第十話 つながる食卓
窓辺の大きな卓から、二年間掛けられていた白い布が取り払われた。
侍女たちは朝から天板を磨き、三脚の椅子を並べ、冷たい風が入らないよう窓枠の隙間へ布を詰めている。卓上には大麦のパンと野菜の煮込み、柔らかく蒸した魚が用意されていた。領主一家の食事としては質素だったが、ベルンハルトだけが病人食を口にするのではなく、三人が同じ料理を囲めるよう、エヴァと厨房が相談して決めた献立だった。
その準備を、修司は少し離れた場所から見守っていた。
ベルンハルトを寝台から椅子へ移す作業も、昨日より滑らかに進んだ。侍女は言われる前に床の敷物を片づけ、エヴァは老将の顔色と呼吸を確かめ、兵士たちは担ぎ棒を持つ位置を自分たちで調整した。
修司が一つずつ指示しなくても、それぞれが次に何をするべきか分かり始めている。
それこそが、本当の連携だった。
「タカセ。今日は、あの光を使わないのか」
椅子へ移ったベルンハルトが尋ねた。
「必要になれば使います。でも、皆さんの動きが合っているなら、使わない方がいいんです」
「便利な力なら、使えばよかろう」
「便利だからと何でも代わりにやってしまえば、使われた側が持っている力を奪います。技能も介助も、必要な分だけでいいと思っています」
ベルンハルトは何か言いたげに修司を見たが、やがて短く鼻を鳴らした。
「相変わらず、欲のない男だ」
「欲ならあります。頭痛を起こさず、今日の食事を終えたいです」
そばにいたエヴァが、わずかに口元を緩めた。
窓辺へ運ばれたベルンハルトは、背と脇に敷物を入れ、足台へ両足を置いた。呼吸が落ち着くまで休んだあと、アマーリエとクラウディアが向かい側の椅子へ座る。
三人が同じ卓を囲んだ。
それだけの光景に、部屋の空気が変わった。
「こうして三人で食事をするのは、いつ以来でしょうね」
アマーリエが静かに言った。
「覚えておらん」
「私は覚えています。あなたが北砦へ戻る前の晩です」
それは、ベルンハルトが負傷した戦いへ向かう直前だったのだろう。
クラウディアは俯き、自分の前に置かれたパンへ手を伸ばした。領主代行として人前に立つときの強い表情ではなく、長く父の帰りを待っていた娘の顔をしている。
「冷めるぞ」
ベルンハルトが、ぶっきらぼうに言った。
「はい、父上」
クラウディアはパンをちぎり、煮込みへ浸した。アマーリエも匙を取り、ベルンハルトは肘掛けへ腕を預けながら、軽い木の匙を握った。
最初の一口を、三人がほとんど同時に口へ運ぶ。
修司はその様子を見て、胸の奥に温かいものが広がるのを感じた。
介護施設で働いていた頃も、食堂へ出たくないという人はいた。食欲がないのだと思われていたが、よく話を聞けば、食べたくないのではなく、一人で食べるのがつらいだけだったこともある。
栄養だけなら、寝台の上でも取れる。
けれど食事には、誰かと同じ時間を過ごし、自分がまだ暮らしの中にいると確かめる意味もある。
「クラウディア」
二口目を飲み込んだベルンハルトが、娘の名を呼んだ。
「はい」
「北壁の補修はどうなった」
家族の会話を始める言葉が、領地の報告なのも、この父娘らしいのかもしれない。
「排水溝の泥は、昨日のうちに半分ほど除きました。ただ、第三塔の外壁で作業が止まっています」
「なぜだ」
「守備隊長は、先に崩れた石を積み直すよう命じています。しかし石工たちは、内側へ入った水を抜かなければ、新しい石も凍結で割れると反対しています」
「隊長と石工の親方が、互いの指示には従えないと言い争っているのです。私が現地へ向かう予定でしたが……」
クラウディアの視線が、父へ向いた。
「私がここへ来るため、午後に延ばしました」
「それで食事中も、そんな顔をしていたのか」
