第三話 滅びかけた辺境
王都アルシオンを出て、十日目の朝。
高瀬修司を乗せた馬車は、泥に覆われた北街道を進んでいた。
王都を出た頃には、石を敷き詰めた道の両側に麦畑が広がっていた。荷馬車が行き交い、宿場には商人の声もあった。
北へ向かうにつれて、景色から色が消えていった。
刈り入れる者のいない畑。屋根の焼け落ちた家。崩れたまま放置された見張り台。
南へ歩く人の列と、何度もすれ違った。
老人を背負う若者。片方の車輪が歪んだ荷車を引く夫婦。毛布に包んだ子どもを抱く母親。
荷物は、誰もが驚くほど少ない。
「あの人たちは、どこへ行くんですか」
修司が尋ねると、向かいに座る護送隊長は窓の外を見たまま答えた。
「南の親類か、王都の救民院だ。入れればの話だがな」
「元の村には戻らないんですか」
「戻って何を食う。畑は魔物に荒らされ、働ける男は兵に取られた。冬を越せずに死ぬより、南で物乞いをする方がましだ」
淡々とした口調だった。
それだけ、ありふれた光景なのだろう。
修司は膝の上で拳を握った。
王宮で聞いた「存亡の危機」という言葉が、初めて人の顔を持った。
彼自身も、まだ自分の置かれた状況を受け入れられたわけではない。
王宮を出る前に、粗末な旅装と外套を渡された。夜勤用のポロシャツとズボンは、布袋へ入れて今も足元に置いてある。
業務用の携帯端末は、何度電源を押しても黒いままだった。
最初の数日は、眠ろうと目を閉じるたびに施設の廊下が浮かんだ。
朝になったら同僚は何を思っただろう。警察は防犯カメラを確認しただろうか。篠原は、自分と交わした約束を覚えているだろうか。
考えても答えは出ない。
それでも馬車は、修司の意思に関係なく北へ進み続けた。
街道脇に、三人の兵士が座り込んでいるのが見えた。
二人は腕や頭に汚れた布を巻き、一人は木の枝を杖代わりにしている。彼らの横を通り過ぎようとした馬車が、短く速度を落とした。
「負傷しているようですが」
「南の治療所へ戻る途中だろう」
「迎えは来ないんですか」
「そのための馬車がない」
護送隊長は、当然のことのように言った。
「治癒魔法は?」
「あんなものを使えるのは、神官か宮廷に認められた治癒術師くらいだ。辺境にもいるが、重傷者を塞ぐだけで精一杯だろうよ」
傷を塞ぐ。
その言い方が、修司の耳に残った。
怪我が治ったあと、歩けるようになるまで誰が支えるのか。長く寝込んで筋力を失った者は、どうするのか。食事や排泄に手を借りなければならなくなった者は。
尋ねかけて、やめた。
兵を運ぶ馬車さえない土地に、その先を考える余裕があるとは思えなかった。
昼を過ぎる頃から、細かな雨が降り始めた。
石畳はとっくに途切れ、道は二本の轍が刻まれただけの土へ変わっている。
馬車が大きく揺れるたび、修司の右腰に痛みが走った。十日も硬い座席に揺られ続けたせいで、足にも痺れがある。
休憩のたびに身体を伸ばしていたが、五十二歳の身体には堪えた。
馬車は、街道脇に残る小さな砦で止まった。
砦といっても、片方の見張り塔は崩れ、木柵の半分は焼けている。中庭には天幕が張られ、負傷兵たちが雨を避けていた。
馬へ水を飲ませている間に、護送隊も短い休息を取ることになった。
修司が馬車を降りると、天幕の方から怒声が聞こえた。
「傷はもう塞がっている。いつまで寝ているつもりだ!」
二人の兵士が、藁の上に座る若い男を両脇から抱えていた。
男の左脚には、腿から膝にかけて赤黒い傷痕が走っている。しかし出血はなく、皮膚は完全に閉じていた。
「治癒術師が治したんだ。歩けるはずだろう」
「すみません。でも、脚に力が……」
「ベルグランへ送る荷車は重傷者で一杯だ。歩けなければ、ここに残るしかないぞ」
若い兵士は歯を食いしばり、二人に引き上げられた。
両腕をつかまれ、足が地面につく。
立った、というより吊り下げられているだけだった。
一歩踏み出そうとした途端、左膝が折れた。
「根性を見せろ!」
倒れかけた身体を、兵士たちが腕の力で引き上げる。若い男の顔から血の気が引き、呼吸が急に浅くなった。
「待ってください!」
修司は天幕へ駆け寄った。
「いったん座らせてください。このままでは転びます」
「何者だ」
「王都から来た《生活支援士》です」
兵士たちは顔を見合わせた。聞き慣れない職名に戸惑ったが、若い男が再び膝を崩したため、渋々藁の上へ戻した。
修司は正面へしゃがみ、目線を合わせた。
「気分が悪いですか。吐き気や、目の前が暗くなる感じは?」
「少し……くらくらします」
「どのくらい寝ていました?」
「二十日ほどです。昨日、治癒術師様が最後の術を」
修司は左右の脚を見比べた。
左脚は右脚より明らかに細い。長く横になっていたためか、背中も丸まり、座っているだけで身体が少しずつ右へ傾いている。
