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国を立たせる介護士 ~52歳で異世界召喚された外れ職《生活支援士》、寝たきりの老将から滅びかけた王国まで再建する~  作者: 狼賀亮一郎
第一部 グランフェル辺境領再建編

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第一話 夜勤の廊下から異世界へ

午前二時十三分。


高瀬修司は壁時計を確かめ、記録用の端末を机に置いた。


介護施設の夜は、静かなようで静かではない。


空調の低いうなり。どこかの部屋から聞こえる寝息。壁時計の秒針。誰かが寝返りを打つたびに、シーツがかすかに擦れる音。


二時間ごとの夜間巡視の時刻だった。


修司は懐中電灯を手に、廊下へ出た。扉を一室ずつ静かに開け、眠っている入居者の呼吸や姿勢、室温に変わりがないかを確かめていく。


三〇七号室へ近づいたとき、暗い室内からベッドの軋む音がした。


急いではいけない。だが、遅れてもいけない。


修司は足音を立てず、歩幅だけを広げた。


三〇七号室の扉は半分開いていた。


薄暗い室内で、篠原フミがベッドの縁に腰を下ろしている。八十七歳。右手はベッド柵を強く握り、裸足のまま床へ立とうとしていた。


「篠原さん」


修司は大声を出さず、彼女の視界に入る位置まで回り込んだ。


「どうしました?」


「行かなきゃ」


フミは修司を見たが、その目は彼より遠いものを見ていた。


「あの人が駅で待ってるの。お弁当も、まだできてないのよ」


夫は十年前に亡くなっている。


それを正すことは簡単だった。けれど今の彼女にとって、夫が駅で待っていることは、修司がここに立っていることと同じくらい確かなのだ。


「ご主人は朝が早かったんですね」


「そうなの。いつも私が起こしてあげないと」


「今はまだ夜中です。まず上着を着て、少しお水を飲みませんか。朝になったら、一緒に確認しましょう」


フミは不満そうに眉を寄せた。それでも、立ち上がろうとする力は少し緩んだ。


修司は彼女の正面にしゃがみ、足元を見る。


左足は膝より前に出すぎている。右足は外を向き、踵が浮いていた。このまま腕の力だけで立とうとすれば、前へ崩れる。


「足を、少しだけこちらへ引きましょうか」


修司は自分の足を見本にして動かした。フミがそれを真似る。右足だけがうまく動かない。


そこを無理に引っ張らず、踵が床につく位置までそっと導く。


「そうです。いい位置ですよ」


「立てるかしら」


「立てます。ただ、急がなくて大丈夫です」


修司はフミの腕をつかまなかった。脇の下へ手を差し込むこともしない。片手を肩甲骨の近くへ、もう片方を骨盤へ添え、自分の腰を落とす。


「大丈夫です。急がなくていいですよ。一緒に立ちましょう」


「せーの」とは言わない。


フミが前へ重心を移し、自分の足で床を踏む、その瞬間を待つ。


身体がわずかに前へ傾いた。


今だ。


修司は持ち上げず、進む方向を支えた。


フミの腰がベッドから離れる。細い両脚が震え、それでも彼女は自分の力で立ち上がった。


「ほら、立てました」


修司が言うと、フミは少し驚いた顔で自分の足を見た。


「あら。本当ね」


ベッド脇の椅子へ誘導し、上着を羽織ってもらう。白湯を半分ほど飲む頃には、フミの目から焦りが消えていた。


「朝になったら、起こしてくれる?」


「ええ。ちゃんと声をかけます」


「あなた、忘れそうな顔してるわよ」


「それは困りましたね。記録に残しておきます」


修司が笑うと、フミもつられて笑った。


再びベッドへ横になり、掛け布団を胸元まで引き上げる。床に履物や荷物が出ていないことを確かめ、手の届く場所にナースコールを置いた。


部屋を出ようとしたとき、背後から声がした。


「高瀬さん」


「はい?」


「あなたも、無理しちゃだめよ」


一瞬、返事が遅れた。