ベルンハルトの声が低くなる。クラウディアの肩が強張った。
「申し訳ありません。すぐに食事を終え、私が――」
「違う。なぜ一人で抱えたと聞いている」
クラウディアが言葉を失った。
ベルンハルトは匙を置き、娘の顔を正面から見た。
「この二年、俺は寝台の上で何も見ようとしなかった。お前が一人で抱えるほかなかったのは、そのせいだ。だが、これからも同じにする必要はない」
謝罪というには、不器用すぎる言葉だった。
それでも、クラウディアには十分伝わったのだろう。青灰色の瞳がわずかに揺れ、彼女は膝の上で握っていた手を開いた。
「父上……」
「守備隊長と石工の親方を、ここへ呼べ。現地へ行けぬなら、向こうを来させればよい」
「ですが、父上のお身体が」
「食事が終わるまでに呼べ。疲れれば、そのあと寝る」
ベルンハルトが修司を見る。
「それなら文句はあるまい、タカセ」
「休むことまで予定に入れてくださるなら、ありません」
「まったく、誰が領主か分からんな」
その声には、かすかな笑いが混じっていた。
食事を終えたベルンハルトは、そのまま椅子でしばらく休んだ。エヴァが脈と呼吸を確かめ、まだ話ができる状態だと判断すると、クラウディアは北壁の守備隊長と石工の親方を部屋へ通した。
二人は窓辺の卓に座るベルンハルトを見て、そろって足を止めた。
「閣下……」
守備隊長の声が震える。
二年間、寝台から起き上がることもできないと噂されていた北方の獅子が、痩せ衰えてはいても、自らの目で北壁を見ている。その姿だけで、二人の顔から争っていた勢いが消えた。
「俺の顔を見に来たのではあるまい。状況を話せ」
卓の上へ北壁の略図が広げられた。
守備隊長は、崩れた外壁を放置すれば敵に弱点をさらすと主張した。石工の親方は、水の通り道を直さず石を積めば、最初の霜で再び割れると譲らない。どちらも北壁を守ろうとしているのに、見ている場所が違うため、互いを邪魔する者と考えていたのだ。
修司には、その状態がどこか懐かしく思えた。
デザインの仕事でも、依頼主は紙面の都合を知らないまま「あれもこれも目立たせたい」と望み、締め切りの間際まで修正を繰り返した。営業はその注文をいさめることなく、無理な提出時刻を約束してから制作へ持ち帰る。印刷現場は少しでも余裕のある入稿を求めるが、その間に挟まれ、限られた時間で矛盾した要求を一枚の紙面へ収めるのは、いつもデザイナーだった。
それぞれが自分の都合だけを押し通せば、最後に現場が地獄を見る。だから修司は知っていた。意見を聞くだけでは仕事は進まない。全員が何を完成させようとしているのかを整理し、同じ形で見られるようにしなければならない。
「図を、少しお借りしてもいいですか」
修司が尋ねると、守備隊長が訝しげな顔をした。
「この男は何者です」
「今は、俺の身体とこの部屋を立て直している男だ」
ベルンハルトが答えた。
「そして、お前たち二人より話を整理するのがうまい。貸してやれ」
修司は略図の横へ新しい紙を置き、木炭を手に取った。北壁全体を描き直すのではなく、問題となっている第三塔だけを大きく描く。雨水が入る箇所を青、石が崩れている箇所を赤、作業する順番を番号で示した。
文字を読まなくても流れが分かるよう、排水溝から外壁へ太い矢印を引く。
「お二人とも、目的は冬までに第三塔を安全な状態にすることで合っていますか」
「当然だ」
守備隊長が答え、石工の親方もうなずいた。
「なら、仕事を分けられます。石工の方々が水の入り口と排水溝を直している間に、兵士の皆さんは崩れた石を選別し、使える物を運ぶ。水が抜けた区画から、順に積み直す。これなら、同時に進められませんか」
二人は紙を覗き込み、しばらく黙っていた。
