第四話 銀狼の領主代行
「あなたが、王都から送られてきた《生活支援士》か」
赤銅色の髪の女は、馬車から降りた高瀬修司をまっすぐ見据えた。
背は修司とほとんど変わらない。紺色の軍装に銀の胸当てを重ね、肩から羽織った外套には、牙を剥く銀狼の紋章が刺繍されている。
ほどけば腰まで届きそうな髪は固く編まれ、太い編み髪が肩から胸へ垂れていた。青灰色の瞳は冷たく、左の眉尻には細い傷が走っている。
「はい。高瀬修司といいます」
「クラウディア・グランフェル。この領地を預かっている」
護送隊長と兵士たちが、「領主代行閣下」と揃って頭を下げた。
名乗りは短かった。
三十代半ばほどだろうか。鍛えられた身体と右手の剣だこは、彼女が飾り物の領主ではないことを物語っていた。
一方で、王都からの命令書を受け取った左手の中指には、黒いインクが染みついている。
剣を握り、同じ手で書類にも向き合っている。
修司がそう考えている間に、クラウディアは封を切った。
文面を追うにつれて、彼女の眉間の皺が深くなる。
「我々が王都へ求めたのは、兵と治癒術師、それに冬を越すための食糧だ」
低い声だった。
「それに対する返答が、異世界から召喚した老人の世話係一人か」
修司の胸に、鈍いものが刺さった。
老人と呼ばれたことではない。王都の人間と同じように、自分が物のように送りつけられたことに腹が立った。
「私も、望んで送られてきたわけではありません」
クラウディアが顔を上げる。
「夜勤という仕事の途中で、何の説明もなく召喚されました。元の世界へ戻す方法はないと言われ、その場でこちらへ行けと命じられただけです」
「だから同情しろと?」
「いいえ。ただ、王都への怒りを私へ向けても、兵も食糧も増えません」
門前の空気が張りつめた。
護衛の兵士たちが、修司とクラウディアを見比べる。
修司自身、なぜこんな言い方をしたのか分からなかった。十日の旅と、城門前で見た人々の姿に、余裕をなくしていたのかもしれない。
クラウディアは怒鳴らなかった。
ただ、青灰色の目で修司をしばらく見つめた。
「……少なくとも、王都の顔色をうかがう男ではないらしい」
彼女は視線を馬車へ移した。
座席には、途中の砦から乗せてきた若い負傷兵がいる。
「その者は?」
護送隊長が前へ出た。
「街道の砦に残されるところでした。傷は治っておりますが、二十日間寝たきりで歩けず。この男が状態を見て、自分の席を譲りました」
「治癒術師ではないのだろう」
「傷を治したわけではありません」
修司が答える。
「立ち上がるための足の位置と、支える場所を整えただけです。歩ける状態ではないので、まず休ませた方がいいと思います」
クラウディアは負傷兵の細くなった脚を見た。
ほんの一瞬、その目から険しさが消えた。
「衛兵。その者を療養棟へ。無理に歩かせるな」
「はっ」
すぐに担架が運ばれてくる。負傷兵は何度も修司へ頭を下げながら、館の脇にある建物へ運ばれていった。
クラウディアは命令書を折り畳んだ。
「旅の途中で一人を助けたことには礼を言う。だが、それと父の件は別だ」
「ベルンハルト様のことですね」
「父の傷は、二年前に治っている」
その言葉に、修司は街道の砦で出会った若い負傷兵を思い出した。
「それでも、起きられないのですか」
「起きようとしないのだ」
答えが鋭くなる。
「王都の高位神官も、名のある治癒術師も診た。骨も筋も内臓も、傷は残っていない。それでも父は剣を置き、部屋へ閉じこもった」
「二年間、一度もベッドから?」
「必要なときには侍女が身体を起こす。だが、自分の足で立ったことはない」
「食事は。排泄は。身体を動かす訓練はしていますか」
「侍女が世話をしている」
「具体的には、どのくらい食べて、どのくらい水分を取っていますか。寝返りは自分でできますか。座っていられる時間は」
クラウディアの目が細くなった。
「質問が多いな」
「見ないまま判断することはできません」
「見る必要はない」
彼女は断ち切るように言った。
「父に必要なのは、身の回りの世話をする者ではない。もう一度立つという本人の意思だ。見知らぬ異界人を会わせて、これ以上傷つけるつもりはない」
その言葉の奥に、修司は別の感情を感じた。
苛立ちだけではない。
期待して、裏切られることへの恐れ。