傷は治っている。
だが、立って歩くための身体までは戻っていない。
「水は飲めていますか。食事は?」
「今朝、薄い粥を少し」
「分かりました。しばらく座ったままでいましょう」
「しかし、出発しないと……」
若い男が焦ったように立とうとする。
修司は肩を押さえず、言葉で止めた。
「今すぐ歩けば、また倒れます。傷口が開くかもしれない」
「傷は治っていると言っただろう」
先ほどの兵士が苛立った声を上げた。
「はい。傷は治っています。でも、この人の身体は二十日間、ほとんど動いていない」
修司は若い男の細くなった脚を示した。
「治ったことと、元に戻ったことは同じではありません」
周囲が静かになった。
護送隊長も、いつの間にか後ろへ来ていた。
「では、どうする。ここへ置いていけば、次にベルグランへ向かう荷車がいつ来るか分からん」
修司は自分たちの馬車を見た。
「私が座っていた場所を使ってください。ベルグランまでなら運べます」
「お前はどうする」
「御者台の横へ座ります。それで、この人を馬車へ移すのを手伝ってください」
修司は若い男へ向き直った。
「もう一度だけ立ちます。ただし、歩くためではありません。馬車へ乗るためです。できますか」
若い男は不安そうに傷痕を見たあと、小さく頷いた。
修司は両足の位置を整えた。左脚へ体重をかけすぎないよう、右足を少し後ろへ引かせる。
兵士の一人には背後へ回ってもらい、いつでも支えられる位置に立たせた。
「腕を引っ張らないでください。脇へ手を入れるのもやめましょう。私が合図したら、腰の近くを支えてください」
若い男が前へ身体を傾ける。
その瞬間、修司の視界に淡い光が浮かんだ。
男の身体を縦に貫く一本の線。足元から前へ伸びる線。そして肩甲骨と骨盤の近くに、小さな光の点。
驚いて瞬きをすると、光は消えた。
だが、どこを支えればよいのかは、手に取るように分かった。
「急がなくて大丈夫です。自分の足で床を押してください」
若い男の重心が前へ移る。
「今です」
修司と兵士が、身体を持ち上げるのではなく、立ち上がる方向を支えた。
若い男の腰が上がる。
両脚は震えていた。それでも今度は、腕で吊られることなく、自分の足で立っていた。
「立てた……」
「立てました。でも、まだ歩かせません」
修司はすぐ横に寄せた馬車へ向きを変えさせ、ゆっくり座席へ腰を下ろしてもらった。
男が安堵したように息を吐く。
「この人は歩けないんじゃありません。歩ける身体に、まだ戻っていないだけです」
護送隊長が、修司をじっと見つめていた。
「生活支援士というのは、治癒術師なのか」
「違います。傷を治すことはできません」
「なら、今のは何だ」
「この人が持っている力を、使える形に整えただけです」
修司はそう答えながら、自分の両手を見た。
先ほど見えた光の線は何だったのか。
神託盤で《生活支援士》の下に見えた、消えかかった文字。それと関係があるのだろうか。
護送隊長が低い声で尋ねた。
「お前が世話を命じられたベルンハルト様も、二年間、床から起きておられない」
「二年……」
二十日とは比べものにならない。
修司は北へ続く道を見た。
自分がこれから会う老将の身体で、何が起きているのか。
まだ見てもいないのに、胸の奥へ重い予感が沈んだ。
夕刻、雨が上がった。
街道の先に、黒々とした城壁が見え始める。
城塞都市ベルグラン。
レーヴァルト王国の北端を守り、灰冠山脈から現れる魔物を食い止めてきたグランフェル辺境伯領の中心都市。
かつては北方随一の堅城だったという。
だが近づくにつれ、修司にも異変が分かった。
城壁には幾つもの亀裂が走り、崩れた箇所を丸太と土嚢で塞いでいる。見張り塔の屋根は半分焼け落ち、掲げられた旗は端が裂けていた。
城門の前には、入城を待つ人々が長い列を作っている。
痩せた子ども。空の籠を抱えた老人。包帯を巻いた兵士。
誰の顔にも、疲労と諦めがこびりついていた。
門をくぐると、鼻を刺す臭いがした。
排水溝には濁った水が淀み、そのすぐ横で食料が売られている。道端には咳き込む人が座り込み、裸足の子どもが走っていた。
修司の目が、無意識に一つずつ問題を拾っていく。
水。衛生。栄養。住居。負傷者。人手。
どれか一つを直せば済む状態ではない。
「これが……滅びを待つ辺境」
修司の呟きに、護送隊長は答えなかった。
坂の上には、古びた辺境伯の館が建っていた。
その門前に、一人の女が立っている。
銀狼の紋章を刻んだ胸甲。肩で揺れる赤銅色の髪。まっすぐこちらを射抜く、青灰色の瞳。
女は馬車から降りた修司を一瞥し、低い声で尋ねた。
「あなたが、王都から送られてきた《生活支援士》か」
歓迎の色は、その顔のどこにもなかった。




