第十一話 四十三人の寝台
グランフェル家付き《生活支援士》となった修司に、専用の剣も豪華な法衣も与えられなかった。
代わりに用意されたのは、灰青色の外套と、小さな木札だった。木札にはグランフェル家の紋章である獅子と城壁が彫られ、その下へ見慣れない文字が刻まれている。
「グランフェル家付き生活支援士、タカセ・シュウジ」
クラウディアが読み上げると、修司は木札を裏返したり、光へ透かしたりした。
「これが、身分証のようなものですか」
「身分証……という言葉が何を指すのかは分かりませんが、その札を持つ者には、領内の施設への立ち入りと、必要な協力を求める権限があります。ただし、兵への命令権や物資を自由に使う権限まではありません」
「十分です。むしろ、その方が安心しました」
「普通は、もっと権限を欲しがるものですが」
「人の生活に関わる権限は、大きければいいというものではありません」
クラウディアは、いかにも修司らしい答えだと言いたげに微笑んだ。
昨日、《連携支援》が正式な技能となった。ベルンハルトからは、この領地に必要な人間だとも認められた。だが一晩眠っても、修司自身に英雄になったような実感はない。
五十二歳の身体が急に若返ったわけではなく、朝起きれば腰は少し重かった。異世界へ来てから借りている服も、まだ自分のものという気がしない。ただ、その胸元に木札を下げると、ここで果たすべき役割が初めて形になったように思えた。
「それで、今日も父の部屋へ?」
「はい。昨日は長く椅子へ座っていましたから、疲れが残っていないか確認したいと思います」
「その必要はない」
開いた扉の向こうから、ベルンハルトの声がした。
老将はすでに寝台の上で身体を起こし、昨日より一枚少ない枕へ背を預けていた。そばではアマーリエと侍女が、朝食の位置を整えている。
「必要がないかどうかは、確認してから決めます」
「見ろ。熱はない。食事も自分でできる。今日は椅子へ移らず、昼まで休む。それでよいのだろう」
修司が口を開く前に、ベルンハルトが答えを並べた。
「よく分かっていらっしゃいますね」
「毎日同じことを言われれば、嫌でも覚える」
アマーリエが笑いをこらえている。侍女も、以前ほど老将の機嫌に怯えてはいなかった。
「ならば、今日は俺に張りついている必要はない」
ベルンハルトは修司を見た。
「エヴァの救護院へ行け」
「救護院ですか」
「戦で傷ついた兵、病で働けなくなった者、家を失った老人が集められている。傷を治しても戻れぬ者がいるなら、俺と同じ者があそこにもいるはずだ」
修司は返事をせず、寝台の周囲を見た。
水差しはベルンハルトの手が届く位置にあり、呼ぶための小さな鐘も置かれている。食事には軽い木の匙が添えられ、侍女はすぐに手を出さず、本人ができる部分を見守っていた。エヴァも昼には状態を確認しに来るという。
修司がいなくても、支援は続く。
それは、自分が必要なくなったということではない。自分一人がいなくても続けられる形へ変わり始めたのだ。
「分かりました。行ってきます」
「タカセ」
部屋を出ようとした修司を、ベルンハルトが呼び止めた。
「俺一人を寝台から出して、仕事を終えた顔をするなよ」
「そんな顔をしていましたか」
「少しだけな」
老将の口元がわずかに上がっていた。
館の玄関では、エヴァと一人の女性騎士が待っていた。
女性は四十代前半ほどに見えた。長身で、鉄灰色の髪を顎のあたりで短く切りそろえ、端正な左の頬には古い刀傷が走っている。その傷は顔立ちを損なうより、むしろ鋭さと貫禄を加えていた。厚手の外套の下には使い込まれた鎖帷子を着込み、腰の剣へ自然に手を添えて立つ姿には、若い騎士にはない落ち着きがあった。
「騎士団副長のイゾルデです。救護院まで、お二人の護衛を務めます」
硬い声とともに差し出された手を、修司は握った。掌には剣を握り続けた硬いまめがある。
「高瀬修司です。よろしくお願いします」
「あなたが、閣下を寝台から出した異世界人ですか」
