第二話 失敗した救国召喚
「……なんだ、この中年男は」
誰が口にしたのか、修司には分からなかった。
金糸の法衣をまとった老人たち。壁際に並ぶ兵士。階段状の壇上からこちらを見下ろす、王冠を載せた男。
少なくとも、歓迎されてはいないらしい。
心臓が、耳の奥で鳴っていた。
息を吸っても、胸の奥まで入ってこない。石床へついた右手が、自分のものではないように震えている。
夢なのか。施設の廊下で倒れて、意識を失っているのか。それとも、何かの撮影に巻き込まれたのか。
どれも目の前の光景を説明できなかった。
立たなければと思うのに、膝へうまく力が入らない。
修司は目を閉じ、無理にでも一度、息を吐き切った。
夜勤中に異変が起きたとき、想像だけで動いてはいけない。まず呼吸、意識、外傷。分かることから一つずつ確かめる。
今は、その手順にすがるしかなかった。
修司は片膝をついたまま、自分の身体を確認した。
右腰にいつもの鈍い痛み。手足は動く。頭も打っていない。ポケットには業務用の携帯端末とボールペン。胸には施設名と「高瀬修司」と書かれた名札が残っている。
怪我がないと分かると、次に浮かんだのは三〇七号室のことだった。
篠原さんは眠っている。だが、朝まであと四時間ある。昼間に熱を出した入居者もいる。今夜の勤務者が自分一人だったわけではないが、何の引き継ぎもなく消えたのだ。
「あの」
修司が立ち上がると、壁際の兵士たちが一斉に剣の柄へ手をかけた。
彼は両手を見える位置まで上げた。
「ここは、どこですか」
自分の声が石造りの広間へ響く。
日本語で話したはずだった。しかし、彼らには通じたらしい。壇上の男が眉を動かした。
「異界の者よ。ここはレーヴァルト王国、その王都アルシオンである」
男の口から出た音は聞いたこともないものだった。それなのに、意味だけは明瞭に理解できた。
理解できてしまうことが、かえって恐ろしかった。
それでも修司は、混乱を表へ出さないよう一度だけ深く息を吸った。落ち着いたのではない。質問する以外に、何をすればいいのか分からなかっただけだ。
「私をここへ連れてきたのは、あなた方ですか」
「いかにも」
「では、元の場所へ戻してください。私は勤務中です。私がいなくなると困る人たちがいます」
広間に、ざわめきが広がった。
誰かが「勤務」と「勇者」の関係を尋ね、別の誰かが「自分の立場を理解していない」と鼻で笑った。
修司は壇上から目を逸らさなかった。
「まず状況を説明してください。ここへ来ることに、私は同意していません」
「王の御前であるぞ!」
兵士の一人が怒鳴る。
それを王が片手で制した。
「異界の者が困惑するのも無理はない」
穏やかな言葉だったが、その顔には歓迎より品定めの色が濃い。
「我が国は今、北より押し寄せる魔物と、長く続く凶作によって存亡の危機にある。古き盟約に従い、世界の外より救国の力を持つ者を招いた。それが、そなたである」
「それで、帰る方法は」
王は答えず、召喚陣を囲む老人へ視線を送った。
法衣の中でもひときわ豪華な衣をまとった老人が、杖にすがりながら進み出る。額には大粒の汗が浮かび、指先が細かく震えていた。
「召喚の術は、一方より道を開くもの。帰還の術は……伝わっておりませぬ」
修司は言葉を失った。
戻れない。
その言葉だけが、頭の中で何度も繰り返された。
三〇七号室の薄暗い室内。掛け布団をかけた篠原の姿。「あなたも、無理しちゃだめよ」と言った声。
朝になれば、同僚は空になったスタッフルームを見つける。業務用端末と名札ごと消えた自分は、失踪者として扱われるのだろうか。二度とあの廊下へ戻れないのか。
指先から熱が引き、視野が狭くなる。
修司は右手を握り込み、爪が掌へ食い込む感触を確かめた。
ここで倒れても、誰も自分の事情を知っている者はいない。
「……戻せないのに、呼んだんですか」
ようやく出た声は、ひどく掠れていた。
「我らにも、国を守らねばならぬ事情がある」
「私にも、守るべき人たちがいます」
抑えたつもりでも、声が震えた。
怒鳴っても何も解決しない。修司はそれを知っている。混乱している相手へ強い言葉をぶつければ、余計に話が通じなくなる。
だが、だからといって納得したわけではなかった。
法衣の老人がよろめいた。
修司は反射的に一歩出たが、両脇の神官が先に老人を支えた。
顔色が悪い。唇も乾いている。大きな術を使った反動なのかもしれない。
「その人を座らせた方がいい。水分も――」
「異界人が、宮廷魔術師長へ指図するな」
黒い礼服の男が、冷たい声で遮った。
「陛下。まずは神託盤にて、この者の天職をお確かめください。姿形だけで判断するのは早計にございましょう」
