第十二話 できることを一つ
救護院の食堂として使われている部屋に、大きな紙が広げられた。
紙は粗く、ところどころ繊維の塊が浮いている。日本で使っていた真っ白な上質紙とは比べようもなかったが、木炭で線を引くには十分だった。
修司は紐を定規代わりにして、紙を縦に四つへ区切った。
「名前、治療の状態、今できること、もう一度やりたいこと。この四つを一人ずつ書いていきます」
「困っていることは、書かないのですか」
隣に座るミレイユが尋ねた。机の上には、彼女が救護院で使ってきた分厚い帳面と、何枚もの書き損じが積まれている。
「もちろん聞きます。ただ、最初から困っていることばかり並べると、その人が何もできない人に見えてしまいます」
「実際、できないことがあるから救護院にいるのでしょう」
壁際に立つイゾルデが言った。
「はい。でも、すべてができないわけではありません。右手なら動かせる、寝返りならできる、文字を読める、隣の人へ声をかけられる。それも支援に必要な情報です」
修司は、四つに区切った紙のうち「今できること」の欄を、ほかより少し広く取った。
介護の記録にも、食事、排泄、入浴、更衣、移動など、介助が必要な項目は細かく並んでいた。けれど、その人ができないことだけを見て支援を組み立てれば、やがて本当に何もできなくなってしまう。
残っている力を使える環境を作り、難しい部分だけを補う。それが修司の仕事だった。
「四十三人分となると、この紙一枚には収まりません」
ミレイユが紙面を見渡しながら言う。
「これは全員を並べるための紙ではありません。まず一人分を作って、何を記録すれば現場で役立つのか確かめます」
「試作品、ということですか」
「そうです。いきなり四十三人分作って、使えなければ紙も時間も無駄になりますから」
修司がデザインの仕事をしていた頃も、最初から完成品を大量に作ることはなかった。依頼主の要望を聞き、ラフを作り、修正し、印刷へ回せる形に整える。締め切り間際の無茶な修正には何度泣かされたか分からないが、試す段階を飛ばせば、最後にもっと大きなやり直しが待っている。
「最初は、昨日の兵士にしましょう」
エヴァが言った。
「自分で水を飲んだ方ですね」
「ロルフ。二十四歳。五か月前、左の太腿を魔物の角で貫かれました。傷と骨は治癒術で修復しています」
エヴァは治療記録を開き、修司とミレイユへ見せた。
「ただ、傷が塞がったあとも左脚へ力が入らないと言い、寝台から起きられません。以前、一度だけ立たせようとしましたが、その場で崩れ落ちました。それ以来、本人も無理だと思っています」
「あれは、立たせたとは言わん」
イゾルデの声が低くなった。
「二人の兵が両脇を抱え、無理に引き上げた。倒れたロルフは、それきり自分の脚を信じなくなった」
「ご存じなのですね」
「私の隊にいた兵です。剣の腕は並でしたが、馬の扱いだけは誰にも負けなかった」
イゾルデはそれ以上言わなかった。しかし、救護院の現実を突きつけるような厳しい言葉の裏に、部下を戻せなかった悔しさがあることを修司は感じた。
四人がロルフの寝台へ向かうと、彼は昨日と同じ場所で天井を見つめていた。右手の届く位置には、水を半分だけ入れた木椀が置かれている。
「今日は自分で飲めたんですね」
修司が声をかけると、ロルフは気まずそうに視線を逸らした。
「昨日、あんたが近くへ置いていったからな」
「置く場所を変えただけで、飲んだのはあなたです」
「そんなことで褒めるな。子供じゃない」
「褒めているのではなく、できたことを確認しています」
修司が近くの椅子へ腰を下ろすと、ミレイユも書板を構えた。
「いくつか質問してもいいですか。答えたくないことは、答えなくて構いません」
「俺を調べて、どうする」
「どうすれば、あなたが自分の暮らしを取り戻せるか考えます」