「俺一人で出したわけではありません。エヴァ先生やご家族、侍女や兵士の皆さんに手伝ってもらいました」
「その答えも、聞いていたとおりですね」
好意的なのか、呆れているのか分からない表情だった。
三人は馬車へ乗り、領都ベルグランの北西にある救護院へ向かった。
窓から見える街は、領主館の周囲とは様子が違っていた。石造りの家々は雪に備えて窓を板で覆い、路地には薪を運ぶ荷車が並んでいる。通りを歩く人々の服は厚く継ぎ当てられ、店先に並ぶ食料も決して多くない。
「冬が近づくほど、救護院へ来る者は増えます」
エヴァが言った。
「戦傷者だけではないのですか」
「家族のいない老人や、病で働けなくなった者も受け入れています。本来なら王都から薬と資金が送られるはずでしたが、今年は三度求めても届いていません」
「王都は、北方の守りに関心がない」
向かいに座るイゾルデが吐き捨てるように言った。
「魔物も敵国も、王都の宴席までは来ませんからね」
やがて馬車は、古い石造りの建物の前で止まった。もとは修道院だったらしく、入口の上には風雨に削られた女神像が残っている。扉を開けると、薬草と汗、湿った布が混じった重い空気が流れ出してきた。
中には、寝台が隙間なく並んでいた。
腕や頭へ包帯を巻いた兵士、壁を向いたまま動かない老人、咳を繰り返す女性。治癒術師や手伝いの者たちが、その間を絶えず行き来している。誰かが水を求めれば駆け寄り、別の者が痛みを訴えれば杖をかざす。皆が動いているのに、仕事は少しも減っていないように見えた。
「現在、ここで暮らしているのは四十三人です」
声をかけてきたのは、書板と何冊もの帳面を胸に抱えた若い女性だった。
二十歳を少し越えたくらいだろう。栗色の髪を一本の三つ編みにし、鼻の上には小さなそばかすが散っている。細い指はインクで汚れ、急いで歩いてきたのか、ずり落ちそうな眼鏡を片手で押し上げていた。
「救護院の記録係、ミレイユです。エヴァ先生から、異世界の生活支援について調べる方が来ると聞いていました」
「調べる方というより、俺も今日初めてここを見るんです」
「では、一緒に調べていただけますか。治療記録はあります。ただ、何をお見せすればよいのかが、私にも分からなくて」
ミレイユは帳面を開いた。
患者の名、年齢、負傷した場所、受けた治癒術、使った薬、食事の回数が、細かな文字でびっしりと記されている。これだけの記録を一人で管理しているのなら、大した能力だった。
「よく整理されていますね」
修司が言うと、ミレイユの目がわずかに輝いた。
「本当ですか? 皆さんからは、帳面ばかり増やすなと言われます」
「必要な記録です。ただ、俺が知りたいことは、少し違います」
「違うこと?」
「自分で寝返りができる人は何人いますか。食事を一人で取れる人、身体を起こせる人、歩ける人は。それから、皆さんがどこへ戻りたいと思っているか、聞いた記録はありますか」
ミレイユは帳面をめくる手を止めた。
「ありません。傷が治っているか、病が残っているかは書いてあります。でも、今おっしゃったことは……」
「誰も必要だと思わなかったのです」
エヴァが、悔しさをにじませて言った。
「治療が終わった者は、ここを出る。それができない者は、まだ治っていないか、本人に戻る力がない。私たちは、そう考えていました」
そのとき、近くの寝台から木椀が床へ落ちた。
痩せた若い兵士が、寝台から腕を伸ばしている。手は椀まで届かない。手伝いの女性が駆け寄り、椀を拾うと、そのまま水を飲ませようと兵士の頭を抱え起こした。
「待ってください」
修司は二人へ近づいた。
「その方は、ご自分で椀を持てますか」
「右手は動きます。でも、こぼすので私が飲ませた方が早いんです」
女性の返事には、疲労がにじんでいた。怠けているのでも、兵士の力を奪おうとしているのでもない。一人で何人もの世話をするには、早く終わる方法を選ぶほかなかったのだろう。
修司は椀を受け取り、兵士へ尋ねた。
「自分で飲みたいですか」
「できるならな」
掠れた声だった。