「うむ」
王が頷くと、神官たちが人の背丈ほどある白い石板を運んできた。
表面は磨き上げたガラスのように滑らかで、上部には見覚えのない文字が刻まれている。
「異界の者よ。名を」
「高瀬修司です」
「タカセ・シュウジ。年齢は」
「五十二歳」
今度は、はっきりとしたどよめきが起きた。
「五十二だと?」
「戦場へ出せる歳ではない」
「召喚陣に誤りがあったのでは……」
好き勝手な声が飛び交う。
修司は苦い気持ちで聞いていた。
四十歳で介護の世界へ入ったときにも、似たような目で見られたことがある。
未経験の中年に何ができる。若い者についていけるのか。いつまで続くのか。
十二年経っても、最初に値踏みされるのは年齢だった。
「神託盤へ手を置け」
修司は言われた通り、白い石板へ右手を当てた。
ひやりとした感触。
直後、石板の内部へ淡い光が走った。
幾重もの文字が浮かび上がる。知らない文字なのに、召喚されたときと同じように意味が頭へ入ってきた。
名前――タカセ・シュウジ。
種族――人族。
年齢――五十二。
そして最後に、ひときわ大きな文字が現れる。
天職――《生活支援士》。
「せいかつ……しえんし?」
王が初めて聞く言葉のように繰り返した。
魔術師長が震える手で分厚い書物を開き、何度も頁をめくる。
「ございません」
「何がだ」
「天職録の、いずこにも。《生活支援士》なる職は記されておりませぬ」
広間の空気が変わった。
先ほどまでわずかに残っていた期待が、急速に冷えていく。
「剣聖ではないのか」
「大賢者でも、聖騎士でもない」
「支援士というからには、従者か何かだろう」
「生活の支援? 掃除や食事の世話をする職ではないか」
笑い声が漏れた。
修司は石板に浮かぶ文字を見つめていた。
生活を支援する。
確かに、自分が十二年間してきた仕事そのものだった。
ただし、介護とは何でも代わりにしてやる仕事ではない。できないことだけを補い、その人が持っている力を引き出し、もう一度その人らしい生活へ近づけていく。
少なくとも修司は、そう教わり、そう働いてきた。
それを知らない者たちに笑われることは、腹立たしい。
だが今は、怒りより確かめたいことがあった。
「この職業には、何ができるんですか」
魔術師長は神託盤を調べた。やがて、弱々しく首を振る。
「技能の表示が……ない」
「ない?」
「通常ならば、天職に付随する加護や技能が示されます。しかし、この者には何も」
白い石板には《生活支援士》の文字だけが光っている。
修司が目を凝らすと、その下に細い線のようなものが見えた。消えかかった文字にも思えたが、誰も気づいていないらしい。
黒い礼服の男が、大きく息を吐いた。
「失敗ですな」
その一言が、広間へ落ちた。
「ローゼンベルク卿。言葉を慎め」
王が咎めると、黒い礼服の男――ローゼンベルクは、形だけ頭を下げた。
「膨大な魔石と国庫を費やして招いたのが、五十二歳の世話係。これを失敗と言わず、何と言いましょう」
王はしばらく黙っていた。
その沈黙の間にも、修司は周囲を見ていた。
疲れ切った魔術師たち。傷の残る兵士。豪華な衣の下で痩せた王。磨かれてはいるが、細かな亀裂の走った石床。
存亡の危機という話は、嘘ではないのだろう。
だからといって、自分を勝手に連れてきてよい理由にはならない。
「元の世界へ戻る方法を探してください」
修司はもう一度言った。
「それまでは、私にもこの国のことを説明してもらいます。私に何ができて、何ができないのかも」
「立場をわきまえよ」
ローゼンベルクが目を細める。
「帰還の術も、戦う力もない異界人を、王宮で養えというのか」
「私が望んで来たわけではありません」
二人の視線がぶつかった。
先に目を逸らしたのは、壇上の王だった。
「北境のグランフェル辺境伯家より、人手を求める嘆願が届いていたな」
側近の一人が戸惑いながら答える。
「は。しかし、求めているのは兵と治癒術師にございます」
「どちらも送る余裕はない。だが、その者が生活を支える職だというなら、床に伏したベルンハルト老の世話くらいはできよう」
ローゼンベルクが薄く笑った。
「なるほど。滅びを待つ辺境なら、素性の知れぬ異界人を置くにも都合がよろしい」
修司は、その言葉を聞き逃さなかった。
「滅びを待つ?」
誰も答えない。
王は決定を告げるように手を上げた。
「異界人タカセ・シュウジを、北境グランフェルへ送る。生活支援士として、辺境伯家に仕えさせよ」
その瞬間、修司の意思とは関係なく、異世界での行き先が決められた。
救国の勇者として召喚された五十二歳の男に、最初に与えられた役目。
それは、二年間寝たきりになっている老将の世話係だった。