「治癒術師にも治せなかった脚を、世話係が治すのか」
「俺は治しません。それはエヴァ先生の領分です。俺が見るのは、治った身体で何ができて、何を手伝えば次の生活へ進めるかです」
ロルフは半信半疑のまま、エヴァを見た。
「傷は治っています」
エヴァは、今度はためらわずに言った。
「ただし、傷が治ったことと、五か月使わなかった脚ですぐに立てることは同じではありません。私たちは、それを分けて考えてきませんでした」
治癒術師が自分の不足を認めたことで、ロルフの表情がわずかに変わった。
修司はまず、寝台の上で身体を左右へ向けられるかを尋ねた。ロルフは右側へなら自分で向けたが、左脚を動かそうとすると恐怖で身体が固くなった。両腕には十分な力があり、寝台の縁を握れば上体も少し持ち上げられる。
「左脚に触れられている感覚はありますか」
「ある。痛みもない。ただ、力を入れたつもりでも動かん」
「そこは、エヴァ先生に確認してもらいましょう」
エヴァが銀の杖を脚へかざし、筋肉と神経に相当する魔力の流れを丁寧に調べた。
「大きな損傷は残っていません。ただ、使われていないため流れが細くなっています。すぐに立たせるのは危険ですが、少しずつ動かすことはできるはずです」
「今日は立ちません」
修司は、ロルフにもイゾルデにも聞こえるようにはっきり言った。
「立てるかどうかを試す前に、寝台の上でできる動きを確かめます。立つ練習が必要なら、エヴァ先生と相談して別に計画を作ります」
「ずいぶん慎重だな」
イゾルデが言う。
「一度の失敗で、この人は五か月、自分の脚を信じられなくなりました。次は失敗しても戻れるやり方にします」
修司が意識をロルフ一人へ絞ると、淡い線がゆっくりと現れた。
《生活動作把握――対象限定》
《対象――ロルフ》
昨日のように救護院中から情報が押し寄せてくることはなかった。ロルフの肩、腕、腰、両脚へ伸びる線だけが見える。右腕と体幹の線は濃い。左脚の線は細いが、途切れてはいなかった。
《残存能力を確認》
《右上肢・体幹――使用可能》
《左下肢――出力低下・経路残存》
修司は結果をそのまま断定せず、エヴァへ伝えた。
「俺の技能でも、左脚への流れは残っているように見えます。ただ、どこまで動かしてよいかは分かりません」
「私の見立てと同じです。今日は、痛みが出ない範囲で膝を少し曲げ伸ばしするところまでにしましょう」
必要な情報を得たところで、修司は意識してロルフとの接続を閉じた。
《対象接続――終了》
頭痛も、視界の霞みも起きていない。一人へ対象を絞り、必要なところだけを見るなら、技能は安定して使えるようになっていた。
修司はうなずき、ミレイユへ目を向けた。
「今の内容を、どう書けば忙しい人にも分かると思いますか」
「文章にすれば……『右腕と上体は自力で動かせる。左脚は治療済みだが力が弱く、立たせることは禁止。エヴァ先生の確認のもとで――』」
「正確ですが、長いですね」
ミレイユは書きかけた筆を止めた。
「では、どうすれば」
修司は新しい小さな紙へ、人の身体を簡単な線で描いた。右腕と上体には丸をつけ、左脚には三角をつける。横には、木椀、寝返りする人、椅子、靴をできるだけ単純な形で描いた。
「丸は一人でできる。三角は手伝いがあればできる。交差させた印は、今は行わない。文字が読めない人でも、これならある程度分かります」
「絵で、動きを記録するのですか」
ミレイユは眼鏡を押し上げ、紙へ顔を近づけた。
「絵だけでは足りないので、詳しい内容は帳面に残します。寝台には、今必要な情報だけを置く。誰にでも見せてよい内容かは、本人にも確認します」
修司はロルフへ紙を見せた。
「あなたのことを、勝手に印へ置き換えるつもりはありません。この紙を寝台のそばへ置いてもいいですか」
ロルフは、自分の右腕につけられた丸を見つめた。