二年間、何人もの治療者を招き、そのたびに何も変わらなかったのだろう。
「分かりました」
修司が答えると、クラウディアはわずかに意外そうな顔をした。
「無理に会わせてくれとは言いません。ただ、私は王都の人間ではありません。ここへ来るまで、お父上の名前さえ知りませんでした」
「それが何だ」
「私ができることも、まだ分かりません。だから、できると約束するつもりもありません」
治せます。立たせます。
そう断言する方が、相手の期待を得るのは簡単だ。
だが、修司はそんな言葉を口にできなかった。
「状態を見て、分からないことは分からないと言います。それだけです」
クラウディアは返事をしなかった。
「では、この者はどうなさいますか」
護送隊長が遠慮がちに尋ねる。
「王命には、グランフェル家で使えとあります。送り返せば命令違反になりますが」
「王都へ戻す馬車も、護衛も、我が領には余っていない」
クラウディアは疲れたように眉間を押さえた。
そのとき、館の扉が開いた。
「でしたら、今夜はこちらで休んでいただきましょう」
静かな声とともに、一人の女性が姿を現した。
六十代半ばほどだろう。銀の混じった髪を後ろでまとめ、質素だが丁寧に仕立てられた濃緑の服を着ている。
「母上」
クラウディアの声から、初めて領主ではない娘の響きが漏れた。
「アマーリエ・グランフェルです。遠いところを、よくお越しくださいました」
夫人は修司へ頭を下げた。
修司は慌てて頭を下げ返す。
「高瀬修司です。ですが私は、歓迎されるような立場では……」
「それを決めるのは、少なくとも王都ではありません」
穏やかな声だったが、言葉には芯があった。
アマーリエは娘へ向き直る。
「クラウディア。この方に一晩休んでいただくことくらいはできます」
「母上、しかし」
「王都が何を考えているかは、私にも分かりません。ただ、この方は自分の席を傷ついた兵へ譲ったのでしょう」
アマーリエの目が、泥に濡れた修司の外套と、御者台に座り続けて固くなった足へ向けられた。
「肩書より、その人が何をしたかを見なさい。あなたのお父様が、いつも言っていたことです」
クラウディアは唇を結んだ。
しばらくして、諦めたように息を吐く。
「……一晩だけだ」
「ありがとうございます」
「礼は不要だ。明日の朝、今後の扱いを決める」
修司は館へ通された。
外から見た通り、内部も傷んでいた。雨漏りを受ける桶。消えたままの壁灯。広い廊下に対して、働く使用人の姿はあまりに少ない。
かつての威厳を、残った者たちが懸命に支えている。
この館もまた、できる形に整えられないまま耐えているように見えた。
アマーリエが修司の部屋を用意するよう侍女へ伝えたあと、小さく言った。
「タカセ様。厚かましいお願いだと承知しています」
「はい」
「夫を、扉の外からだけでも見ていただけませんか」
「母上!」
「診察をお願いするのではありません。ただ、本当に何もできないのかを、私も知りたいのです」
クラウディアの顔に、怒りと迷いが交差した。
やがて、低い声で言う。
「父が拒んだら、すぐに下がってもらう。それが条件だ」
「分かりました」
三人は、館の最も奥にある部屋へ向かった。
廊下を進むにつれ、人の気配が薄くなる。
重い扉の前で、アマーリエが足を止めた。
中から咳が聞こえた。
侍女が扉を細く開ける。
淀んだ空気が、廊下へ流れ出した。
薬草と汗。それに、長く閉め切った部屋の臭い。
厚いカーテンが窓を覆い、室内は夕方だというのに暗い。
大きなベッドの上に、一人の老人が横たわっていた。
かつて《北境の獅子》と呼ばれた男。
ベルンハルト・グランフェル、六十九歳。
大きな肩も腕も、毛布の下で見る影もなく痩せている。頬は落ち、白髪と髭は伸びたままだった。
老人がゆっくり顔を向けた。
「また……王都の治療屋か」
掠れた声だった。
「違います」
修司は扉の外から答えた。
「私は、生活支援士です」
ベルンハルトの口元が歪んだ。
「世話係か。ならば、なおさら要らん。帰れ」
修司は反論しなかった。
ただ、老人だけではなく、部屋全体を見ていた。
閉ざされた窓。手の届かない場所にある水差し。ほとんど減っていない食事。沈み込んだ寝具。動かされた形跡のない椅子。
そして、毛布の下で不自然な角度のまま固まっている両脚。
傷を見る前に、見るべきものが多すぎた。