「……ありがとうございます。篠原さんも、ゆっくり休んでください」


扉を細く閉め、修司は腰に手を当てた。


右側に、鈍い痛みがある。


五十二歳。腰痛とは、もう長い付き合いだった。


それでも今夜は落ち着いている。昼間に熱を出した入居者の体温も下がった。朝まであと四時間。何も起きなければ、それでいい。


夜勤に派手な成功などない。


転倒がなかった。食事を喉に詰まらせなかった。眠れなかった人が、少し眠れた。


誰にも気づかれない「何もなかった」を積み重ねるのが、自分の仕事だと修司は思っている。


スタッフルームへ戻り、端末に記録を入力する。


『二時十三分、定時巡視にて訪室。ベッド端座位。亡夫を駅へ迎えに行くとの発言あり――』


小さな画面には、入力欄が窮屈に並んでいた。重要な情報ほど下へ追いやられ、注意書きばかりが目につく。


これを作った人間は、実際に夜勤をしたことがあるのだろうか。


そんなことを考えるのは、二十年近くデザインの仕事をしていた頃の癖だ。


誰に見せるのか。何を先に伝えるのか。どう並べれば、間違えずに読めるのか。


チラシも、カタログも、介護記録も、そこは変わらない。


もっとも、会社を離れてからは役に立たない技術だと思っていたが。


入力を終え、保存に触れた。


その瞬間、廊下の照明が消えた。


「停電?」


非常灯が点くはずだった。しかし、緑色の誘導灯まで消えている。


端末も黒い画面のまま反応しない。


修司はポケットから業務用の携帯端末を出した。こちらも電源が落ちている。充電切れではない。さっきまで十分に残っていた。


まず入居者の安全確認だ。


懐中電灯へ手を伸ばしたとき、スタッフルームの外で淡い光が生まれた。


青緑、赤紫、黄。それを縁取るような黒。


細い線が廊下の床を走り、絡み合いながら巨大な円を描いていく。塗料ではない。床そのものが発光していた。


修司は息を止めた。


円を貫く十字の印。一定の間隔で並ぶ小さな目盛り。重なり合う色の線。


奇妙な光景なのに、なぜか懐かしさを覚えた。


Macが会社に入るより前、カッターと定規で版下を作っていた頃。色ごとの版がずれないようにつけた、見当合わせの印に似ている。


ただし、これは紙に刷られた印ではない。


線が動いている。


「何なんだ、これは……」


低い振動が床から靴底へ伝わった。


修司は三〇七号室を振り返った。扉の向こうに異変はない。フミの寝息も聞こえている。


ならば、ここから遠ざからなければならない。


一歩退いたつもりだった。


しかし光の円が一気に広がり、修司の足元をのみ込んだ。


身体が沈む。


床が消えた。


修司はとっさに顎を引き、身体を丸めた。若い頃から繰り返してきた受け身が、考えるより先に身体を動かす。


肩から転がるはずだった。


だが、背中が床に触れない。


落ちている。


暗闇の中を、どこまでも。


消毒液の匂いが遠のき、代わりに湿った石と、甘い香の匂いが鼻を刺した。


耳鳴りの向こうから、幾人もの声が聞こえる。


知らない言葉のはずなのに、意味だけが頭へ直接流れ込んできた。


「光が収束するぞ!」


「召喚陣を維持しろ!」


「成功だ――救国の勇者がお越しになった!」


眩い光が弾けた。


修司の足が硬い床に触れる。勢いを殺しきれず、片膝と片手をついた。


顔を上げる。


そこは施設の廊下ではなかった。


天井の高い石造りの広間。床を埋め尽くす巨大な紋様。金糸の法衣をまとった老人たち。剣を下げた兵士。壇上には、王冠を載せた男までいる。


誰もが歓喜に満ちた顔で、修司を見つめていた。


やがて、その視線が白髪交じりの頭、くたびれたポロシャツ、名札、夜勤用の靴へと順に落ちていく。


歓声が止んだ。


広間を、痛いほどの沈黙が満たす。


その中で、誰かが呟いた。


「……なんだ、この中年男は」

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