「左脚のところに、もう一つ書け」
「何をですか」
「馬だ。俺は厩舎へ戻りたい」
イゾルデが息を呑んだ。
「隊へ戻りたいのではないのか」
「剣を持っても、俺は大した役に立たん。だが、暴れる軍馬を落ち着かせられる奴は少ない。立てるようになったら、また馬の世話をしたい」
それは、ロルフが五か月間、誰にも尋ねられなかった望みだった。
修司は紙の一番下へ、小さな馬の横顔を描いた。
「これを、目標にしましょう」
「絵が下手だな」
「馬を描く仕事は、あまりなかったので」
「私には馬に見えます」
ミレイユが真面目に言い、ロルフが初めて小さく笑った。
四人が次の寝台へ移ろうとしたとき、奥から手伝いの女性が洗った布を山ほど抱えてきた。そのうち何枚かが床へ落ちる。
「待ちなさい。踏んだら、また洗い直しになるよ」
窓際の寝台から、しわがれた声が飛んだ。
白髪の老女が上体を起こし、床の布を指している。手伝いの女性が慌てて拾うと、老女は不満そうに続けた。
「そこへ持っておいで。畳むくらいなら、まだ私にもできる」
「ですが、グレーテさんは患者ですから」
「熱は十日も前に下がったよ。寝ているだけの方が、身体が腐りそうだ」
修司とミレイユは顔を見合わせた。
「二人目が、見つかりましたね」
ミレイユが言った。
エヴァがグレーテの状態を確かめ、寝台ではなく背もたれのある椅子で短時間過ごすことを許可した。修司たちは窓からの冷気を避けた場所へ椅子と小卓を置き、無理のない量の布だけを渡す。
グレーテは一枚ずつ布の端を合わせ、手際よく畳み始めた。
手伝いの女性は、空いた時間で別の患者の水を交換できる。グレーテも、世話を受けるだけの人ではなく、救護院の仕事を担う一人になった。
「なるほど」
イゾルデが、畳まれていく布を見ながら呟いた。
「あなたが探しているのは、助けなければならない者の一覧ではないのですね」
「それも必要です。でも同時に、誰が何を助けられるかも探しています」
昼を過ぎる頃までに、調べられたのは七人だけだった。
四十三人のうち、まだ六分の一にも届かない。大きな紙には空白が多く残り、ミレイユの帳面にも、新しく書き足すべき項目が次々と増えている。
「今日中には終わりませんね」
ミレイユが、少し悔しそうに言った。
「終わらせようと急げば、聞き落とします。続きは明日でいいんです」
「だが、明日も四人で七人ずつなら、全員を調べるだけで六日はかかる」
イゾルデの指摘は正しかった。
すると、寝台からロルフが声を上げた。
「西側の列なら、俺が聞ける」
「あなたが?」
「五か月も一緒に寝ているんだ。名前も、どこが悪いかも知っている。やりたいことまでは知らんが、話を聞くくらいなら寝たままでもできる」
修司の視界に、ロルフから隣の寝台へ伸びる細い光が見えた。
《新規役割を検出》
《ロルフ――聞き取り補助》
《支援対象から支援参加者へ移行可能》
「では、お願いできますか。ただし治療の判断はせず、本人の言葉をそのまま聞いてください」
「分かっている。俺は治癒術師じゃない」
「明日、私が書き取りに来ます」
ミレイユが言うと、ロルフは照れくさそうに鼻をこすった。
昨日まで、自分では水も飲めないと思われていた兵士が、今日はほかの患者の望みを聞く役目を引き受けた。
魔法で脚が強くなったわけではない。まだ立つこともできない。
それでも、彼はすでに一つの役割を取り戻している。
修司はロルフの寝台に置かれた小さな紙を見た。丸のついた右腕、三角のついた左脚、そして一番下に描かれた不格好な馬。
人を表すのは、傷の名前だけではない。
できることと、戻りたい場所。そして、誰かのために使える力もまた、その人の一部なのだ。
四十三人分の空白は、まだほとんど埋まっていない。
だが最初の一人は、支えられる側から、誰かを支える側へと動き始めていた。