寝台脇の小さな台を近づけ、畳んだ布で上体と右肘を支える。椀へ水を入れすぎず、半分ほどにして手渡すと、兵士は震えながらも自分で口元まで運んだ。
一口飲んだだけで息をついたが、その顔にはわずかな満足が浮かんでいる。
「こんなことを四十三人、すべてに行うつもりですか」
背後から、イゾルデが尋ねた。
「必要なら」
「あなたの手は二本しかない。救護院の者たちは、怠けているのではありません。毎日、倒れる寸前まで働いています」
「分かっています」
修司は室内を見渡した。
ベルンハルトの部屋では、一人のために家族、侍女、治癒術師、兵士が集まることができた。だが、ここでは四十三人に対し、動ける人間があまりにも少ない。一人ずつ同じ方法で支援すれば、修司も職員もすぐに倒れる。
その瞬間、視界に淡い線が浮かんだ。
一人の寝台から二人目へ、二人目からさらに奥へ。飲み水、食事、体位、排泄、傷、疲労、孤独。助けを必要とする無数の情報が、一斉に修司へ向かって伸びてくる。
《支援対象候補――四十三》
《複数の支援要求を検出》
《現在の安定接続範囲を超過しています》
《一括接続は推奨されません》
頭の奥へ圧力がかかり、視界が白く霞んだ。
「タカセ!」
エヴァの声が飛ぶ。
修司は目を閉じ、昨日できるようになったことを思い出した。
すべてを見なくていい。
すべてを、自分につながなくてもいい。
「接続しない」
声に出して命じると、四十三本の光は一本ずつ消えていった。
《連携支援――待機》
修司は寝台へ手をつき、ゆっくり呼吸を整えた。鋭い頭痛になる前に止められたが、額には冷たい汗が浮かんでいる。
エヴァが銀の杖をかざし、イゾルデは修司が倒れないよう腕を支えた。
「今のが、閣下を支えた力ですか」
イゾルデの声から、先ほどまでの硬さが消えていた。
「はい。でも、ここにいる全員を一度につなぐのは無理です」
「ならば、あなたにも救護院は変えられない」
挑発ではなく、事実を確かめる問いだった。
修司は否定しなかった。
「俺一人では変えられません」
「では、どうするのです」
修司は、帳面を抱えたまま不安そうに立つミレイユを見た。次に、疲れ切った手伝いの女性、エヴァ、イゾルデ、そして自分で椀を持った若い兵士を見る。
「まず、四十三人が何をできて、何に困り、どこへ戻りたいのかを調べます。治療の記録と、生活の記録を一つにつなぐんです」
「また帳面を増やすのですか」
イゾルデが眉を上げる。
「いいえ。忙しい人が一目で分かる形にします。誰に、どこまで手を貸すのか。誰なら別の人を手伝えるのか。それを皆で共有します」
修司はミレイユへ尋ねた。
「大きな紙と、木炭か色のつく筆はありますか」
「あります。紙は貴重ですが、エヴァ先生の許可があれば」
「使ってください」
エヴァは迷わず答えた。
「薬をもう一瓶買うだけでは、この状態は変わりません。私も知りたいのです。治したあとに、何をすればよいのか」
イゾルデは並んだ寝台を見渡し、最後に修司を見た。
「紙を一枚作ったところで、この者たちが立てるとは思えません」
「紙が立たせるわけではありません」
修司は答えた。
「ここにいる人たちが、互いに支えられるようにするんです」
ミレイユが帳面を抱え直し、修司の隣へ立った。
「何から聞けばいいですか」
「名前からです。それから、本人ができることを一つ。最後に、もう一度やりたいことを一つ聞きましょう」
「四十三人全員に?」
「はい。ただし、俺たちだけではなく、救護院の皆さんにも手伝ってもらいます」
修司の視界へ、新しい文字が浮かんだ。
《新規支援目標――救護院の支援体制を構築する》
《必要条件――対象把握・役割共有・相互協力》
《連携支援――開始条件未達》
すぐに奇跡が起きるわけではない。
四十三人の傷が一度に癒えることも、全員が立ち上がることもない。
それでも修司は、最初の一人の名前を書き取るため、ミレイユが広げた紙の前へ腰を下ろした。
ベルンハルトを寝台から出したときも、始まりはたった一杯の水だった。
今度は、四十三人分の暮らしを取り戻す仕事が始まろうとしていた。