「兵に石を選ばせるなら、石工が一人ついて見分け方を教える必要がある」
親方が言う。
「代わりに、排水溝の泥出しへ兵を回そう。それなら石工の手を取られずに済む」
守備隊長が応じた。
先ほどまで対立していた二人が、一枚の図を挟んで役割を話し始める。修司は新しい策を考えたわけではない。それぞれが持っていた知識と目的を、同じ紙面へ並べただけだった。
そのとき、視界の端に淡い光が浮かんだ。
《共同目標を確認》
《北壁第三塔を冬までに修復する》
守備隊長から石工の親方へ、細い光の筋が伸びる。さらにクラウディア、ベルンハルト、エヴァ、侍女たちへ枝分かれしていった。
修司は反射的に力を止めようとした。
だが昨日とは違い、光は彼一人から流れ出しているのではなかった。
守備隊長の経験が石工へ、石工の知識が守備隊長へ、クラウディアの決断が二人へ伝わっていく。ベルンハルトの言葉が全員の迷いを抑え、エヴァと侍女たちの支えが、そのベルンハルトを卓の前へ座らせている。
誰か一人が中心なのではない。
全員の力が、同じ目標へ向かって循環していた。
《相互信頼――成立》
《役割認識――成立》
《仮接続を正式接続へ移行します》
部屋の中を、柔らかな金色の光が走った。
「これは……」
クラウディアが、自分の手元から伸びる光を見つめた。今度は修司だけでなく、そこにいる全員の目に見えていた。
守備隊長と石工の親方は驚きながらも、なぜか次に自分がするべきことが分かる、とでもいうように図へ視線を戻した。命令されたわけではない。考えを奪われたわけでもない。ただ、互いの役割と、足りない部分が明確になったのだ。
《技能《連携支援》を獲得しました》
《支援効果――役割共有》
《支援効果――行動損失軽減》
《支援負荷を参加者間で分散します》
修司の頭に、昨日までのような鋭い痛みは走らなかった。
代わりに、胸の奥へ静かな熱が満ちていく。自分が全員を背負っているのではない。皆が互いを支え、その輪の中に修司も加わっている。
エヴァが銀の杖を握ったまま、息を呑んだ。
「魔力を与えているのではありません。これは、皆の魔力と意思をつないでいる……だから、タカセ一人に負担が集中しないのですね」
「そんな職が、あるのか」
守備隊長の問いに、ベルンハルトが答えた。
「王都の連中は、外れ職と呼んだそうだ」
老将は椅子の背へ身体を預けながら、部屋にいる者たちを見渡した。
「俺はまだ立てん。自分の足で北壁へ行くこともできん。だが、立てぬ者に役目がないわけではない。タカセが、それを思い出させた」
低い声が、静まり返った部屋へ響く。
「この男が来るまで、お前たちは俺の傷が治っていることしか見なかった。俺自身も、できなくなったことしか見ていなかった。だがタカセは、残っているものを見た。俺の腕を使わせ、窓を開け、椅子へ座らせ、もう一度この卓へ戻した」
ベルンハルトは守備隊長へ向き直った。
「よく覚えておけ。この男の仕事を、ただの世話と侮るな」
修司は返す言葉を失った。
日本では、介護の仕事をしていると言うと、「大変ですね」と返されることが多かった。必要な仕事だとは言われても、そこに技術があり、人の人生を立て直す力があると評価されることは少なかった。
まして、印刷会社を解雇されたあとに就いた仕事だった。自分の人生が下り坂に入った証のように感じた時期さえある。
その仕事が今、異世界の老将を寝台から食卓へ戻し、止まっていた北壁の修復まで動かそうとしている。
「クラウディア」
ベルンハルトが娘を呼んだ。
「はい、父上」
「北壁の指揮権は、これまでどおりお前にある。今の方針を、お前の命令として出せ」
「父上が復帰なさるのではないのですか」
