第一話 夜勤の廊下から異世界へ
午前二時十三分。
高瀬修司は壁時計を確かめ、記録用の端末を机に置いた。
介護施設の夜は、静かなようで静かではない。
空調の低いうなり。どこかの部屋から聞こえる寝息。壁時計の秒針。誰かが寝返りを打つたびに、シーツがかすかに擦れる音。
二時間ごとの夜間巡視の時刻だった。
修司は懐中電灯を手に、廊下へ出た。扉を一室ずつ静かに開け、眠っている入居者の呼吸や姿勢、室温に変わりがないかを確かめていく。
三〇七号室へ近づいたとき、暗い室内からベッドの軋む音がした。
急いではいけない。だが、遅れてもいけない。
修司は足音を立てず、歩幅だけを広げた。
三〇七号室の扉は半分開いていた。
薄暗い室内で、篠原フミがベッドの縁に腰を下ろしている。八十七歳。右手はベッド柵を強く握り、裸足のまま床へ立とうとしていた。
「篠原さん」
修司は大声を出さず、彼女の視界に入る位置まで回り込んだ。
「どうしました?」
「行かなきゃ」
フミは修司を見たが、その目は彼より遠いものを見ていた。
「あの人が駅で待ってるの。お弁当も、まだできてないのよ」
夫は十年前に亡くなっている。
それを正すことは簡単だった。けれど今の彼女にとって、夫が駅で待っていることは、修司がここに立っていることと同じくらい確かなのだ。
「ご主人は朝が早かったんですね」
「そうなの。いつも私が起こしてあげないと」
「今はまだ夜中です。まず上着を着て、少しお水を飲みませんか。朝になったら、一緒に確認しましょう」
フミは不満そうに眉を寄せた。それでも、立ち上がろうとする力は少し緩んだ。
修司は彼女の正面にしゃがみ、足元を見る。
左足は膝より前に出すぎている。右足は外を向き、踵が浮いていた。このまま腕の力だけで立とうとすれば、前へ崩れる。
「足を、少しだけこちらへ引きましょうか」
修司は自分の足を見本にして動かした。フミがそれを真似る。右足だけがうまく動かない。
そこを無理に引っ張らず、踵が床につく位置までそっと導く。
「そうです。いい位置ですよ」
「立てるかしら」
「立てます。ただ、急がなくて大丈夫です」
修司はフミの腕をつかまなかった。脇の下へ手を差し込むこともしない。片手を肩甲骨の近くへ、もう片方を骨盤へ添え、自分の腰を落とす。
「大丈夫です。急がなくていいですよ。一緒に立ちましょう」
「せーの」とは言わない。
フミが前へ重心を移し、自分の足で床を踏む、その瞬間を待つ。
身体がわずかに前へ傾いた。
今だ。
修司は持ち上げず、進む方向を支えた。
フミの腰がベッドから離れる。細い両脚が震え、それでも彼女は自分の力で立ち上がった。
「ほら、立てました」
修司が言うと、フミは少し驚いた顔で自分の足を見た。
「あら。本当ね」
ベッド脇の椅子へ誘導し、上着を羽織ってもらう。白湯を半分ほど飲む頃には、フミの目から焦りが消えていた。
「朝になったら、起こしてくれる?」
「ええ。ちゃんと声をかけます」
「あなた、忘れそうな顔してるわよ」
「それは困りましたね。記録に残しておきます」
修司が笑うと、フミもつられて笑った。
再びベッドへ横になり、掛け布団を胸元まで引き上げる。床に履物や荷物が出ていないことを確かめ、手の届く場所にナースコールを置いた。
部屋を出ようとしたとき、背後から声がした。
「高瀬さん」
「はい?」
「あなたも、無理しちゃだめよ」
一瞬、返事が遅れた。
「……ありがとうございます。篠原さんも、ゆっくり休んでください」
扉を細く閉め、修司は腰に手を当てた。
右側に、鈍い痛みがある。
