てるとは約束できません」
クラウディアの青灰色の目を、修司は正面から見返した。
「ですが、傷が治った後に失ったものなら、取り戻せる可能性はあります」
部屋が静まり返った。
風に押され、開けた窓からカーテンが小さく揺れる。
「傷は治っています」
修司は、今度は家族全員へ向けて言った。
「でも、ベルンハルト様の生活は、二年前から止まったままです」
クラウディアが息を呑んだ。
ベルンハルトだけは、修司から目を逸らさなかった。
「タカセ、といったな」
「はい」
「明日の朝、もう一度来い」
「よろしいのですか」
「勘違いするな。立たせてみせるなどと抜かした治療屋は、これまでにもいた。お前が同じ法螺吹きかどうか、見定めるだけだ」
老人は右手の杯を、もう一度持ち上げようとした。今度も口元までは届かなかったが、誰かに持たせることも、投げ捨てることもしなかった。
「それから、エヴァを呼べ」
クラウディアが目を見開く。
「父上」
「あの娘は二年前、傷は治したが、俺を立たせることはできぬと言った。こやつは、自分一人では立たせられぬと言う。できぬ者同士を並べれば何ができるのか、見てみたくなった」
老人の声は弱い。
それでも、その目にはかつて兵を震え上がらせた老将の険しさが、ほんの少しだけ戻っていた。
その言葉は皮肉めいていた。
だが、二年間あらゆる治療を拒んできた男が、自分から治癒術師を呼べと言ったのだ。
「明朝、エヴァも呼びます」
クラウディアが答えた。
修司は小さく息を吐いた。
介護は、一人ではできない。
世界が変わっても、それだけは同じらしい。
「分かりました。ただし、明日も五分で追い出されるかもしれません」
「そのときは、今日よりましな質問を持ってこい」
修司は深く頭を下げた。
立たせる以前に、しなければならないことが山ほどある。
水を飲むこと。食べること。眠ること。呼吸すること。自分の意思で身体を動かすこと。
どれも英雄の武勇譚には残らない、小さな営みだ。
だが人は、その小さな営みを積み重ねなければ、立つことさえできない。
部屋を出る直前、修司はもう一度、老人の手元を見た。
まだ水の残った杯を、ベルンハルトは自分の右手で握っていた。