「俺は助言する。決めるのはお前だ。この二年、領地を守ってきた者から、今さら椅子に座っただけの男が権限を取り上げてどうする」
クラウディアは唇を引き結び、深く頭を下げた。
「承知しました、ベルンハルト・グランフェル閣下。領主代行として、第三塔の修復を命じます」
守備隊長と石工の親方が、同時に片膝をついた。
「御意」
二人の声が重なった瞬間、金色の光が一段強く輝いた。
《共同支援目標――受理》
《連携支援――正式接続を完了しました》
光はすぐに消えたが、部屋に残った者たちの表情は、発動前とは違っていた。
守備隊長と石工の親方は同じ図を手に、作業の割り振りを話しながら部屋を出ていった。クラウディアは修司の描いた図を見つめたあと、大切な命令書を扱うように丁寧に巻く。
「タカセ。これは私に預けてください。第三塔へ持っていきます」
「ただの走り書きですよ」
「だからこそ必要なのです。あの二人が、同じものを見て話せるようになったのですから」
クラウディアの言葉に、修司はかつての仕事を思い出した。
チラシやカタログを作っていただけだと、自分では思っていた。けれど二十年近く続けた仕事の中で、人に伝わる形を考え、ばらばらな要望を整理し、同じ完成図を共有する技術を身につけていたのだ。
介護も、デザインも、無駄にはなっていなかった。
「タカセ」
再びベルンハルトに呼ばれ、修司は顔を上げた。
「今日からお前を、グランフェル家付きの《生活支援士》として遇する。客人ではない。この領地に必要な者としてだ」
「俺を、ですか」
「不満か」
「いえ。ただ、俺はこの世界のことを、まだほとんど知りません」
「知らぬことを知ったふりする者よりましだ。それに、お前一人で何でもしようとしないことは、この数日でよく分かった」
それは修司が、介護の仕事で何より大切にしてきたことだった。
医療が必要ならエヴァへ尋ねる。家族にしか分からないことはアマーリエとクラウディアに聞く。道具が必要なら大工に頼み、身体を運ぶには兵士の力を借りる。
一人でできないことは、弱さではない。
必要な人へ、正しくつなぐ。それが《生活支援士》の役目なのだ。
「お引き受けします。ただし、無理な命令には今後も反対します」
「そこまで含めて雇うと言っている」
ベルンハルトが、わずかに笑った。
アマーリエも、クラウディアも笑っている。エヴァだけは修司の顔色を確かめるように見つめていたが、頭痛がないと分かると、ようやく表情を和らげた。
「では、タカセ」
アマーリエが侍女へ目配せすると、もう一脚の椅子が卓の脇へ運ばれた。彼女はその椅子を、修司のために静かに引いた。
「あなたも座ってください」
「いえ、ここはご家族の食卓ですから」
「その食卓を取り戻した者が、いつまでも後ろに立っているのはおかしいでしょう」
修司が迷っていると、ベルンハルトが卓を指先で叩いた。
「座れ。これは命令だ」
「無理な命令ではありませんね」
「今度逆らえば、窓から放り出すぞ」
自分では立てない人にどうやって放り出されるのだろうと思ったが、修司は口にしなかった。
空いていた椅子へ腰を下ろす。
卓の向こうには、二年ぶりに同じ食事を囲んだ家族がいる。その隣には、この世界で初めて修司の技能を理解しようとしてくれた治癒術師が立っていた。窓の外では、北壁の第三塔へ向かう兵士と石工たちが、同じ方向へ歩き始めている。
修司の視界へ、最後に一つだけ文字が浮かんだ。
《支援対象から、仲間として認識されました》
五十二歳で、それまでの仕事も居場所も突然失い、役に立たない外れ職を与えられた男は、異世界で初めて、自分の席を与えられた。
それは玉座でも、英雄の席でもない。
誰かと支え合うための、食卓の一席だった。