五十二歳。腰痛とは、もう長い付き合いだった。
それでも今夜は落ち着いている。昼間に熱を出した入居者の体温も下がった。朝まであと四時間。何も起きなければ、それでいい。
夜勤に派手な成功などない。
転倒がなかった。食事を喉に詰まらせなかった。眠れなかった人が、少し眠れた。
誰にも気づかれない「何もなかった」を積み重ねるのが、自分の仕事だと修司は思っている。
スタッフルームへ戻り、端末に記録を入力する。
『二時十三分、定時巡視にて訪室。ベッド端座位。亡夫を駅へ迎えに行くとの発言あり――』
小さな画面には、入力欄が窮屈に並んでいた。重要な情報ほど下へ追いやられ、注意書きばかりが目につく。
これを作った人間は、実際に夜勤をしたことがあるのだろうか。
そんなことを考えるのは、二十年近くデザインの仕事をしていた頃の癖だ。
誰に見せるのか。何を先に伝えるのか。どう並べれば、間違えずに読めるのか。
チラシも、カタログも、介護記録も、そこは変わらない。
もっとも、会社を離れてからは役に立たない技術だと思っていたが。
入力を終え、保存に触れた。
その瞬間、廊下の照明が消えた。
「停電?」
非常灯が点くはずだった。しかし、緑色の誘導灯まで消えている。
端末も黒い画面のまま反応しない。
修司はポケットから業務用の携帯端末を出した。こちらも電源が落ちている。充電切れではない。さっきまで十分に残っていた。
まず入居者の安全確認だ。
懐中電灯へ手を伸ばしたとき、スタッフルームの外で淡い光が生まれた。
青緑、赤紫、黄。それを縁取るような黒。
細い線が廊下の床を走り、絡み合いながら巨大な円を描いていく。塗料ではない。床そのものが発光していた。
修司は息を止めた。
円を貫く十字の印。一定の間隔で並ぶ小さな目盛り。重なり合う色の線。
奇妙な光景なのに、なぜか懐かしさを覚えた。
Macが会社に入るより前、カッターと定規で版下を作っていた頃。色ごとの版がずれないようにつけた、見当合わせの印に似ている。
ただし、これは紙に刷られた印ではない。
線が動いている。
「何なんだ、これは……」
低い振動が床から靴底へ伝わった。
修司は三〇七号室を振り返った。扉の向こうに異変はない。フミの寝息も聞こえている。
ならば、ここから遠ざからなければならない。
一歩退いたつもりだった。
しかし光の円が一気に広がり、修司の足元をのみ込んだ。
身体が沈む。
床が消えた。
修司はとっさに顎を引き、身体を丸めた。若い頃から繰り返してきた受け身が、考えるより先に身体を動かす。
肩から転がるはずだった。
だが、背中が床に触れない。
落ちている。
暗闇の中を、どこまでも。
消毒液の匂いが遠のき、代わりに湿った石と、甘い香の匂いが鼻を刺した。
耳鳴りの向こうから、幾人もの声が聞こえる。
知らない言葉のはずなのに、意味だけが頭へ直接流れ込んできた。
「光が収束するぞ!」
「召喚陣を維持しろ!」
「成功だ――救国の勇者がお越しになった!」
眩い光が弾けた。
修司の足が硬い床に触れる。勢いを殺しきれず、片膝と片手をついた。
顔を上げる。
そこは施設の廊下ではなかった。
天井の高い石造りの広間。床を埋め尽くす巨大な紋様。金糸の法衣をまとった老人たち。剣を下げた兵士。壇上には、王冠を載せた男までいる。
誰もが歓喜に満ちた顔で、修司を見つめていた。
やがて、その視線が白髪交じりの頭、くたびれたポロシャツ、名札、夜勤用の靴へと順に落ちていく。
歓声が止んだ。
広間を、痛いほどの沈黙が満たす。
その中で、誰かが呟いた。
「……なんだ、この中年男は」




